第五章『暗躍』(4)
「穿て!」
爽やかでありながら力強い声が、銀白に染まった丘に響く。
シェラは赤い髪の剣士の傍らに立って、ペイルローン一族の言葉で掛け声を放つ。クーン剣士団は南方の言語を取り入れたりしないから、シェラの剣術はクーンを訪れる前に身につけたのだろうと、リョーンは思った。
リョーンはシェラに教えを請うた丘で、童子が見たならば笑い出すような修錬を繰り返していた。
胸が痛むせいで左腰に差した玄糸刀を抜くことは出来ないが、彼女はシェラの教えるまま、右腰に差した刀身まで朱色の懐剣ペイルローンを逆手で抜き、何かを潜るような姿勢のまま前方に重心をずらせ、突きを繰り出す。
「速い。もっとゆっくりやれ。ゆっくり、正確に」
シェラの指摘に、リョーンは頷くこともせず、ただ淡々と同じ動作を繰り返す。
二、三度突きを繰り返しては小休止し、小一時間ほど経ったところで切り上げる。現在のリョーンの容態を考えれば、妥当だ。普段なら何時間稽古を続けようが音を上げることはない彼女が、疲労のあまりその場に座り込んでいるのだから。
(まだまだ先は長いな……)
リョーンは左腰に差した漆黒の玄糸刀を見ながら思った。考えてみれば、シェラが左右の剣を抜いた姿を見たことがない。ロマヌゥに襲撃された時、シェラは背に負ったリョーンを左手でがっしりと掴んでいたから、片手で戦っていたはずである。それでも何故か、シェラが左右に剣を差しているだけで両刀使いと決め付けてしまった。
(洗練されているということか……)
ほんの片鱗を見ただけで、リョーンはシェラの剣技が非凡であることに気付いた。
「それは抜かんでいい……」
玄糸刀の柄に触れたリョーンを制するように、シェラはリョーンの肩に手をやった。金髪碧眼の男は白いコートに身を包んでいるせいで、いやに清楚に見える。
(剣を振るときだけは真面目なのだろうな……)
眩しいような金髪を見上げながらそう思った。同時にシェラの言葉に疑問を覚えた。
「何故だ。二刀を抜かなければ意味が無いだろう?」
リョーンの吐いた息が空中で白み、シェラの髪にかかる。
「カル。抜かないことに意味があるんだ。お前がペイルローンを使いこなせるようになれば、いずれわかるはずだ。俺はお前に剣を教えるが、玄糸刀は最後まで抜かせない」
リョーンは首を傾げた。最初から使わせるつもりが無いなら、どうして自分に二刀も与えたのだろうか。
寒風が吹き抜けるとともに、左胸が痛んだ。
「まあ、ゆっくり考えてみることだ」
正午を過ぎた頃に帰宅すると、珍しく暇を持て余しているエトがいた。
「義父さんの手伝いはいいの?」
リョーンは何の考えもなくそう言ったのだが、エトには少し棘のある言葉に聞こえたようだ。彼女はリョーンが拗ねているのではないかと疑った。
「わたしだって、いつも忙しいわけではないけど……」
視線を逸らして何やら口をもごもごさせている。
(そういえば今日は……)
エトが好奇心の塊であることを知っているリョーンは、彼女の目当てが何であるのか、すぐに見当がついた。
「ねぇ、今からナラッカ(タータハクヤ)の所へ行くけど、ついて来ない?」
リョーンの言葉に、エトは目を輝かせた。彼女は大はしゃぎで薄茶色の衣に袖を通すと、狐毛のコートを羽織った。何を考えているのか、弦を張った弓を持っている。
「ちょっと、狩りへ行くわけでもないのに……」
「違う。これはお姉を守るため。今度ロマヌゥが襲って来たら射落としてやるんだから!」
相変わらずエトらしいことを言う、とリョーンはつくづく思ったが、自分の身も守れないような境遇に陥ったことを嘆きたくもなった。
「さあ、行こう」
エトは跳ねるように外に飛び出した。
タータハクヤの新居は団長のエリリスが手配した。どうやらロセを介してではなく、エリリスが直接タータハクヤの支援に乗り出したようである。
