第六章『消えた貴人』(4)
「タータハクヤ?」
アシュナはわずかに首を傾げていたが、そもそも王孫と名乗った時点でこの女が貴族であることは間違いない。だとしても、このような路地裏でみすぼらしい――飽くまでアシュナから見てだが――格好をした貴族と出会うなどありえるのだろうか。
考えているうちに、望南戦争の折にドルレル王の逆鱗に触れ、粛清された貴族がいたことを思い出した。
「ああ、あのタータハクヤか」
そういった時、女の顔色がわずかに青ざめたことにアシュナは気付かない。
「左様にございます」
「おい。どうでもいいんだが、そろそろここから離れようぜ」
さすがに砕けたクーン語までは体得していないザイは、こういう時、故郷の言葉が口をついて出る。だが身振りから、アシュナとタータハクヤは彼の意図を飲み込めたようだ。誰とも言葉の通じない世界に来てみて初めて知ったことだが、身振り手振りというのはある意味言語よりも遥かに意思の疎通に適している。反面、情報伝達の面では目も当てられないのだが。
「まずは路地を抜けて、私の連れと合流しましょう。王都警備隊の駐屯所に行くことになりますがよろしいでしょうか?」
「駄目じゃ。このことが父王に知れたら、今度こそ部屋から出してもらえなくなるじゃろう。何とか王宮の東門まで行けぬかのう?」
「僭越ながら王女殿下。クーン剣士団の内紛はご存知でしょう。王都内は平穏に見えても、エリリス派とカエーナ派とが、いつ激突してもおかしくない緊張の中にあるのです」
そういいつつ、タータハクヤは歯が浮く思いだった。彼女自身、上辺だけの平穏に甘え、車椅子を楽しむあまりにリョーン達とはぐれてしまったのだから。
「ところでナラッカよ。お前は何故このようなところにおるのだ?」
落魄した貴族がどういう道を辿るのか知らないわけではないアシュナだったが、あまりにも調度良く現れた救い手に多少の疑念を持った様子だった。
だが、タータハクヤが答えを考えているうちに、その必要は無くなった。先頭を歩いていたザイが止まったのだ。
「どうなさいました?」
足の自由の利かないタータハクヤはザイの横に身を乗り出して前方をうかがい知ることは出来ないが、この狭い路地裏が多数の人間の気配で満たされようとしていることには気付いた。
「おやおや……」
ザイを挟んだ向こうから聞こえてきた、澄んだ少年のような声に、タータハクヤは嫌な予感を覚えた。二人を守るように立っているザイの全身がわずかに固くなるのを見て、それは確信に変わった。
「確かに、どこかで見たような顔だ」
タータハクヤは凍った石のように冷たい車輪を回し、ザイの横に並んだ。幾人かの素養の悪そうな男達の先頭に立つ、銀髪の少年が目に入った。
「ロマヌゥ……」
タータハクヤは直接彼に会ったことは無いが、リョーンから人相は聞いている。少女のような顔立ちに銀の髪を三つ編みに垂らしていて、クーンではあまり見ることの無い黒衣は身体に張り付くように引き締まっており、クーン人にとっては軍服である胡服に軍靴を履いている。背は低く、男装の少女のようにも見える。
「えっと、君は確か、タータハクヤだね。赤髪のカルの調子はどうかな?」
彼の口ぶりから、カエーナ剣士団の連中が自分達のことを十分に調べ上げていることを知った。
タータハクヤは沈黙で返した。今更来た道を戻ろうが、追いつかれるのは必至だ。ロマヌゥの注意をどうにかして自分だけに向けなければならない。そう考えると、彼の問いに答えるべきであったと内心、舌打ちしたが、ロマヌゥの次の台詞でそれすらも無駄になった。
「この時勢に王女が都内をうろつくなど、ありえないとは思ったんだが。なるほど、確かに本物のようだ」
「何じゃ、この女郎は?」
馴れ馴れしく話しかけてくるロマヌゥに腹を立てたのか、アシュナは彼が最も嫌う類の言葉を吐いた。だが、世間知らずが服を着て歩いているようなアシュナのことだ。ロマヌゥも相手にするだけ無駄だと悟ったのだろう。彼はアシュナの言葉には顔色ひとつ変えずに部下に指示を出した。
「さて、これは予期せぬ収穫だったが、使わぬ手はあるまい。小賢しいエリリスが嗅ぎつける前に連れて行け」
ロマヌゥの背後にいた男達が次々に三人を囲った。
「畜生、何をしやがる!」
最も激しく抵抗したザイだったが、それだけに男達も容赦はしなかった。三度ほど顔面と腹を強く殴られると、意識を失ったのか、動かなくなった。
「ソプル殿!」
アシュナが叫んだのと同時に、体格の大きな男が彼女を抱え上げ、大きな皮袋に放り込んだ。
「この女はどうします?」
部下のその言葉に、ロマヌゥは手すりが砕けるのではないかと思うほどに身体を強張らせているタータハクヤを見た。
(どうする。殺すかな?)
