第七章『シェラドレイウス』(2)
ザイ達がロマヌゥによって攫われた日に話を戻す。
うるさく鳴る鐘楼の下に、黒服に身を包んだ人の姿があった。覆面で顔を隠しており、その人物が果たして男であるのかも分からない。
黒服は鐘楼の下の小さなあばら家の戸を叩いた。何度か叩いたが、中から応じる声は無かった。
四度目に戸を叩いた時、小さく隙間を開けて、誰何する声。
「誰だ?」
女のように透き通った声は、この家の主のものではない。
「ロマヌゥよ。何故お前がここにいる?」
「アヴァー!」
思わず戸を開けたロマヌゥだったが、わずかに内衣を羽織っただけの姿であることを思い出したのか、襟元を引き寄せた。
「(女のような奴だとは思っていたが……)そうか、そうであったか――」
覆面がわずかに揺れた。笑っているようだ。
いつになく機嫌の良さそうなアヴァーにロマヌゥが絶句していると、壁に穴の開いたあばら家の奥から、低くうなるような声が聞こえた。
「貴様がアヴァーか……」
そういいつつ、姿を見せたのはカエーナだった。
アヴァーが小さく頷いたと同時に、抜剣したカエーナが斬りかかった。
すんでのところで鉄槌の如き一撃は止まった。アヴァーは覆面の奥から瞬きもせずにカエーナを見ている。
「この前の男とは違うな。誰だ、貴様は?」
カエーナの問いにアヴァーは迷いなく答えた。
「アヴァーだ。少なくともロマヌゥにとってのアヴァーとは、この覆面のことだ」
カエーナはロマヌゥの方を見た。
「間違いない。こいつがアヴァーだ。何度も会っているから分かる」
剣を納めたということは、カエーナがロマヌゥを信じたということである。
「話したいことがあるのだ。中に通してもらえぬかな?」
狼のような目がアヴァーの瞳を射抜いた。普通の人間ならば一瞬で目を伏せてしまうような鋭い眼光である。それに耐えたからかどうか、アヴァーは中へ誘われた。
(犬を見るような目で人を見る男だ。流石にクーンの誇る戦士というべきか――)
「カエーナよ。やはり我らに協力する気は無いか?」
覆面の奥からの声に、カエーナが答える。
「何度も同じことを言わせるなよ。貴様らの胡散臭い思想にかまけるように見えるか?」
カエーナはロマヌゥに目をやった。自分が叱られたような気になったロマヌゥはわずかに身体をすくめた。
「それは違うぞ、カエーナ。お前には思想がないから、そう思うだけなのだ。真に国を思う人間ならば必ずこの思想にたどり着く」
「ふん、やはり胡散臭い奴だ。それでは何故、アシュナ王女を攫った?」
「ほう、知っていたか」
ロマヌゥが逐一カエーナと連絡を取っていることはアヴァーも知っている。彼がわざと驚いて見せたのは、カエーナの家から薄着で出てきたロマヌゥをからかってのことだ。
(こいつ、影に徹するにしては妙に遊びの多い男だ……)
やはり、以前自分に接触してきた者とは違う。そう思いながらも、カエーナがアヴァーに興味を持ち始めたのも事実だった。いつでも殺せるという自信が、この余裕を生む。
「カエーナよ。お前がクーン剣士団を去った真の理由を私は知っている。少なくとも、私の目指す世には奴隷商人などいない。だがその世界を作る前に、お前が最も憎む者はその手でけりをつける必要がある。だから、カエーナ剣士団を使え。お前は知らんだろうが、近いうちにクーン剣士団は王によって滅ぼされる。早いか遅いかの違いだ」
「何故そこまで言える?」
「お前はチャムの拘禁が何故数ヶ月にも及んだか、考えたことはあるか?」
黙っているカエーナを見かねたのか、ロマヌゥが答える。
「チャムが投獄されたのと、カエーナに前副団長毒殺の疑惑が出た次期が重なる。これは、チャムの不在に何者かが工作を行ったと考えるのが自然だ」
そこまでは知っている、といわんばかりの表情でカエーナが反論する。
「その何者かには目星がついているのか?」
カエーナの問いに、覆面の奥の目が笑った。
「カエーナよ。自身で既に分かっていることを、相手に問うことはないだろう」
室内の空気が一瞬で張り詰めた。ロマヌゥが戸惑ったのは、アヴァーが彼にとって思想実現のために不可欠な存在だからだ。それほどに、カエーナの放つ殺気は凄まじかった。
