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第七章『シェラドレイウス』(5)

 シェラはタータハクヤが下水に逃げ込んだのを確認すると、おもむろに剣を鞘に納めた。既に十人ほどが彼によって斬り殺されており、恐怖に駆られる者も多く、カエーナがシェラの圧殺を指示できる状態ではなかった。数人の兵が屋敷へと戻り、弓矢を持ってくるまでの間、この場には奇妙な沈黙が流れていた。

 逃げるならば、これが絶好の機会である。だが、足のないタータハクヤは下水道の脇道を這って逃げるしかない。シェラがこの場を去ればたちまちに捕らわれるだろう。

 戦場での迷いは誤判断よりも確実に、死に直結する。そういったことが思考よりも肉体に染み付いているシェラは、しかしこの場を一歩も動くこと叶わなかった。

 シェラはカエーナの方を見た。その気になれば精鋭をけしかけることも出来るというのにそれをしない。

(はは……こいつ、本当に戦争をするつもりだ)

 弓を持った数人が駆けつけた。カエーナが目をやると彼らはすぐにシェラに向けて弦を引き絞った。シェラはそれに動じることもせず、悠長なことに口を開いた。

「シェラドーという名を知っているか?南海に棲むとされる悪魔の名だ」

 自身に言葉が向けられていると知ったカエーナは、小さく右手を上げた。十人ほど整列した射手は構えたまま止まった。

「知っている。疫病を運び、船ごと人を呪い殺すのだろう。悪魔シェラドーには剣も弓も通じぬという。南海でシェラドーに出会った者は、皆死を覚悟するのだとか……」

「ふっ……物知りだな、カエーナ。そういえばお前はダイスに行っていたな。ならば、悪魔の噂も知っていよう」

 カエーナが小さく笑った。シェラのこの口ぶりは、明らかにカエーナを挑発している。


――俺と一騎討ちをしろ!


 だが、カエーナは取り合わなかった。シェラが恐ろしいのではない。このまま射手が矢を射掛けるだけでシェラは死ぬ。まさが自分がシェラに劣るとは思っていないが、遁走(とんそう)する可能性が高い。何せ南人は逃げ場のない船上戦闘で鍛え抜かれた連中である。クーン人の思いも付かない戦闘思想は、流石のカエーナにとっても警戒に値した。それにクーン剣士団とペイルローン一族、そして王宮をも敵に回したカエーナにとって、これは前哨戦に過ぎないのだ。後顧の憂いは断っておくに越したことはない。

 シェラは両手を左右の腰に差した短剣の柄に添えるようにして、悠然と構えている。

「今度、南人に会うことがあったら伝えておこう。悪魔シェラドーは愚かにも神の尾を踏み、(ほふ)られた――とな」

 カエーナがそう言って右手を振り下ろすと、空気を裂く音と共に矢が放たれた。



 この世に地獄があるとすれば、それはこの場所だろう――と思いながら、タータハクヤは凍りついた泥にも似た地面の上を這って行く。

 月の光の届かない闇の中を手探りで進む恐怖は、言葉にするまでもない。

 捕えられれば死ぬ。屋敷内での自分に対する扱いからそれはわかる。シェラが命がけで逃がしてくれたというのに、歩みを止めることなど出来ない。

「痛っ――!」

 前方の闇を探っていた手が尖った何かに当たった。血が出ているか確認しようとしても、地下水道の闇はターハクヤから視界の全てを奪っていた。

 臭いを嗅いでみても、吐き気のする悪臭がするだけだ。冬の夜の寒さに痺れた手がわずかに熱を帯びているのを感じたところで、タータハクヤは指の先から出血していることを知った。

 一体どのくらいの間、こうやって進んできたのか、タータハクヤにはもはや分からない。剣戟の音が聞こえなくなってから大分経つから長い距離を這って来たような気がするし、最初にいた場所からあまり離れていないような気もする。

 ヘドロの流れる不愉快な音と、自分の息遣いだけがこだまする空間をいつ抜けられるのかと思うと、自然に涙が溢れ出てきた。いや、そういえばずっと頬が濡れていた感覚が残っているから、彼女は泣きながら闇の中を這ってきたのだ。

