第五章『暗躍』(6)
暗く、静かな路地裏。そこでアドァは声もなくただ立ち尽くしていた。
チャムを囲んだ八人の刺客の内、最初に襲い掛かった半分が、ものの数秒でチャムに打ち倒され、地に伏している。
――剣を抜くまでもない。
チャムがそういったような気がしたアドァは、これ以上の戦闘を続けることの無意味さを知った。彼が小さく手を掲げると、残りの刺客たちは武装を解いた。
「お眼鏡にかなったかな?」
手をはたきながらチャムが言う。結局、この剣士はただの一度も抜剣しなかった。手甲を付けているとはいえ、武器も持たずに四人も仕留めたのだ。彼がクーン最強の戦士の一人であることを、アドァも認めざるを得なかった。
「地下に幽閉されていたと聞きましたが、どうやらご健勝な様子で……」
「あんなもの、ロセの課した修行に比べればどうということもない」
数ヶ月も光の届かない牢獄に閉じ込められる苦しみに勝る修行とは、ロセは一体どのようにしてこの男を鍛えたのだろう。
「さて、そろそろ本題に入りたいのだが……」
チャムは左手に持った行灯を揺らして、アドァの案内を促した。四人も殴り飛ばしておきながら火が消えていないところを見ると、彼が遊び半分でアドァの試みに付き合ったことがわかる。
「怒ってらっしゃらないのですか?」
アドァは刺客たちに負傷者の手当てを言いつけた後、チャムを自宅に招き入れた。チャムは木の粉の匂いがする、埃っぽい部屋の中央に腰を下ろした。
「わたしを試したいのなら、百人は連れてくることだ……」
ほっほっ――と、アドァが笑う。そこには幾分か満足の色があった。
――やはり、噂通りの化け物だ。
カエーナはチャムと肩を並べるほどの剣豪と聞く。これほどの戦士がごろごろいるようでは、武装組織としてのクーン剣士団の評価を改めるべきかもしれない。
「何処でわたしのことをお知りになられたかは、聞かずにおきましょう。ご無礼のお詫びに質問にはお答えしますよ」
チャムは小さな木屑を拾うと、おもむろに炉へ投げ入れた。
「アヴァーという男を知っているか? カエーナを担ぐ賊どもを裏から操っている」
「アヴァーですか……いえ、残念ながら」
アドァが口を濁すのを聞いても、チャムは特に不服といった表情は浮かべなかった。最初から答えを期待したわけでもなさそうだ。
「……だろうな。では質問を変えよう。最近、西侯が妙な動きをしていることを知っているか?」
「ええ、存じております。何でも竜狩りが行われたそうで……」
チャムは炉に投げ入れた木屑が燃える様を見ていたが、ふと、アドァの深い色をした瞳を見た。
「剣士団でも何やら議論されていたが、わたしは西侯の叛意を確信しているよ」
アドァの目つきが変わった。先ほどまで穏やかな色を湛えていたそれは、チャムの言葉に呼応して鋭く光った。
「アクス侯に叛意ありとは?」
「アドァよ。ここまで来て惚けるのはよそう。おまえが王宮からの命で我々の背後を調べまわっていることに、わたしが気付かないとでも思うか?」
木屑が音を立てて割れた。
「そこまで仰るのであれば……」
チャムは静かに座っているが、正座や胡坐をかかずに、片膝を立てている。鞘を帯紐から外し、膝の横に立てている姿を見るだけで、アドァはチャムという男を打ち倒すということの無謀さを悟った。
「アクス侯の竜狩りには何の意味があると思う?」
全く隙の無い男からの質問にアドァは静かな声で答えた。
「この時期、竜は越冬のためにクーン山脈を南下します。その数は夥しく、行商や旅人が冬に山を越えるとすれば無謀もよいところです。捕獲した竜の数はおよそ二万と聞きますから、今冬の竜の山越えは相当に数が減ることでしょう。つまり、山脈を越えてゴモラに行くのに、人々が難儀しなくても良いというわけです」
「ゴモラからこちらに来るとすれば由々しき事態だな」
「ええ、山脈付近に住む蛮族は日ごろからしてクーンを怨んでいますから、これを好機とみた彼らが南下してくることもありえます」
「大事が起きるかも知れぬということを、お前の主は知っているのか?」
アドァはチャムの目を見た。自信に満ちた鋭い視線だ。この男がアドァと王宮とのつながりをどれだけ知っているかによって、今後の身の振りが変わってくる。最悪、チャムの言うとおりに百人の刺客を差し向けることになるかも知れない。
「いえ、推論に頼るところが多く、可能性としても一割に満たないと思っております」