アヴァーの表情は覗えないが、その声に震えはない。
「先ほどの問いに答えよう。アシュナ王女を攫うように指示したのは確かだが、それには目的あってのことだ」
「お前が次の王になるためのか?」
カエーナはロマヌゥとは違い、アヴァーの思想を疑っている。
「お前は王のいない世界がどのようなものであるか、想像もできないだろう。だからこそ、これからのクーンの導き手が必要なのだ。王ではない。民によって推戴された者が、国を営むのだ」
「それはアシュナ王女が平民の子を生み、初めて意味を成すというのだな?」
カエーナが鼻を鳴らしたところを見ると、どうやら彼はアヴァーの思想についてはある程度理解しているが、本当に興味が無いらしい。
(これほどの男なのに、惜しいな――)
当然ながらロマヌゥよりはカエーナに高い評価をつけているアヴァーは、彼の志の低きを惜しんだ。純粋な戦士であるが故に、それ以外のことには関心を持たない典型でもあるが。
「カエーナ……」
ロマヌゥが口を割って入ろうとするが、いうべきことが見つからないのか、黙った。
カエーナが一瞬だけロマヌゥの方を見たのを、アヴァーは見逃さなかった。その瞳に浮かぶ暖かい光は、言葉にするまでもなく、ひとつの感情であった。
(この男は、ロマヌゥが窮すれば必ず助けに来る――)
半ば確信めいた予感が、アヴァーの脳裏に走った。カエーナが指揮を執れば、雑軍ともいえるカエーナ剣士団も少しはましになるだろう。
「では、お前の好きにするとよい」
そう言って、アヴァーは立った。彼は去り際にロマヌゥに目をやって言った。
「お前に少し、試して欲しいことがある」
西区貧民街の一角に、旧貴族の別邸であった空屋敷がある。
貧しく落ちぶれた者たちの居住区に、何故このようなものがあるのかは、望南戦争以前の王都を知る者にしか分からない。王都攻防戦において大壊滅を被ったのは敵の攻撃が集中した西区と南区だが、現在は南区が商業区として復活した反面、西区の復興は依然として遅れている。
貴族の別邸の立ち並ぶ華やかな通りのあった場所は、その名残も残さずに落ちぶれ、明日を生きる糧も保証されぬ者達が集うようになった。ただ、カエーナの住む鐘楼のあたりは古くから貧しい者達が集っており、貧富によって明確に区分けされていた西区は、現在は混沌としているというべきだろう。ドルレル王が復興に興味を持たないわけではなく、南区の繁栄に力を注ぎすぎたあまりに、西区はそのあおりを受けたのだ。故に西区の住民は南区の人々にあまり良い感情を持っていない。
このようなことを全く知らないといってもよい、ザイ、アシュナ、タータハクヤの三人は、空屋敷の一室に監禁された。埃の酷い部屋で、一見、身体の弱そうなタータハクヤは平気な様子だったが、最も体力に恵まれているはずのザイが、これに耐えられなかった。
「ソプル殿、大丈夫かえ?」
酷く咳き込むザイを案じたアシュナが言う。ザイにもある程度の意地はあり、このような状況では自分がしっかりしなければと頑張って呼吸を止めてみるのだが、やはり咳き込んだ。
「王侯貴族の質は無下には扱わぬというのが、古くからの慣わしだというのに。これは酷い……」
アシュナが愚痴るのも仕方がない。牢に閉じ込められたわけではないとはいえ、戸は締め切られており、竹槍を持った見張りが常時外に立っている。何より暖気が徹底されてないのか、部屋内の空気が肌を刺すようだ。
彼女の言うとおり、貴族の捕虜については明確な規定は無いながらも、クーンの人々は甘かった。権謀術数の渦巻く世界において、捕虜の扱いは後にどのような効果をもたらすか計り知れず、故に明日はわが身ではないものの、この国では貴族の捕虜は軟禁されるのが普通であった。逃げようと思えば逃げられる、という状況の中でも忍び足を立てて逃げることを良しとしないのも、また貴族なのだ。
だが、平民と比べれば天上の人に等しい三人を捕らえるにあたり、ロマヌゥはそのような配慮をしなかった。王侯貴族の無い国を造ろうと提唱している以上、ありえないのだ。
