第五章『暗躍』(7)
十一月も中旬が過ぎた頃、リョーンは完成した車椅子を見るために、エトを連れ立ってタータハクヤ邸を訪れた。タータハクヤもロセの関係者というだけあって、門前にはクーン剣士団から派遣された剣士の姿があった。
「やあ、ハルコナ」
もはやハルコナが歩いている様子も見慣れてしまったリョーンは、まさかこの娘が喋れないのも嘘ではないかと疑いたくなったが、ハルコナが子猫のように擦り寄ってきたので考えるのを止めた。
庭先では既にタータハクヤがテッラの手を借りて車椅子に乗っているところだった。
「ずいぶんと綺麗に仕上がったわね」
光を弾き過ぎないように、丹念に漆塗りを施された車椅子を見て、リョーンは過度の華美を嫌うタータハクヤにぴったりだと思った。背面にはタータハクヤ家の家紋が白く掘り込まれている。
「あら、リョーン、エト。いらっしゃい。見て。とても綺麗でしょう?」
二人を見止めたタータハクヤが笑顔で振り返ると、赤茶の柔らかい髪がそよそよと吹く寒風に靡いた。
「うん。これでタータハクヤも狩りにいけるね」
エトが無理なことを言うのでリョーンは呆れそうになったが、狩りは無理にしても、これからタータハクヤが外へ出るのが幾分か楽になるのは、喜ばしいことだろう。
リョーンはしばらくの間、縁側に座ってタータハクヤを見ていた。勿論、傍には恋人のように腕を組んで座るハルコナの姿がある。
「リョーン、ありがとう!」
タータハクヤがそう言うと、リョーンは何だか胸のうちがむず痒くなったが、彼女の笑顔が一瞬だけ暗くなったので不思議に思った。
「どうしたの、ナラッカ?」
リョーンの問いに、今度はテッラが目を伏せた。
「あの、実は……」
そう言って、テッラはタータハクヤの乗る車椅子をくるりと旋回させた。背面に彫られたタータハクヤ家の家紋を指差した彼女は、大変申し訳なさそうな顔をして言った。
「ここの家紋なんですが、どうやら絵師が仕出かしたみたいでして……」
じっくり見ていると、確かに、五日前にタータハクヤが見せた家紋と比べるとやや違っていた。リョーンの記憶では白い犬の絵の周りに四つの炎が描かれていたが、車椅子に描かれた家紋には犬の横に傍立つ人の絵が余計に描かれている。
「申し訳ありません。先生に言って背掛けを取り替えてもらいますので……」
「それには及びませんよ」
テッラが平謝りしていたところ、茶を汲んできたヒドゥは落ち着いた様子で言った。
タータハクヤは一瞬、強い眼差しでヒドゥを見た。祖先に重大な運命を背負わされた女であるが故に、間違えた家紋を外で見せびらかすことはタータハクヤが激怒するのに十分な理由になる。
「その家紋ですが、実は正しいのです」
タータハクヤはヒドゥの言ったことが理解できず、首を傾げた。リョーンやエトも同じで、皆の視線が年老いた使用人に集まった。
「タータハクヤ家は王族に端を発します。故に王孫の家紋は必ず白い犬と、王である証の人とで表されるのです」
「つまり、私の知っている家紋の方が間違っていると?」
タータハクヤが語気を強めるのを見て、リョーンとエトはあっけにとられてしまった。彼女にとって家紋がいかに大事なものであるかは、貴族ではない二人には想像しかできないのだから無理もない。
「いえ、そういうことではないのです」
主人の怒りを宥める様に、ヒドゥは説明を始めた。
本来のタータハクヤ家の家紋は、ヒドゥの言うように白い犬と人とが合わせて描かれるものであるが、白い犬に寄り添う人は王を意味する。つまり、車椅子に描かれた家紋はまだ王族との血縁がそれほど離れていなかった時期のタータハクヤ家の家紋であったとヒドゥは言うのだ。
「恐らく、タータハクヤ家が王孫と名乗っていた時代でしょうから、百年ほど前の家紋になります。それを彫られた絵師は、よほどの物知りです」
何やら嬉しそうに話すヒドゥを見たタータハクヤは、怒気こそおさめたものの、当主の自分がその程度の事実も知らなかったことに腹を立てたらしく、拗ねた様に口を尖らせた。
(ナラッカでもこんな顔をするんだ……)
リョーンは少し感心したようにタータハクヤを見ていた。いつも大人らしく振舞う彼女だが、一家の話になると子供のように融通がきかない。
ふと、肩に重みを感じた。話に退屈したハルコナがうとうとしている。
「今日はどうぞ、泊まっていって」