カエーナに敗れてからはタータハクヤに髪を梳いてもらうのが日課になってしまったリョーンは、その時に思い切って聞いてみたところ、エリリスの妻はタータハクヤ家の傍流の女であったと知らされた。もっとも、その女の家も宗家から外れて久しく、タータハクヤ自身エリリスに聞かされるまで知らなかったという。
(貴族はどこにでも知り合いがいるものだなぁ。でもそれだけでナラッカを援けるなんて、あの小父さんも人が良い……)
不遇を運命付けられたようなタータハクヤを援ける人が他にもいたことが、リョーンには嬉しかった。
ロセ邸から路地を曲がってすぐのところにあるタータハクヤ邸は、以前のそれと比べると広さこそ劣るが、貴族の面子を辛うじて保つ程度には華やかな建物だった。縁が赤く塗られた門前でヒドゥに出迎えられ、竜車を横目に中庭を抜けた先には、居間でタータハクヤと歓談するハルコナと付き添いの女の姿があった。
「アドァ様ですか。宮廷でもあまり聞きなれない名ですね……」
茶と菓子を運んで来たヒドゥが言った。彼の言う宮廷とは二十年近く前のそれを指すのだろうか。そうではなく、何らかの形で宮廷の現状を知っているのならば、やはりこの人はタータハクヤ家の執事なのだなと、リョーンは思った。
「これ、ヒドゥ。失礼ですよ」
タータハクヤがわずかに眉を顰める。とはいっても、肝心なハルコナはリョーンと話すのに夢中で、付き人のテッラは手話の翻訳に大忙しで、聞こえてはいない。
それを見越したのか、ヒドゥはタータハクヤにそっと耳打ちする。
(お嬢様、あの娘は……)
タータハクヤは扇子で口元を隠した。
(ええ、恐らくはリョーンと同じ。あの娘も竜肉を喰らったのだわ……)
ハルコナはタータハクヤが自分を警戒していることに気付いたのか、わずかに視線を寄せるだけでリョーンから離れようとはしない。一方のエトはハルコナ相手にリョーンの昔話をしたり、テッラが押してきた車椅子を物珍しそうに見たりと、彼女は彼女でこの場を楽しんでいるようだ。
ハルコナは滅多に食さないであろう、氷砂糖の菓子を頬張りながら、身振り手振りで気ぜわしく会話をしている。
(あの娘の目……)
紅い。シェラのような碧い瞳には吸い込まれそうな感覚を覚えるが、ハルコナを見た時、タータハクヤは自分の中の何かが射抜かれたような気がした。
茶をすすって一息入れたところで、テッラが陽気な声で言った。
「それではそろそろ、車椅子を合わせていただけませんか。あたしが先生に怒られてしまいますので……」
「ええ、そうさせていただくわ。どうぞ中庭にいらっしゃって」
両足の膝から下が無いタータハクヤは、室内では這って移動するが、部屋から部屋へ移動する時は、小さな荷車にも似たものを使う。赤地の板に竹の絵が描かれた台の上に乗り、ヒドゥに押させるのだ。室内用の車椅子ともいえるが、やはり不恰好であり屋外で使える代物ではない。
中庭といっても、さほど広くない。以前のそれは小さな池があったのだが、新邸の中庭には壁沿いにわずかに桃の木が植えてあるだけだ。
リョーンは中庭に車椅子が一乗しかないことに気付き、訝った。
「あれ、おかしいな。それはハルコナのでしょう。ナラッカの車椅子は何処?」
そういわれればと、エトも首を傾げる。
「何を言っているの、リョーン。あれが貴方が私に贈ってくれた車椅子でしょう?」
タータハクヤにそういわれると、リョーンはわけがわからなくなってしまった。
テッラに訪ねようと後ろを振り向いたリョーンは、いきなりハルコナが抱きついてきたので仰天した。
「ちょっと……ハルコナ。あなた、どうして歩いてるの?」
「あら、おかしいわね。先生から聞いていないんですか?」
そう言ったテッラを見て、リョーンは状況の説明を求めた。皆が皆疑問を発するばかりで、まるで会話になっていない。