用があるのはアシュナとザイだけで、タータハクヤがこの場にいたのはロマヌゥにとっても計算外なのだ。とはいえ目撃者を生かしておく必要は無い。
ロマヌゥは、ふと部下達が何かを求めるような視線を自分に投げかけているのに気付いた。
(はっ……そういうことか。所詮は下衆の群れよ)
虐げられる側にいたからこそ、何かを虐げようとする意思には敏感なロマヌゥである。とはいえ、己が信念に身を捧げた彼は、タータハクヤには同情しない。
「連れて行け。少しでも騒いだらその場で殺していい」
アシュナやザイと一緒に袋に詰められて、窮屈さと恐怖で身体を震わせながら、タータハクヤは遠くで自分を呼ぶ声を虚しく聞いていた。
「タータハクヤ殿がいなくなった?」
散々タータハクヤを捜した挙句、空の車椅子だけを持ち帰ったリョーン達は、クーン剣士団に飛び込み、ロセに泣きついた。既に日は暮れている。
ロセはリョーンについていた護衛の剣士達を見た。三人は面目の施しようもなく、打ちひしがれたようにうつむいている。カエーナの手下が目撃されていることからも、カエーナ派の連中がロセと関係の深いタータハクヤを誘拐した可能性も捨てきれない。
「南区全域を調べさせよう。だが見つからないとすれば……」
円卓の奥で席を暖めていたエリリスが口を挟んだが、彼は最後まで言い切る前に口を濁した。調度、クーン剣士団の上層部を集めてカエーナ派の対応について話し合っていた矢先であったから、この場にいる面子はクーン剣士団そのものでもある。
「そんな――!」
リョーンが取り乱しているのを見ていられなかったのか、シェラが席を立つ。
「落ち着け、カル。まだ死んだと決まったわけではない」
「当たり前だ。ナラッカが死ぬものか!」
シェラが軽々しく自分を宥めようとしたのを知ったリョーンは突っかかるような口調で返した。どこかで自分に同調してくれると思っていただけに、余計に腹が立つ。
リョーンの隣で沈黙を守っていたエトはリョーンの袖を引いた。
「駄目だよ、お姉。赤髪のカルの名が泣く」
そういったエトの声があまりにも静かなので、リョーンは驚いて彼女を振り返った。エトはリョーンのように激昂するわけでもなく、黙って焦りを押し殺すわけでもなく、悠然と構えている。彼女の視線は円卓の一角に注がれている。リョーンは誘われるようにしてその先を見た。
そこにはクーン剣士団筆頭剣士チャムの姿があった。
リョーンの視線に気付いた彼は何を言うでもなく、小さく頷いた。
(何という、潔い答えなのだろう……)
誠心誠意という言葉があるが、それにも匹敵する確信が、チャムの頷きにはあった。相手に疑う余地を与えないほどの何か、それは自信なのだろうとリョーンは思った。鋭さを常に内に隠すシェラとは対照的に、この男はありのままの自分を常に出して生きてきたのだ。そして、その生き様はどこか、義父であるロセに似ている。
それだけで安心したリョーンではなかったがここは引き下がった。タータハクヤの二の舞になってはかなわないと、ロセに自宅謹慎を言いつけられたときは目の色を変えたが、それでも彼女の反発には最初の勢いは無かった。
剣士としては半死人のリョーンと違って、エトは何かの役に立つと思ったのか、彼女だけはロセの命でクーン剣士団に残った。だが、これは常にエトより優位にあったリョーンの自尊心を酷く傷つけた。