ヒドゥに持ち上げられた事もあって、すっかり機嫌を良くしたタータハクヤが言った。リョーンはハルコナが彼女を警戒しているのに気付かないわけでもないし、剣の稽古も無いのでエトと共に付き合うことになった。
エトがタータハクヤを買い物に誘うと、彼女は嬉々として応じた。ヒドゥは自分の注文で取り付けさせたベルトの機能に若干の疑問を感じたらしく、彼も付いて行った。テッラはアドァにハルコナの外泊を告げるため、一度戻った。
「じゃあ、わたしはハルコナをみているから」
リョーンは暖炉の正面に腰を下ろした。横ではハルコナが小さな寝息を立てている。
(君は不思議な娘だなぁ……)
頭の両端で団子に結んだハルコナの髪を撫でながら、リョーンは奇妙な気分になった。
赤い髪。クーン人に時々いる赤茶や白の髪とも違う。ロセは南人の中にも稀に赤い髪を持つ者がいると言ったが、リョーンの知る限りでは南人は鮮やかな金髪か、クーン人とは異なったくすんだ黒色の髪ばかりで、赤い髪をしている人になどハルコナ以外に会ったことはない。
それだけに、ハルコナを見ると鏡をつき合わされているように思ってしまう。まだ十五にも満たない少女はリョーンとは顔つきも性格も違うが、周囲の人間にとっては同じように映ってしまうのだろう。
(普通に考えると気味が悪いよね。わたし達って……)
物珍しげに見られるのは慣れてしまったリョーンだが、もしも自分がロセの娘でなかったとすればどうだろうか。クーン剣士団の連中はリョーンがロセの「お嬢様」であるが故に敬意を払うのであって、もしもリョーンがハルコナのようにただ異様な風貌をした女であったなら、自分は王都でどう暮らしていただろうか。
シェラにも、カエーナにも出会わなかったとしたら、自分は一体今頃どうしていただろうか。片肺を潰されずに、愛竜であるスサを駆って野原を走り回っていただろうか。
左肺が痛む度、リョーンはこういったことを考えてしまう。だが、情けなくなるようなこの癖にももう慣れてしまった。
(きっと誰にも出会わなかった。わたしは死んでいたのだから)
突然、ハルコナのことが、どうしようもなく哀れで、愛しくなった。だが、それすらも自分を慰めるためであることにすぐに気付いてしまった。
何故だろう。今はどうしようもなく寂しい。
王都に出るまではこんな思いをすることは無かった。気がつけばエトが傍に居たし、タータハクヤも居た。滅多に家に帰らないロセを待ちわびることもなかった。だが今は皆と一緒にいるときも心の空虚を埋めることが出来ないでいる。
(わたしは……)
寂しさに耐えられなくなったリョーンは、乳をさがす幼子のように、左腰に差した玄糸刀に手をやった。
シェラが何故、玄糸刀を抜くなと言ったのか、リョーンは三日月のように反った刀身を眺めながら考えていた。
不自然なほどに黒塗りされた短刀は、岩をも両断するような強靭な糸を織り込んで作ったと聞く。糸を織り込むなどと、どのようにして鍛えたものかは想像もつかないが、刀身は闇そのもののように暗く、拒絶するかのように光を返さない。
対してシェラの族名を冠した懐剣ペイルローンはどうだろう。赤々とした鞘に銘が刻まれており、刀身までも朱い。まっすぐに伸びた剣は炉で燃える炎に微笑みかけるような色を放っている。
(やはり、わからないな……)
二振りの刃を眺めるのにも飽きてしまったリョーンは、ふと、この二刀の対比が、執拗に家紋にこだわるタータハクヤと、一族の名を冠する宝剣をリョーンに授けてしまうシェラに見えた。鮮やかな光を持ちながら決して自己主張を止めない懐剣ペイルローンはタータハクヤであり、のらりくらりと光をかわし、師の命であるものの今のところ全く主人の役に立っていない玄糸刀はシェラである。そしてこの二刀と二人は対照的であってもどこか似ていた。
シェラもタータハクヤも、リョーンを見てくれているようで、実はそうでないような――二人のどちらと話しても、リョーンは返ってくるものに空虚な何かを感じるのだ。だからといってタータハクヤがリョーンを相手にしていないわけではなく、彼女にとって人生で最優先するものが一家である以上、リョーンと触れ合う時にも必ず一度、それに思いを馳せるのだ。
シェラにもまた、何をするにしても心を引っ張られずにはいられない何かがあるのだろう。それは静かな丘に眠る誰かなのだろうと、リョーンはおぼろげながら思った。