 前方の遠くの方か、あるいはすぐ近くかも知れないが、わずかに光が射した。朝になったのかと思い、乳を探す赤子のような足取りで前に進む。

 そこは小さな空洞であった。見上げると人の背丈の三倍くらいの高さに夜空が見えた。

 人の気配がした。タータハクヤは思わず夜光を浴びていた自身を闇の中に戻した。

「いたか?」

「いや、いない。もう少し先のほうに逃げたのかも知れん。だが、それほど遠くには行けないはずだ」

 話し声は二人だが、地上には数人の気配がある。タータハクヤが朝日と勘違いしたのは、彼らの持つ炬火であった。

「どうする。降りてみるか?」

 太く暗い声がそういった時、タータハクヤは全身が怖気立つのを感じた。自分のすぐ隣で死神が何かを囁いているようでもあった。

(嫌よ。来るな……降りて来るな――!)

 息が切れてきた。鼓動の音があたり一体に響いているような幻覚さえする。

 ふと、吐いた息が夜光に照らされて白むのを見たタータハクヤは呼吸を止めた。震える手も拳に握って耐えた。

「いや、いいだろう。地下は他が当たっているからな……」

 竜の(いなな)きと共に、地上の気配は去った。だがしかし、タータハクヤは安堵の息をつけなかった。既に下水道にも追手が放たれていることを知ったからだ。

 そして、このことが何を意味するのかは、考えるまでもなかった。

(嗚呼……)

 出来るだけ遠くへ、タータハクヤは自分がどの方角に向かっているのかは全く分からなかったが、それでもがむしゃらに闇の中を這った。ヘドロの中を行くときは、全身が浸かるのを厭わずに進んだ。傷口や股間が汚水に浸った時の不快感は絶叫に値したが、それでも行くしかなかった。タータハクヤは自身が、シェラの無事を祈るとかいった甘えすら許されない存在に堕ちたことを知った。



 しばらく進むと、突き当たりに至った。地上に向かって空洞の開いた、下水の流れ込む場所である。わずかに空が白んでいた。運良く西区から抜け出せたとしたら、ここから人を呼べば助かるかもしれない。だが、予想だけでそれを行うのは危険すぎる。

 少しの間空を見上げていたタータハクヤだったが、汚水の流れ込む音が微かに乱れていることに気付いた。

 振り返ると、幾つかの小さな光が百歩ほど向こうで揺らめいている。乱れた水音はそれらが近づくにつれて確かに人の足音に変わってゆく。

 頭がパニックを起こしそうなのをすんでで堪えたタータハクヤは、近くの物陰に隠れようとしたが、そのようなものはない。それに闇の中を這ううちは気付かなかったが、上方から射す光が増すに連れて、自身の這ってきた道に確かな跡が残っていることを知った時、彼女の恐怖は頂点に達した。

 迫り来る足音に耳を済ませていると、なにやら弦を弾く音が聞こえた。不浄の世界に似つかわしくない旋律である。何者かが地上で琴を弾いているらしい。直上からではなく、もう少し離れた場所から聞こえる。

 炬火は躊躇うことなくこちらに進んでくる。タータハクヤは音のする方を探して左右を見渡した。

 子供一人が入れるかどうかという大きさの穴を見つけた。どうやら汚水の流れ込む支流とも言うべき穴で、なだらかな角度で地上に続いているようだった。琴の音はこの先から響いてきた。

 思わず手を組んで神に祈ろうとした自分を急かしつつ、タータハクヤはその穴に飛び込んだ。

 傾斜が緩いといってもタータハクヤには踏みとどまるための足がない。両手両肘に神経を集中することで、ずり落ちる身体を必死で支えながら、タータハクヤは地上を目指した。そこに待つのはやはり追手かもしれない。だが、そこから先は考えないようにした。どちらも死ぬと分かれば、己はこの狭い空間で自決して果てるしかないではないか。

 つい先ほどまで自分のいた場所に、何者かが駆けつける音が聞こえた。タータハクヤは穴の中をよじ登るのを止めて、息を殺した。真っ直ぐ見据えた先には地上が見えるという場所で、タータハクヤは停止した。