この中で唯一、ある程度の事態を把握しているタータハクヤは、しかしロマヌゥの王女誘拐にどのような意図があるのか量りかねた。いや、彼の思想を鵜呑みにすれば二人の殺害に行き着く。ドルレル王は人質交渉に応じるような甘い人間ではないからだ。
そして、タータハクヤは自身もまた生かされているということを考えた時、ロマヌゥという男が全くわからなくなった。
(何の意味も無いのに……)
エリリス派への脅迫に使うつもりだろうかと思ったが、クーン一流の剣士達は戦いともなれば非情に徹することはロマヌゥでもわかるだろう。
ふっ――と、タータハクヤはため息をついた。室内であるのに白い息がかかった。
三人が予想していた以上に、ロマヌゥの彼女らに対する仕打ちは無情であった。
それに気付いたのは、催したアシュナが見張りを呼びつけた時だった。アシュナが言うまでもなく呼ばれた理由の分かっていた見張りは、戸の隙間から小さな甕を置きいれた。
「何じゃ、これは?」
後ろで見ていたザイは寒さと空気の悪さでそれどころではなかったが、ただタータハクヤだけが顔を真っ青にして、口をパクパクさせていた。
ようやくアシュナも気付いたらしい。
「これに――これにしろというのか?」
監禁とはいっても、何分古い屋敷で壁の所々に穴が開いている。その隙間の幾つかから自分達を覗き込む目があるのに気付いたアシュナは顔を真っ赤にして怒った。
「無礼者、無礼者!」
狂ったように壁を叩いて回るアシュナだったが、この頃には甕の意味を理解したザイが制した。
「俺が隠しといてやるから」
ザイが故郷の言葉でそういうと、意を汲んだタータハクヤは突然、外衣を脱ぎだした。これを広げてアシュナを隠そうというのだ。だが、ザイはそれも許さなかった。
「気持ちはありがたいが。君も女の子だろうに……」
そういって肩まではだけた紫の外衣を直すと、ザイは自分の衣を脱いでアシュナを覆った。そして壁側から死角になるようにアシュナを置き、彼女を隠すように座った。一度も咳払いをすることなく、口をへの字に曲げたまま。
だが、緊張のせいなのかどうか、アシュナは座り込んだままであった。じっと待っていたザイも、どうにかしてアシュナの尊厳を守ってやりたいと思ったが、ついには背後からすすり泣く声が聞こえた。
傍に居てアシュナの手を握っていたタータハクヤは、彼女を励ましたが、何の効果も無かった。
「これほどの屈辱、儂は知らぬぞ。これほどの――」
ちいさな、抜けるような音の後に、人の嫌がる音を立てて何かが甕に注ぎ込まれた。同時に、壁の向こうの目が光り、下卑た笑い声が聞こえてきた。
これは正当な怒りであると、ザイは世界中に叫びたかった。人権思想などないクーン王国においてそれを唱えるのは虚しくもあるが、ただザイは自分の妻に死に勝る屈辱を与えた者たちを憎悪した。
突然、立ち上がったザイは穴の開いた壁の方に向った。どうやら壁の目はアシュナが視界に入ったことに夢中で、ザイは死角であったらしい。
故に、突然目玉に小便を引っ掛けられた時は、悲鳴にも似た声が上がった。
「ほら、糞ども!お前らには、これがお似合いだ――」
そういいながら、壁に小便をかけて回るザイはどう見ても異常であった。この貴族の風上にも置けぬ下品極まりない行為にタータハクヤは戦慄したが、握っていたアシュナの手がわずかに和らぐのを感じた。
ザイは、どうやらまだ怒りがおさまらぬらしい。
彼が思い切り蹴りつけると、古びた戸が外れた。外に飛び出したザイはすぐさま壁際にいた男に殴りかかった。最初は怒りに任せて暴れていたが、それも近くにいた者達がザイを囲むまでの間だ。
ここに運ばれる前、顔がぼこぼこになるまで殴られたのに、その上さらにザイの顔は腫れ上がった。だがザイが少々暴れすぎたのか、見張りたちの報復は中々終わらなかった。
「畜生が――俺の顔に小便を引っ掛けやがって!」
そういいつつ、見張りの一人が竹槍を手に取った時、一声によってその場の時が止まった。
「やめろ」
ザイが腫れ上がったまぶたを辛うじてあけてみると、そこには銀髪の少年――ロマヌゥの姿があった。
ロマヌゥによって別室に連れられたザイは、それでもアシュナを侮辱した男達に対する怒りが消えていなかった。