「そうだろうな。天下のクーン軍が蛮族の進入などにてこずるわけが無いだろうし。だが、アドァよ。ひとつ忘れているぞ」
「忘れている……ですか?」
「間もなく王都で反乱が起こる。規模はそれほど大きくは無いだろうが、カエーナ……いや、アヴァーに先導されたそれは、クーン剣士団を二分し、王宮近衛兵団と衝突する事態にまで発展するだろう」
アドァの眉がわずかに動いた。
「何故そこまで知っているとでも言いたげだな」
「ええ、貴方がそれを知っているということは、実は私にとって由々しき事態なのですよ」
チャムは豪快に笑った。彼は膝頭を叩いて言う。
「アドァよ。その言葉が聞きたかったぞ。やはり、わたしの読みは当たっていたのだな」
わずかだが、不機嫌な色がアドァの顔に浮かんだ。
「剣士団の実権はエリリスにあるが、わたしにもわたしの命だけで動く者がいる。安心しろ、アドァ。このことを知っているのは、今のところわたしだけだ。だから、お前がわたしに協力してくれると言うのであれば、お前の邪魔をしないということは誓おう」
「何がお望みで?」
「出来れば王宮近衛兵団から、一旅貸してもらいたい。勿論、王には内密にな」
この男は何ということを言い出すのだろう。何を考えているのかは知らないが一旅(五百人)をなどと無茶も過ぎる。
「お前は王都の内部で、わたしは外でクーンを守る。そのためにはやはり必要なのだ。クーン剣士団という肩書きを持たぬ五百人が……」
「わかりました。主にお伺いを立ててみましょう……」
まさかすんなりと了承されるとは思っていなかったのか、チャムはやや驚いた様子でアドァを見た。
「ところで、チャム様」
「何だ?」
「貴方にとってクーン剣士団は亡き父の遺産であり、誇りであったはずです。それなのに今の貴方は剣士団を全く信用しておられない」
アドァの質問にチャムは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「大事なのは剣士団ではない。王都を守ることだ。それにな、アドァよ……」
チャムはゆっくりとした仕草で立ち上がると、鞘に腰紐を結びながら言った。
「わたしは小山の大将で終わるつもりは無いぞ」
予期せぬ客人を戸口で送ったアドァはまるで何事も無かったかのように部屋の片隅に腰を下ろした。
(やれやれ、どうにも扱いにくそうな男だ……)
明くる日の朝、快晴の続く空にやや満足気な表情を浮かべつつ、リョーンは再びエトを伴ってクーン剣士団の溜まり場でもある軽食屋に足を運んだ。勿論、護衛の三人が背後にいる。
昨日とは違って、卓子は屋外に出ておらず、昼間から酒をあおる連中は店の中で暖を取っているようだった。
「今年はあまり冷えないから意地でやってみたんだけどね。流石に酒瓶が凍ったとなれば誰でも白ける」
言い訳がましいことを言いながら、店主は昨日を同じように蜂蜜入りのミルクを二人の前に置いた。
「今日の稽古はお休みかい?」
「まあね」
「シェラが忙しいと寂しいか?」
エトが噴出しそうになるのを目で威嚇したリョーンはそれでも店主にはそっけない態度で返した。
「別に……」
気にかかる事はある。シェラは色々と自分のことを知っているのに、リョーンは彼のことをほとんど知らない。それでもいいと最初は思っていたが、思った以上に謎の多いシェラに興味を持ち始めたのは確かである。
軽食屋を後にしたリョーン達はその足でシェラの兄が営む商家、白竜へ足を向けた。
意外にも、門前で名乗っただけで中に通された。
「ようこそいらっしゃいました、カル様。主がお待ちです。お付の方々はこちらへどうぞ」
リョーンは付き人と言われて不満をあらわにするエトを制すると、やや豪奢の過ぎる外見とは裏腹に簡素な造りの通路の先にある居間に通された。床には西のゴモラ産と思われる、鮮やかな女神の絵の入った絨毯が敷いてある。部屋の奥では金色の髭を蓄えた男が、小さな腰掛の上で胡坐をかいていた。
彼はリョーンを見止めると静かに立ち上がり、笑顔で握手を求めた。
「店主のキュロー・ペイルローン・ドラクワです。すでにご存知かもしれませんが、シェラの兄です」
「初めましてキュロー殿。剣翁ロセの娘のリョーンです」
クーン人は普通、姓を持たない。貴族ともなればタータハクヤのように家名を代々受け継ぐ習慣があるが、貴族ではないリョーンたちは誰々の娘の――といった名乗り方をする。親が有名であれば、その二つ名をつけることも珍しくない。
(それにしても……)