「行き止まりだぞ……」

「おや、足跡が途切れているな。上に登ったか……」

 追手の声だけが聞こえるというのは、何も分からぬよりもかえって恐怖を増幅した。タータハクヤは彼らが諦め、引き返すまで正気を保つ自信がなくなってきた。

「いや、まさかそれはないだろう。足のない身でこれをよじ登れるはずがあるか」

「助けを呼んだのでは?」

「それはないな。このあたりの下水は既に封鎖してある。地上に誰かいたとしても、援けようがないだろう」

 追手の声はそこで途切れてしまった。もう、両腕で自身の体重を支えるのも限界が近いタータハクヤは早く去ってくれと祈るばかりである。

 腕が震えてきた。その震えですら、わずかな音を立てれば追手に気取られるかもしれない。

 突然、手がわずかに熱を帯びた液体に触れた。地上の穴から流れ込んでくるそれは、何者かがすぐそこで済ませたものであるらしいかった。

 凍りついた壁面がわずかにぬるみを帯びた。タータハクヤが指先に力を込めて壁に張り付こうとすればするほどに、それは顕著になってゆく。

(嫌よ……嫌。まだ死にたくない。私は死ねないのよ!)

 ずるずると、支えのおぼつかなくなった身体が地下へとずり落ちてゆく。それが急激に起こった時、タータハクヤはずっと押し殺してきた悲鳴を放ってしまった。

「きゃ……」

 壁を叩くようにして手を出すと、急激な落下は止まった。だが、彼女の一瞬の不覚は当然ながら地下にいる者たちの知ることとなった。

「おい、こんなところにいやがった!」

 その声と共に強烈な力で(すそ)が引っ張られた。追手の手がわずかに膝の先――彼女にとっては足の先端――に触れた時、タータハクヤは絶叫した。

「嫌――!」

 タータハクヤは必死で抵抗した。壁に爪を立て、自身が落下しないようにしがみついた。

(どうして……どうして私がこんな目に遭うのよ。タータハクヤはまた滅びるの?こんなところで滅びるために今まで生きてきたわけじゃないわ!)

 タータハクヤは無我夢中で纏っていた衣を脱ぎ捨てた。全裸になれば死ぬほど寒いはずだが、そのようなことを感じている暇は無かった。指の爪が剥がれ落ちたことにも気付かぬまま、彼女はようやく地上に這い出た。

 彼女を迎えたのは、追っ手ではなく、物乞いの琴師であった。



 落ち着いた家屋の並ぶ周囲の景色からして、ここは貧民街ではない。西区は出ていないが、中央通りに近い場所であるようだ。

 琴師は汚水にまみれた全裸の女を見て、当然ながら驚いた風であった。しかし取り乱さないのを見ると、多少は肝が太いらしいとタータハクヤは思った。

「悪漢に追われています。お願いです。助けて下さい。私は八代タータハクヤ。助けていただければ恩には報いるつもりです」

 本人は必死であるから気付かないが、他人を説得できるような言葉ではない。第一、下水から這い出てきた一糸も纏わぬ女が貴族であるなどと誰が信じるものか。

 タータハクヤは琴師の顔を見た。顔に鼻筋を断つようにして斜めに傷が走っている。年は三十から四十前半に見えるが、どうにも外見から年齢を推し量るのが難しい顔をしている。元敗残兵の物乞いなど珍しくはないが、多少の気味の悪さはある。大体、下水の目の前で琴を弾いているような人物の正気を疑うべきかも知れない。

 琴師は何も言わずにタータハクヤを手招きすると、琴入れの黒い箱を指差した。子供一人がようやく入れるほどの大きさだが、足をたたまないで済むタータハクヤが隠れる分には足る。

「貴方の御厚意は終生忘れません……」

 そう言ったタータハクヤは箱の中に身を潜めた。

 入れ違えるようにして、数人の男達が駆けつけた。

「今、ここから女が一人出てこなかったか?」

「へい、何だって?」

 琴師が大声で答えると、先頭の男が再び問うた。

「今、ここから女が出てきたはずだ。足のない女だ」

 ほっほっ――と琴師は笑い出した。

「おう、女か。女はええぞぉ。ありゃ望南戦争のときだったかよ。俺はあん時ゃ西都にいたんだが、南人の捕虜にえらい別嬪の女がいてよぉ……」

「ちっ、物狂いか…」

 男は舌打ちすると、すぐさま仲間を下水の方にやった。その間も、琴師の話は続いたが、南人の女戦士をどう(なぶ)ったとかいう聴くに耐えないものだった。

(貴様らのような下衆ばかりであったから、クーンは負けたのだ!)