「やれやれ、最上級神官ともあろうお方が、クーン語も解せぬとは……」
監禁されていた部屋と違って埃の払われた小綺麗な場所であった。炉の熱が十分に部屋内を満たしており、ザイは自分達に対する処遇がロマヌゥの悪意にあることを感じ取った。
「二人を連れて来い」
何かを話しかけられれば、拙いクーン語で返すのだから、ついには閉口したロマヌゥは自分の要求を呑んでくれるのではないかと思ったザイだったが、甘かった。
ロマヌゥはザイの要求を全く無視して話を進めた。とはいえ会話など出来ない。
一人の男が大きな碁盤のようなものを持ってきた。円形の板に幾つか穴が開いており、駒なのか、球状の色付きの玉が添えられている。
「何だ。将棋でもさそうってのか?」
クーンの将棋ならザイも見たことがある。古今東西、異世界ですら人間の遊びとは共通する点が多いのか、ザイの見たクーンの将棋はチェスに似た立体の駒が印象的であった。ただ、目の前の球状の駒を使う遊びは、ザイは知らない。
ロマヌゥは、ゆっくりと椅子に腰を下ろすと、卓子の上に置かれた円盤に目をやるザイに向かって、「どうぞ――」とでもいわんばかりに、手振りで何かを促した。
(何しろってんだよ……)
ふと、この少年を人質にとって脱出を図ろうとしたザイだったが、彼が右腰に剣を差しているのを見て諦めた。何よりもこれ以上暴れれば自分の命の保証がないし、アシュナやタータハクヤもどうなるかわからない。
ザイは円盤を見た。中心に黄色の大きな玉が埋め込まれており、それを八つの輪状の溝が囲んでいる。ひとつの輪につき、ひとつの穴が開いていて、どうやらそれに玉をはめ込むようだ。
ロマヌゥはさらにザイに促すために、彼の前に八つの玉を置いた。
八つの玉は、一色のものと複数の色からなるもので分かれていた。水色、青色、赤色、金色、茶色は一色で、緑色に白い筋のあるもの、金色に白い筋のあるもの、最後に青地に白と茶の斑点があるものに分かれていた。
「さあ、やってみろ。お前がアヴァーの言うような人間であるか、見極めてやる」
心なしか、ロマヌゥは不機嫌そうだった。ザイはそれが自分が暴れたからだと思っていたのだが。
じっと、円盤と玉とを交互に見ているうちに、ザイはあることに気が付いた。確信に至らぬまま、水色の玉を、円盤の中心に最も近い場所に置く。次いで金一色の玉を二番目に置いたところで、ザイは自身の予感を確信すると共に戦慄した。
三番目に青地に白と茶の斑点、四番目に赤、五番目に茶、六番目に金地に白の筋、七番目に緑地に白の筋、最後の八番目に青の玉を置き終えた時、ザイは不思議な興奮の中にあった。すでに怒りなどを通り越している自分を不思議に思ったが、仕方のないことだと納得もした。
(何でこんなものがここにある……それとも、偶然の一致だって言うのか?)
ザイの疑念は、しかしロマヌゥの次の言葉によって粉々に砕かれた。
「お前は、どこから来た?」
ザイの知るクーン語である。彼が王国に出現してから腐るほどに聞かされた言葉だ。アシュナも、ドルレル王も、アヤも、さらにはゲールまでもがザイを訪れ、同じような台詞を吐いたが、ザイは彼らに満足のいく答えを返すことは出来なかった。
だが、ロマヌゥのこの問いは彼を歓喜させるに十分な響きを持っていた。ザイは目の前の男に拉致されたことも忘れ、すぐさま三番目の輪に置いた青地に白と茶の斑点のある玉を指した。すると、ロマヌゥの眉が上がった。
ロマヌゥは、ふと――アヴァーの目的はアシュナではなくこいつなのでは――と思ったが、このような醜男が一体何の役に立つのか、見当も付かなかった。
ザイは、埃っぽく寒い部屋には戻されなかった。すぐさまアシュナが同室に呼ばれ、どうにか炉の効いた暖かい部屋で夜を越すことが出来ると知ったザイは、胸を撫で下ろした。だがそれもつかの間で、もう一人の足無しの女がいないことに気付いた。
「彼女は?」
ザイがそういうと、アシュナは首を振った。それに悲壮感は無いことから、彼女の無事を想像したザイだったが、彼は無意味とも言えるタータハクヤの監禁について深く想像するほどには事態を把握していなかったに過ぎない。