(わたしには、本当に大事なものが何もない……)
カエーナに負けた本当の原因が何であったのか、リョーンにはわかった気がした。だが左肺が痛むと、やはりハルコナの髪を撫でてしまっていた。
リョーンに髪を撫でられたせいか、ハルコナがわずかに目を開いた。
「あ、ごめん。起こしちゃったかな?」
ハルコナは目を瞬かせながら、深紅に輝く瞳でもってリョーンを見つめる。何という色だろう。宝石を埋め込んだようなその瞳に、リョーンは見入ってしまった。
猫が甘えるような仕草で、ハルコナはリョーンの膝の上に頭を乗せた。リョーンは困ったように微笑むしかなかったが、いつの間にか自分でも不思議なくらいに頬が熱くなっており、どこか呆けたような気分になった。
炉の火に照らされたからだろうと思い、頬に手を当てていると、誰かに呼ばれたような気がした。
――リョーン……
不思議に思ったリョーンは、タータハクヤ達が帰って来たと思ったが、辺りにそのような気配はない。
(勘違いかな……)
そう思って、ハルコナの方を見やった時、リョーンは凍りついた。
「リョーン……」
深紅の瞳。いや、炎を秘めたような光を灯すそれは、もはや常人のそれではない。リョーンは膝の上から自分を見上げる娘がハルコナであることを忘れ、一瞬恐怖を覚えた。リョーンの耳に入る声は、がらがらにしわ枯れていて、老人のそれにも似ている。
「ハルコナ……あなた、喋れるのね?」
辛うじて喉を突いて出た言葉は、しかしハルコナの耳には届かない。
「リョーン……もうすぐ……あなたの……」
「何、ハルコナ。どうしたの?」
ハルコナが正気ではないことはすぐにわかった。ただ、リョーンの頭の片隅から離れない感覚、それがもし真実であったらと思うと、恐ろしくて仕方が無かった。
(あの時と同じ…あの時のわたしみたいに、この娘も憑かれたんだ…)
ハルコナが寝ぼけているようには見えないだけに、リョーンの予想は確信に近かった。カエーナと剣をあわせた時には、自らに起こった奇跡に対して神に選ばれたことに歓喜したが、畜生にも劣る戦闘狂のような下劣な戦い方しか出来なかった事実が、リョーンにとっては神に対する背信でしかなかった。
「あなたの……大切な人が…死ぬ」
ハルコナのその言葉で、リョーンは左肺が燃えるような痛みに襲われた。
ふと、気付くと傍に人の気配を感じた。
「あ、お姉が起きたよ――!」
顔を覗きこんできたエトが言う。リョーンが辺りを見回すと、炉を囲んでタータハクヤ、エト、テッラの三人が夕食の支度に精を出していた。
「わたし、眠っていたの?」
顔が熱い。自分の放つ声が自分のそれではないようで、リョーンは小さく頭を振った。
「あら。まだ寝ぼけているわ。そうね、ハルコナと一緒にぐっすり眠ってたわよ。まるで姉妹みたいだった」
タータハクヤが心底満足したような顔でそう言うからには、リョーンは彼女が堪能するに足る寝顔を披露していたのだろう。
「ハルコナは?」
膝元で寝ていたハルコナがいないことに気付いたリョーンがそういったところで、後ろから抱きつかれた。
「ちょっと、びっくりするから……」
ハルコナの抱きつく衝撃が左肺に響いたので、少し頭にきたリョーンは彼女を戒めるつもりで振り返った。途中、寝ている時に着衣が乱れたのか、ハルコナの胸元が見えた。
リョーンやタータハクヤと違って豊かさなどほとんどない、ハルコナの幼い胸元に、茶色く爛れた部分が見えた。縦に長く、首元まで尾を引いている。微かに目をやっただけだが、それが裂傷の痕であることはリョーンにも見て取れた。
ロセの古傷を見慣れているだけあってリョーンは取り乱したりはしなかったが、ハルコナのような少女が持つには大それた傷である。それに――
(この娘は本当に喋れないのだろうか……)
念のためテッラに訊いてみたが、彼女はハルコナの傷痕については知らず、ただ、ハルコナが声を失っているのは事実だと主張した。
「車椅子で転倒したときも悲鳴すら上げませんでしたし、大体この娘はあたしに隠し事なんてしませんよ」
リョーンはテッラの言うことが信用できないわけではなかったが、ハルコナの保護者であるというアドァに会わなければならないような気がした。
五章『暗躍』了
六章『消えた貴人』へ続く