リョーンが去った後、クーン剣士団ではいよいよカエーナ派との決戦が間近となったことについて論議された。好戦派の先鋒でもあるテーベが勢いづいたのも当然だった。だが相変わらず消極的な姿勢に終止したエリリスのせいもあって、この日のカエーナ派対策は決定的な結論を得ずに終わった。副団長のチャムがエリリスを支持したためである。指南役のロセは剣士団内部では誰よりも強い発言力を持つが、本人はクーン剣士団の頭脳としての役割を放棄している様子で、意見を出すようなことはなかった。これは、彼の職権放棄ではなく、創立から二十年経つクーン剣士団において世代交代が行われることを意味していた。ロセやエリリスといったひとつの時代が去り、チャムやテーベを初めとした新しい世代がこれからの剣士団を背負ってゆくのである。創立当初には見られなかった南人――正確にはペイルローン一族――のシェラがクーン剣士団の上層部に顔を連ねているのも、時代の流れというべきものだろう。内部分裂を起こしても、その流れは誰にも止められない。
タータハクヤを助けることも出来ず、自宅でふてくされていたリョーンは夜も遅くにシェラが訪ねてきたことを、彼が自分を慰めに来たのだと受け取った。
「カル、大丈夫か?」
想像とは違って随分と打ちひしがれた様子のリョーンを見て、シェラは少し驚いたようだった。本来の彼女なら、誰の言葉も聞かずに飛び出して行くと思っていただけに、触れれば折れてしまいそうなリョーンが、シェラには不思議だったのだ。
だが彼はこのような状態になった彼女を知っている。カエーナとの決闘に敗北した時のリョーンの顔は忘れようもない。
「何をしに来た?」
師が訪ねてきたというのに、床に寝そべったままのリョーンが言う。シェラは彼女の傍にゆっくりと腰を下ろした。特に何処を見るでもなく、黙っている。
リョーンはわずかに彼のほうを見た。稲穂のような色をした髪に吸い込まれそうな感覚をおぼえたリョーンは、自分がそこに手を伸ばそうとしていることに気付き、どこからか沸いてくる怒りを紛らわすように虚空をつかんだ。
「帰れ」
リョーンのその台詞に驚くわけでもなく、シェラは立ち上がった。何も言わずに戸を開けて去っていく後姿を見ているうちに、リョーンは自分の胸を満たしている感情の正体を知った。
(何というあさましい女だ。わたしは――!)
胸のうちに湧き上がる感情を押し殺す術も知らぬまま、リョーンはシェラの去った方を睨んだ。
南区貧民街にまでカエーナ派の手が伸びていたことは、チャムにとって予想外のことであった。クーン剣士団の頭脳は相変わらずエリリスだが、次期団長の座が約束されているチャムも二十歳を過ぎ、徐々に彼の専横ぶりに抵抗感を覚えるようになった。
神龍降臨に立会い、その時の無礼が原因で王宮の地下牢に放り込まれたことはチャムにとって突然の不幸以外の何物でもなかったが、彼がロセの鍛錬よりは軽いと嘯く――チャムは本気で言っているつもりだが――獄中生活では、これからのクーン剣士団について考える時間が腐るほどあった。
釈放されてからの一ヶ月、自分を助けるためにクーン剣士団が総力を挙げていたことに感動を覚えたチャムだったが、それでもエリリスが王の勅命でもある緘口を厳守していたことには不満を隠せなかった。チャムとは同格に近いテーベもシェラも、そしてロセも、アシュナ王女の成人の儀に何が起こったのか、自分達の配下を使って調べまわった結果、知ったのである。
(エリリスは私を捨てるつもりだったのか?)
