第六章『消えた貴人』(5)
もはや剣士団上層部の日課となった、カエーナ派(カエーナ剣士団)対策のための会議は、好戦派のテーベと、穏健派のエリリスの対決でしかなくなっていた。ロセとチャムはほとんど沈黙を守っており、「剣翁の孫達」とほぼ同格であるシェラは中立の構えをみせている。他の連中は一流の戦士達でありながら、政治的な論議は得意でないものが多いらしく、時にはテーベの主張に同調し、エリリスがそれに反論すればまた頷くといったことを繰り返していた。
――聖火を灯せ!
テーベが一日に一回は口にするこの言葉は、密かにリョーンを慕っていた剣士団の多くの人間を代弁するに足るものだったが、ロセが復讐を唱えず沈黙を守っている限り、誰にも行動に起こせないものであった。独断行動はシェラのような別格扱いを除けば、クーン剣士団という組織において死に値する行為である。
タータハクヤが行方不明になってから二日経った頃、いつものように不愉快な顔をして退室したテーベは、眼帯で死角になった右側にチャムが並び歩いていることに気付いた。
「どうした?」
テーベは齢四十になったばかりだが、望南戦争の頃から剣士団に名を連ねる古参である。彼が若い頃に見た英雄ラームは未だに輝きを失っていないらしく、ラームの忘れ形見であるチャムのことを、時々眩しそうな目で見る。チャムは父の威光に自分が隠れてしまうことを嫌うが、未だにラームに崇拝し続けるテーベに対しては悪い感情は持っていない。
「話がある」
チャムはそういっただけで、何処を見るわけでもなく門に向かって歩を進めた。揺れの少ない声の裏に張り詰めたものを感じたテーベは、黙ってチャムの後に続いた。
「歩きながらでいい。一箇所に留まると必ず誰かに聞かれる」
「話とは?」
「西侯の子飼の者が賊どもを操っている」
剣士団では西侯の陰謀については立証されていない。西都に部下を送り込んだテーベ自身が陰謀の尾をつかめていないこともある。だが、それでも予測のうちにはあったチャムの言葉に、テーベは驚きはしない。
「そのような報告は入っていないが……」
「草は既に刈り取られたと思った方が良い。あるいは既に我々は反間の術に陥っているのやも知れん。最後の報告はいつだった?」
間諜の最大の責務は入手した情報の定期的な提供だが、より深い場所へ潜めば、その分だけ彼らとの情報のやり取りは困難になる。
「五日ほど前だ。だが確かに……」
テーベはチャムの言うことが実際に起きている可能性を信じなかったわけではない。だが、彼のように、人を見る目を持っていると自分で思い込んでいる人間は、脳内でゴミのように浮いていた情報の切れ端が、誰かに指摘されて初めて疑問として浮かび上がることが往々としてある。
「テーベよ。しばらくの間、お前に剣士団を預けたい。恐らくその間に賊どもと対決することになる。お前が知るようにエリリスは武才に乏しい」
チャムが突拍子もないことを言うので、テーベはひとつしかない目を喝と開いた。
「意味が分からぬ。俺に剣士団を預けて何処へ行くのか?」
テーベは相変わらず狼のような眼光でチャムを見る。道行く人が剣士団の有名人でもある二人に挨拶を投げかけても、今のテーベの耳に入らない様子だ。
「テーベ。賊どもと戦うとして、その果てにクーン剣士団はどうなる?」
「どうもしない。まさか天下のクーン剣士団がカエーナを失った程度で揺らぐとでも言うつもりか?」
チャムは表情を変えないが、テーベには微かに嘲りの色が感じられた。
「それが揺らぐのだ。いや、このままでは剣士団はこの世から消滅する。二十年前、王宮で最盛を誇ったタータハクヤ家が一日にして滅んだように、このままでは我らクーン剣士団は他の誰でもない、王の手によって滅びる。お前はどうする、テーベ? ロマヌゥが西区で密かにふれ回っているように、王のいない国にでも変えてみせるか?」
ロマヌゥが正気とは到底思えない思想を西区の人間に植えつけようとしているのは、テーベでも知っている。だが、王都の人間は総じて彼の思想に対して冷ややかで、あまりの効果の薄さからクーン剣士団側から見ても特に対処すべきことではなかった。むしろ極刑に値する思想を説いて回る彼の居場所を、何物かが密告してくれればと期待を込めてすらいたのだ。
「王が……」
何がどう転べばそうなるのだろう。望南戦争ではドルレル王率いるクーン正規軍は大敗し、剣士団の前身である義勇軍の決死の抵抗によって王都が守られたというのに。ドルレル王というよりクーン王国全体が、今のクーン剣士団に大きな恩があり、それをないがしろにするなど、剣士団の人間であるテーベには思いもつかないものだった。わずかに王宮近衛兵とクーン剣士団との面子をかけた小競り合いが、時々起こるくらいで、戦中から王都の平和を守ってきたのは誇り高きクーン剣士団なのだ。
「今の剣士団に決定的に欠けているもの。わたしはそれを補いに行く……」
テーベが言葉を量りかねているうちに、チャムは足早にその場を去った。会話を区切られてしまったテーベが周囲を見渡すと、彼らの身を案じたのか、ニ、三の剣士達が後を追ってきていた。