 追手の男の顔はそう言っているらしかった。

「ここにはいない。どうやら出口が幾つかに分かれているらしい。もう少し遠くに行ったのかも知れん」

 仲間が戻ると、追手の男は琴師の傍らにある黒い箱に目をやった。彼はそれを小さく蹴ると、仲間を連れて去った。確かに箱は大人の女一人が身を隠すには小さ過ぎたが、彼は自身で口にしたにも関わらず、タータハクヤに足がついてないことを放念していたのだ。

 この瞬間も含めて、この日のタータハクヤは幾度肝を潰したか分からない。


「もう大丈夫だ。だが、しばらくそのままでいるように……」

 琴師はそう言うと、襤褸(ぼろ)にも似たコートを脱いで、タータハクヤに被せた。

「有難うございます。出来ればクーン剣士団と連絡が取りたいのですが……勿論お礼の件も含めて」

「それには及ばぬよ。落魄した貴族にたかるような趣味はない。クーン剣士団の連中なら既に呼びにやった。もっとも、俺ならエリリスを後見にしたりはしないがね……」

 そろそろ落ち着きを取り戻してきたタータハクヤは、この男の取った行動がいささか常軌を逸している点に気付いた。もし、先ほどタータハクヤが発見されていたなら、彼は真っ先に切り殺されていたはずだ。それに口ぶりからして、どうもクーン剣士団と繋がりのある人間にも思えない。

「失礼ですが、貴方は一体……」

 箱の中で身体を震わせながら、タータハクヤは言った。今度は恐怖ではない。恐怖が過ぎ去ったからこそ、刺す様な寒風が骨の髄までこたえるのだ。

「ただの琴師だよ。時々、南区に出て絵を描いてるがね。クーンではナバラ風の油絵よりも、ゴモラ風の水彩画の方が受けるようだから、金に困ると琴を弾くんだ」

 強い風が吹いた。同時に下水が近いせいか、物凄い悪臭がした。

「若い頃、タータハクヤ家に世話になった時期がある――とでも言えば君は満足かね……」

 タータハクヤは起き上がり、男の目を見つめた。

「あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「キツという」

 キツ――知らぬ名であるが、タータハクヤ家と関係があるならヒドゥに聞いてみる価値はあるかも知れない。聞いてどうなるという話ではないが。

「それよりも、タータハクヤ――」

 キツは貴族の女を呼び捨てた。それに抵抗のないタータハクヤではなかったが、命の恩人と言うこともあり、黙って彼の話を聞いた。

「ここは物凄い獣臭がするな」

 彼の言葉にはっとしたタータハクヤは、思わず顔を上げようとしたが、思い出したように目を伏せた。

(この獣臭は……)

 下水の臭いと思っていたが、それよりも遥かに禍々しく、覚えのある臭いである。臭いは地下からではなく、上空から放たれるものだと、彼女の直感が言うのだ。

「さて、今の君に果たして空を見上げる勇気があるかな?」

 言葉とは裏腹に、キツはタータハクヤにそれを促しているようである。タータハクヤは唾を飲み込むと、恐る恐る上空を見上げた。

 悪漢に襲われた時、タータハクヤの唱えた「西臥す黄金(アイシン)」とは金色の神龍(しんりょう)に仕える天使の名である。死と破壊を司るという天使の名を呼んだのは、彼らが人の姿をとって現れるとクーンでは信じられているからだ。だが、タータハクヤの視界に入ったそれは、アイシンよりも遥かに上位の神性を帯びていた。それは遥か上空にありながら、タータハクヤにははっきりと像が見えた。

 真っ白に染まった(たてがみ)に鹿のような角を生やしており、(わに)にも似た顎を持ち、胴は蛇のように長く、黄金の鱗に身を包んでいる。足は四つあり、どれも鷹のように鋭い爪を持っている。