後ろにまとめた金髪は長く、顎には髭を蓄えており、瞳は常に穏やかな光を讃えている。背はそれほど高くなく、顔つきもシェラよりはやや老けている。
シェラとは全く似ていないキュローの雰囲気に、リョーンは少し笑いたくなった。
「はは、似ていないでしょう? あれとは十歳も離れてますから……」
キュローが笑うと、少しだけシェラに似ていた。シェラが二十六歳と聞いたから、キュローの歳は三十六ということになる。
「シェラについてお聞きになりたいのでしょう?」
歓談の合間に隙を見て投げかけようとした問いを、いきなり返されたのでリョーンは目をむいた。
「いや、はは……どうか驚かずに。いくらか前にチャム様がお見えになったときと同じ顔をしておられたもので……」
「キュロー殿はシェラがチャムに勝ったという噂をどう思われます?」
リョーンはいきなり核心を突いた。だがキュローは涼やかな顔を崩さない。
「事実であったと、私はそう思っておりますよ。チャム様も、シェラもそれについては一言も口にしませんがね。ただ、だからといってシェラがチャム様より優れた剣士であるとは限りません。私から見ましても、クーン一の剣士はチャム様以外におりませんよ」
「シェラは一体何者なのです? 失礼ですが、ただの商家の息子にあのような剣術を身につけられるとは思えません」
キュローが小さく笑うのをリョーンは見逃さなかった。
「つくづく貴方は似ておられる」
「似ている。誰にですか?」
「チャム様にですよ。あの方がここを訪れた時も同じことを仰いました」
リョーンは黙った。チャムがシェラに敗北したことが事実なら、彼が謎に包まれたシェラの剣術に疑問を持ったとしても不思議ではない。
「シェラに剣術を伝授される立場の貴方が、シェラについて知ろうというのは悪いことではありません。彼は嫌がるかも知れませんが、私が知っていることはお話しましょう。ただし、誰にも漏らさないという約束をしていただければ――ですが」
「わかりました。ここでの話はわたしの胸の内にしまっておきます」
リョーンは茶請けの縁を指でなぞりながら、キュローの話に耳を澄ました。
ペイルローンの一族は海洋を自由に旅する商業民族である。いくつもの海をまたにかけながら、彼らの肌が雪のように白いのは、彼らが海上で肌を見せることをしないからだ。白いターバンに白い長衣を着ているだけで、南方の人々は彼らが海を支配するペイルローンの一族であることを知るのだ。
商業民族とはいっても、旅に危険はつき物である。天災には人智を頼るとして、海賊の襲撃に対して彼らは傭兵を雇うということをしない。長い間、海を本拠にしてきただけあって、彼らの一族は自前の武装集団を持つに至ったのだ。海上の戦闘に長けた彼らはペイルローンを族名とする一家に配属され、その家を守ることに生涯を捧げる。
そしてシェラもまた、この名もなき武装集団の一員であった。幼い頃から船上戦闘の訓練を受けてきたシェラは、ペイルローン一族のドラクワ一家に配属され、彼らの本拠であるクーン王国に腰を落ち着けることになった。シェラが剣士団のロセの目に留まったこともあり、それを僥倖と見たキュローとクーン剣士団団長のエリリスは、シェラを剣士団に置くことにより互いの関係を深めた。
「つまり、シェラはクーン剣士団にとって客分に近いというわけですね」
キュローはもっと他に目をつけるところがあるだろうにと、リョーンの言葉に対して意外そうな顔をした。キュローとシェラは血が繋がっていないとか、シェラがいた戦闘集団についてとかの質問に構えていたのに、やや当てが外れたような気分だった。
「ええ……その通りです。とはいえあれほど女癖の悪い男であったことは、エリリスもいささか誤算だったようですが」
「ふん、わたしには最近、それが擬態にみえます」
リョーンは本音を言った。シェラに対する見方が変わったのは、つい最近のことだ。
彼女の不機嫌そうな顔をしげしげと見つめながら、キュローはひとりごちた。
「やはり……似ていますね」
何か、鮮やかな音が鳴ったような気がしたキュローは、リョーンが自分の目を覗き込んでいることに気付き、はっとした。
「わたしが似ているというのは、チャムにではなく、丘の上で眠る女のことでしょう?」
微かに掠れた、それでいて静かな声は、キュローの耳に何度もこだました。
(刃の二つ名に恥じず、勘の鋭い娘だ……)
キュローはにわかに笑顔を作ったが、真実を穿つ言葉の前では無力そのものだった。