カエーナ派との決戦を控えた状態で剣士団を放棄することは、チャムの立場を考えれば独断が許されるような問題ではない。それでもチャムがこの一大決心を団長エリリスにすら告げなかったのは、彼自身、確証がないながら、剣士団内部の動きに不穏なものを感じていたからである。
ヤーニによって剣士団を影から調査している者がいることを知ったチャムは、早速会いに行く。アドァと呼ばれるその男と接触することにより、チャムはカエーナ派の目的が西侯の支援にあることを確信した。
(もはや剣士団内部の問題ではない……)
チャムはアドァを通じて王宮との連携を画策した。堂々と王に拝謁する権利を持つロセを使えば、剣士団と王宮との結託は必ず西侯の知るところとなる。故にこの一事はチャム一人で計画実行する必要があった。後を任せるといったテーベにすら、チャムは真実を告げていない。
テーベと別れた後、寒風というにはやや明るみのある風を感じながら、チャムは王都内をうろついていた。時々、思い出したように背後を振り返るのは、尾行を恐れているというよりは、自分を尾行するものの姿を確認するためであった。
案の定、天幕の並ぶ商業区の一角に腰を下ろした時に、何物かがチャムの背後に立った。それが表立ってチャムと連絡の取れないアドァの手下であることは見ずともわかる。
「約束は果たせそうか?」
空に問いかけるような心細さで、チャムが言った。彼がアドァに注文したのは王宮近衛兵団一旅である。
「ゲール殿下が非公式にダイスを訪問なさいます。護衛は王宮近衛兵一千騎。貴方はその内半数を率いて北上して下さい」
後方から聞こえてくる声は若く、少年のようでもある。
「太子が真冬に王都を離れるのか。西侯が知れば訝るかも知れんな……」
飽くまで秘密裏にことを運ばなければ全てが水泡を帰す。アドァにそれが分からぬわけではないだろうが、チャムは不満を隠さずに言った。
「一万からなる王宮近衛兵団から一千が王都を離れるのです。アクス侯の立場であれば好機にしか見えませんでしょう」
「確かに。王宮にこのことを知っている人間はどれくらいいる?」
チャムがアドァに兵の借り入れを提案した時、ドルレル王に知らせぬようにと条件をつけたのは、王宮に潜む西侯の間人を危惧してのことで、アドァの主の一存で王宮近衛兵団を動かせるなど思っていない。
「事が急なればこそ、最低限の方々は知っているはずです」
背後の少年らしき男もそこまで知っているわけではないようだ。秘密の洩れない最低限といえば、アドァの主と、ドルレル王の耳には入ったかも知れない。戦時に辛酸をなめ尽くしたドルレル王から情報が洩れることはまず無いだろう。
「そちらの方は順調か?」
「反乱決行の正確な日時を掴みました。五日後の正午です」
「ふむ。予定通りか。太子には明日、王都を発ってもらうと、急ぎ伝えよ」
ゲールを南方のダイスに遣るのは、ドルレル王が事態を重く見ている証拠である。最悪、王都が占領されることになっても、ゲールが生きていればその旗の下にクーン王国がある。
チャムが少しうつむいたのは、肩が震えそうなのを堪えていたからだ。西侯の叛意を確信した時点で討伐軍を編成しないのは、ドルレル王の決意が並ならぬことを意味している。
(滅ぼすのだ……)
クーン王朝の最盛期はタータハクヤの先祖であるハクヤ王の頃で、現在よりも遥か南に広い領土を持っていた。それがドルレル王の代になって、ナバラ王国と激突した結果、一応は引き分けで終わったにしろ、南方の諸民族の独立を許してしまったのだ。
望南戦争を境にクーン王の威光は半減した。南方のダイスはクーンの属国であることは変わりなかったが、ナバラの介入により、南人との自由貿易という半独立を手にした。一方、戦争の英雄でもある西侯は西域の統治にドルレル王以上の権力を発揮し、西都を中心に確固たる基盤を築いた。戦前はタータハクヤ家が南方を牛耳っていたことを考えれば、西侯は彼らに成り代わったともいえる。西に王国を持つも同然の西侯が、クーン王の座を欲したとしても何ら不思議ではない。
また、望南戦争によって西侯以外に多大な利権を手にした者達がいる。クーン人が南人と蔑称する人々で、これらの多くは褐色の肌をした純ナバラ人ではなく、金髪碧眼が特徴のペイルローン一族であった。彼らは王都や西都を中継地点として、大陸の内奥部にあるゴモラ帝国との通商ルートを新たに開拓したのだ。従来のクーン商人達は、商いでは段違いの歴史を持つ彼らに次々と駆逐されていった。
それらが、間もなく清算されようとしている。王都で強勢を誇っているクーン剣士団はドルレル王から独立した自治機関であるから、西侯討伐のついでに粛清される可能性が高い。ドルレル王は二十年前に散り散りになった権力を一挙に奪い返す魂胆に違いないから、カエーナ派による内紛はいくら西侯の陰謀であっても、彼にとっては好餌でしかない。
全てがぶつかれば一体どれほどの内乱になるのか、チャムには予想もつかないが、故に一人の武人として、乱世にめぐり合えた幸運に身体を震わせるのだ。
(わたしが西侯を叩き潰す!)