「その娘はですね。もともと歩けるんですよ。でも、先生はどういうわけか、その娘が一人で出歩くのを嫌うんです。だからいつも車椅子に乗せて……あたしはそういうのは嫌いなんで、実は別荘では車椅子を使っていないんです。ああっと、今のは先生に内緒ですよ!」
皆が首を傾げる中、タータハクヤだけが深く頷いた。不思議に思ったリョーンは彼女の方を見たが、何かを思索しているのか気付かないようだった。
ハルコナが無邪気に走り回るのを見て、何やら奇妙な感覚を味わったリョーンだったが、深く立ち入ることもないと思い、これ以上の詮索はしなかった。
「お加減はいかがですか?」
車椅子に腰を落ち着かせたタータハクヤは、模様の無い黒色の手すりを二、三度音を確かめるようにして叩いた。
「良い音ね……」
「檀を使っています。走る際の揺れを少なくするためには、弓作りに使われる檀の木が良いそうです」
リョーン目当てで来たわりには、きちんと仕事をこなすテッラを、ハルコナは感心したように見ている。
「座り心地はどうですか?」
「ええ、とても楽。でも腰巻きがないと、落ちてしまいそうで怖いわ」
テッラは得意気に足置きの安定性を弁じようとしたが、喉元まで言葉がでかかったところで、タータハクヤの足が無いことに気付き、飲み込んだ。調子に乗って言わなくてよかったと、心底思った。
これにはヒドゥが目を光らせた。彼は頼んでもいないのにテッラを竜車の方に連れて行くと、タータハクヤを車椅子に固定するためのベルトについて力説した。あまりにも延々と話されるので辟易してしまったテッラは、話が区切れた瞬間に話題を変えた。
エトが小さな声で――上手い、と呟いた。
「何か模様でも入れましょうか。王宮宛に届けるものには必ずそうするのですが……」
可愛らしい花模様だとか、趣味の悪い虎の絵を想像したリョーンだったが、タータハクヤは意外にも即答した。
「では、家紋を入れていただいてよろしいかしら?」
タータハクヤが目語すると、ヒドゥが素早く屋敷内に戻り、一切れの黒い布を持ってきた。
「これは?」
渡された布の端をつまみながら、テッラ。
「タータハクヤ家の家紋です」
開いてみると、一辺が人の肩幅ほどの黒い布の中心に、白い線で犬の絵が描かれていた。犬の上下左右には炎のような印があり、それぞれに奇妙な文字がふられている。
(落書きじゃないか……)
テッラはつい笑いそうになったが、信心深くない者から見た宗教的なシンボルというものはこんなものかもしれない。
日が傾きかける頃、ハルコナとテッラは帰っていった。入れ違うようにシェラがタータハクヤ邸を訪れた。門前で出迎えたリョーンはシェラが自分に会いに来たのだと思ったが、違った。
(この人ならハルコナでも口説くのかな……)
シェラについては浮いた噂しか聞いたことのないリョーンであったが、その対象から自分が外れているような気がするのは、別に不快ではなかった。
「やぁ、カル。お姫様にお目通りを願いたいのだが……」
言葉の途中で、物凄い勢いで走ってきたエトが、シェラの脛を蹴った。相当に痛かったらしく、シェラは目に涙を溜めながら、屈みこんだ。
「ナラッカに何か用か?」
「ナラッカ? ああ、彼女のことか。ちょいと野暮用でね」
そう言ったシェラの背後に人影が見えた。
一人はロセであり、後の一人はチャムであった。
面子からして、何やら面白い話にあり付けそうだと考えたリョーンとエトは、ロセの言いつけで帰宅を余儀なくされた。彼に帰れといわれて駄々をこねるだけの勇気は二人にはない。
「何で私達だけ……」
エトはぼやいたが、リョーンは少々疲れたのか、エトほどのこだわりは見せなかった。
「スサに餌をやらないと……」
リョーンは片肺が潰れてこのかた、スサに乗っていない。騎乗時の揺れにまだ体が耐えられないのだ。
二人で夕食の用意をしていると、夕刻の鐘が鳴った。
リョーンは自分の体のどこかが強張るのを感じた。