とはいえ、カエーナ派がリョーンと接触して以後、それについて口にする暇も無かった。クーン剣士団は沈黙を装っているが、チャムが独断で王都の裏世界を牛耳る男と接触したり、テーベが西都に密偵を送り込んだりと、水面下では徐々に対決のための準備が進められていた。
チャムがこうして南区の繁華街を一人で練り歩くのは、エリリスの頭脳を超えたところに自分を置こうと試みている時である。そして、繁華街が灯篭の灯りで染まった頃、南人の経営する遊郭の奥に足を運ぶのは、彼だけの頭脳に会いに行くためであった。
「ヤーニはいるか?」
髪を短く切りそろえた小間使いの少年に言うと、暖炉のよく効いた暖かい部屋に案内された。
四角張った固い戸を開けると、クーン人が南人模様と呼ぶ波の形をあしらった柄の衣を纏う女の姿があった。体つきは細い長剣のような印象があり、眉は弧形で目に明るみがある。南人模様の衣は淡い桃色を帯びており、着る人が透き通るようでもある。長く黒い髪はどうやら遊郭での流行らしく、まっすぐに下ろしている。
女の名はヤーニという。さすがに遊郭の女だけあって、体つきは十代のそれを思わせるほどにみずみずしいが、落ち着いた仕草のひとつひとつに完成された女が見える。自分が少年の頃から彼女が遊郭にいることをチャムは知っているから、少なく見積もっても二十代後半か、三十路といったところだろう。外見から年が推し量れないのは女の努力の賜物であり、チャムは、わざわざ彼女の年齢をつきとめるほどに趣味の悪い男ではない。
ヤーニは小さな椅子に腰掛け、茶器を辛うじて置ける程度の卓子の上で茶を注ぎながら、訪れたチャムを笑顔で誘った。
「また髪型を変えたのか?」
脱いだコートを小間使いに預けながらチャムが言う。以前は団子だったり、手の込んだ三つ編みだったりしたのだが、今回は随分とすっきりして見える彼女が幾分か新鮮である。
「あら、知らなくて? 最近の流行は赤髪のカルよ」
「そうか」
チャムが小さな椅子に腰をかける間、ヤーニは小間使いが一礼して部屋を出てゆくのを見ている。チャムは少年の表情を覗うことはしなかったが、ヤーニを指名してからの彼の態度に微かな違和感を感じていた。
「あの子、可愛いでしょう」
「何だ。新しい恋人だったのか。悪いことをしたな」
「ふふ、そうね。だってあの子、子どもの頃の貴方にそっくりなんですもの」
ヤーニの少年趣味には付き合ってられないと思ったチャムは、わずかにそっぽを向いた。思い出したくないことを思い出したせいかもしれない。
「この前の件、調べがついたわ」
これもまた南人模様の入った長細い煙管に火を落としながら、ヤーニがいうと、チャムはわずかに眉を上げた。ヤーニは周囲に気を配ったが、それでも足りないと思ったのか、卓子ごしにチャムに顔を近づけると、耳元で囁いた。
(アヴァーというのは西侯の間人よ。さすがに裏が取れた訳じゃないけど、西侯がクーン剣士団を分離させて王都を揺さぶろうとしているのは確かね)
その言葉に満足したチャムが小さく笑うと、首元に息がかかったのか、ヤーニは少女のような声を出した。