わずか五百の兵でそれが出来るわけでもなく、まさか西都に乗り込むわけでもないから、チャムが心中で毒づいた言葉は決意でしかない。
チャムの把握している一連の流れを整理するとこうなる。
まず最初に王都でカエーナ派の反乱が起こる、それと期を同じくして、走竜の南下に邪魔をされないゴモラ蛮族が王都を急襲する。
王都は二方面の対応に手一杯であるから、西侯が急遽、援軍を編成しても誰も疑問に思わない。彼らは西都アクシアーブと王都クーンを繋ぐ要塞を無傷で通過し、ドルレル王を援けると見せかけてその背を斬りつけるといった手はずだ。
チャムが己と配下の一旅に課した責務は、西侯の軍が王都へ達する前に北上西進し、中継地点の砦を占領することである。クーン剣士団の副団長であるチャムが王宮近衛兵団と合同で戦線を切り開くことで、クーン剣士団は戦時、ドルレル王に吸収されるという暗黙の了解が成り立つ。ドルレル王が案じているのはクーン剣士団の自治権ではなく、戦時の独立性であることは、剣士団の中でもチャムだけが正しく理解していた。これを口にしても誰も意を汲まないほどの名門意識が、クーン剣士団に根付いている所に、チャムの孤独がある。
「……もうひとつお伝えすることがあります」
全ての連絡が終わったと思っていたチャムは背後の声がまだ続いていることを訝った。
「三日ほど前、アシュナ王女と最上級神官が都内で失踪しました。次第によっては、大掛かりな捜索が行われます」
「何だと、誘拐か?」
王女誘拐などの暴挙に出るとすれば、王のいない国家を提唱するロマヌゥ以外にありえないが、だとすればチャムの計画は大幅に狂う。西侯を後に退けぬところに誘い込むまでは、クーン剣士団は彼らとの激突を避けねばならないのだから。それに、剣士団の内紛とロマヌゥ主導による反乱では、事態収拾後のクーン剣士団にもたらす影響が違ってくる。カエーナ派がクーン剣士団の一派から、ただの反逆者の群れに変わるまで、チャムは待たねばならなかった。
チャムはロセの連れであるタータハクヤという女が何者かに拉致されていたことを思い出した。
「アドァは何と言っている?」
「今は迂闊に動けぬと。しかし、王宮近衛兵団が動く前に見つけ出さねばなりません」
「ではこちらでやろう。幸い、身内がロマヌゥに攫われているからな。王宮で騒ぎになる前には救出してみせよう」
「剣士団の人間を使うのは、いささか危険では?」
「そうには違いないが、これには適役がいる。それにしても妙手を打つものだな。アヴァーという男は……」
「はい。一見、悪手もよいところですが、敵がこちらの動きに通じているならば意味が違ってきます」
「確かに……」
チャムの脳裏に不安がよぎる。
チャムの思い描く西侯の計画では、カエーナ派は飽くまで王都の兵力を削ぐための捨て駒である。だが、ロマヌゥがアシュナを殺し、反逆を宣言した時点で、彼の思想に同調したわけではない連中の多くは霧散するだろう。そうなれば反乱を起こす以前に、カエーナ派は自壊する。
チャムとアドァの予想で一致しているのは、王都が疲弊しきった頃に西侯が兵を挙げるだろうという一事である。だが、アシュナ誘拐という不要にしか見えない一手が、西侯の目的を限りなく不透明にした。
(私の予想が誤っていたのか……)
チャムが迷っている間に、後ろにいた気配は既に無かった。これは、予期せぬ事態が起こったながらも、計画に支障は無いとアドァが判断したことを意味している。チャムはアドァよりもこだわったが、結局辿りついた答えは同じだった。
剣士団に帰る途中、上流が凍っているのか、哀れなほどに細った小川にかかる橋を渡りながら、チャムはまだ考えている。
(いや、違う。これほど大掛かりな計画に王女誘拐などを組み入れるはずがない。だとすれば、やはりロマヌゥの暴走か?)
橋の上は、いつもは地面に張った氷が荷馬車の車輪に砕かれているのだが、今日は人があまり出歩かないのか、時々、泥の混ざった雪が足跡をかたどってわずかに盛り上がっている。そのうちのひとつを踏んだのか、地面が小気味良い音を立てたとき、チャムは立ち止まった。
眼下には、今にも凍り付いて止まってしまいそうな小川が、東から辛うじてちょろちょろと流れている。水の豊かな山地に面した王都東部には水路や小川が多い。だが冬ともなればそこにあるのは凍った土だけだ。
「そんな情けない姿を晒すために、東の果てから流れてきたわけでもないだろう……」
独り言ともなれば吐いた言葉は己に返ってくるものである。チャムは自分が意味も無く口にした言葉が妙に引っかかるのを訝った。