「やはり、いるか。俺には見えないが、そこにいるのはどの神だ?」

「黄金の神龍(リョーン)が見えます。上空を舞っていて、まるで獲物を見定めているようです……」

 淡々とした口調でありながら、タータハクヤは歯を震わせていた。

金龍(ごんりょう)か。王国の末期(まつご)に相応しい神だな」

 タータハクヤが戦慄したまま動かないのを見ながら、キツは話を続けた。

「この世には、時代の節目とも言うべき時に神と交信する者が現れる。神を喚ぶ者、神を降ろす者、神を退ける者。これはどうやら何処ぞの誰かが破壊の神を喚んだらしいな」

 ようやく正気を取り戻したのか、タータハクヤは強い眼差しでキツを見た。

「キツ、貴方は一体何者なのです」

 キツはタータハクヤの質問には答えずに、琴の弦を弾いた。



――西臥す神は黄金の神

――余を律するは人にあらざり

――東す神は紅蓮の神

――余を乱すは人なり

――いざ人は死なんや

――神の御手をとること無かれ

――いざ人は争わんや

――神の尾を踏むこと無かれ

――天使はいずこより参る

――言の刃なきをあに問わんや

――天使は首を持って去りぬ

――犬の王はさもありなん



 歌の最中、竜の駆ける音があたりに響いた。

 キツは琴をたたむと、箱にしまわずに腰を上げた。

「何処へ行くのです?」

「剣士は嫌いなんだ。顔も見たくないほどにね。彼らは殺すだけで、何も造ることをしない。それを変えようとしたタータハクヤ家は、やはり殺された。君も心すると良い。この国はもはや死んでいるのだ。国の守り神である赤い神龍(リョーン)が去り、死と破壊の神が舞い降りた時点で、もう長くはないのだ」

 キツはそういうと足早にどこかへと消えていった。

 しばらく待っていると、一騎の竜がこちらに向かってきた。

 竜の首の向こうにロセの顔を見た時、タータハクヤは声を出して泣いた。



 気持ちの良い朝だというのに、雪が降ってきた。それは静かに地面に舞い降り、しかし儚く溶けて散る。時期的にも今冬最後の雪かもしれない。

 侘し気に降る彼らの数を、男は仰向けに寝そべったまま、静かに数えていた。

 己の五体を貫いた矢が、幾本も空に伸びているのが何やら腹立たしかったが、それもどうでもよくなってきた。

 微動だに出来ないとはこのことだろう。もう、体中が痺れて四肢があるのかどうかも分からない。

 ふと、己が生きていることを訝ったシェラだったが、孤軍奮闘した末にカエーナの手によって心臓を貫かれた感覚を憶えているだけに、もはや自分は亡霊と化したのだと思った。

 足音――確かに自身に向かってくるそれは、ゆったりとした、戦場に似つかわしくない律を持っていた。

「おや、生きているな。カエーナは止めを刺さなかったのか……」

 シェラは辛うじて声のする方に目をやった。鼻筋を断つような刀傷のある男だった。

「これだけの死体をその二振りの短剣でこさえたのか。どうりでキュローが重宝するわけだ」

 男――キツは周囲を見渡して言った。三十ほどの死体が、野晒しになっている。心なしか、キツの顔が険しくなった。

「一体いつになれば、人はこの野蛮な物語に飽くのだろうな。いや、俺が言うべきことではないか……」

 一人ごちているキツの視界には、既にシェラは入っていないようだ。

 シェラは静かに目を閉じた。

 雪が頬を濡らす感触は、確かに自分がまだ生きていることを意味していた。


――飽くまでやればいい。飽かぬなら、もはや戦いに意味などない。


 雪の落ちる音よりも小さなシェラの呟きは、キツには聞こえないようだった。

 何か、心地よい音が鳴ったような気がした。

(ああ、何だ。雪が鳴っているのか……)

 全ての光を遮断したはずの瞼の裏に、黄金の光が見えた。




七章『シェラドレイウス』了

八章『せめて鞍上(あんじょう)にて果てよ!』へ続く

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