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第五章『暗躍』(3)

 ロマヌゥシア・ペイルローン・ダイスは南人の血流ではあるものの、文化的には生粋のクーン人である。元はシェラの先祖と同じ様に南海を縦横無尽に駆ける商人の家系だったが、彼の先祖は数代前にクーンとナバラの中間に位置するダイスという国に一家を立てた。その後漂流し、クーンに落ち着いたらしいが、それがいつの事かは今やダイス家の誰もが忘れてしまったことである。

 ロマヌゥは曽祖父が既に王都クーンの生まれであったことを知っており、そこいらのクーン人と比べても遜色のないほどに都会っ子だった。

 彼の家はペイルローン一族の宿命である商人家業から離れて久しく、長い間王都の隅で細々と医に携わってきた。ロマヌゥの父はそこそこの名医であったらしいが、望南戦争後の混乱に巻き込まれて死んだ。十五年前のことであるから、父はロマヌゥの顔を見ることなく逝ってしまったのだ。

 元来、自らが最高の文明人であると信じ込んでいたクーンの人々は、南人を軽蔑することはあっても、憎悪することはなかった。それが先の望南戦争で変わった。時代というものはロマヌゥのように抗う術を持たぬものに、最も重く()し掛かる。

 幼い頃から、ロマヌゥは一人だった。彼の輝く銀色の髪はクーンでは聖なる色とされていたし、ロマヌゥは敬虔な竜信者でもある。だが、南人が自分達の神である神龍を(まつ)ることは、かえってクーン人の意識を逆撫でした。ロマヌゥの容姿が秀でていたことが、更に拍車をかけた。

 医人の家で育ってきたロマヌゥは、他の医人の卵達に比べて優秀だった。彼の母は蓄えの少ない中からどうにか捻出して、ロマヌゥをクーン剣士団専属の高名な医人の家に通わせた。齢十三の頃である。

「母様、行ってきます!」

 そう言って、筆記用の砂板を背負ったロマヌゥは家を出て行った。

 医家の門を潜って師の顔を見る前に、兄弟子達の洗礼に遭った。彼らは一目で南人とわかるロマヌゥを見止めた途端に表情を変えた。

「こいつ、砂板なんか持ってきやがって!」

 砂板は南人がクーンにもたらした利器である。何を書くにしても筆と墨が必要なクーン人は、速記するには地面に書くくらいの手段しかなかったのだが、粘土で固めた板に竹棒で字を彫るという携帯用の筆記用具は南人文化の中でクーン人にとっても快く迎えられた数少ないひとつである。とはいえ、ただの道具であっても、名門意識の高い知識層からは嫌悪を免れない。ロマヌゥの通った先は、南人蔑視の激しい家だった。

 兄弟子の一人が、深く頭を垂れて挨拶をするロマヌゥの鳩尾(みぞおち)を蹴り上げると、彼らは寄って(たか)ってロマヌゥを蹴りつけた。ただでさえロマヌゥの方が体格で劣るというのに、五人にも囲まれれば抗う術が無かった。

 年長の者達は冷笑するか、無関心を決め込むだけで、ロマヌゥを助けようなどとは誰一人思っていなかった。ロマヌゥはこの時初めて自分の生まれを呪った。泥だらけになりながら、割れた砂板を拾い集めたロマヌゥは、それでも泣かなかった。母の、自分を送り出すときの誇らしい顔を思い出すと、ここで泣いてしまっては申し訳がたたないと思った。

「何があった?」

 ようやく現れた師が、泥まみれになった新入りを見て言うと、最初にロマヌゥを蹴りつけた少年が言った。

「そこで転んでしまいまして……皆で介抱していたところです」

 ロマヌゥは自分の心に炎が立つのを感じた。

「そうか……」

 師は全く関心がなさそうに言った。顔だけは無傷であったから、気付かなかったのかも知れない。彼は年長の者達に仕事用の薬草の調合を言いつけると、すぐに奥へと消えた。

(それでも医者か!)

 ロマヌゥは心中で叫んだ。意地悪い笑みを浮かべる兄弟子達を見ながら、ロマヌゥは彼らを心底軽蔑することでこの怒りを沈めようとした。

 その後もことあるごとに嫌がらせを受けたロマヌゥは、ほうほうの(てい)で帰途に着いた。

(母様には黙っておこう……)

 ただでさえ心の臓が悪いというのに、自分のことでこれ以上の負担をかけられない。そう思いつつも、やり場のない憤怒と孤独感で途方に暮れていたロマヌゥが自宅に戻ると、門前に母の姿があった。

 母は全てを理解していたように、真摯でありながらも、優しげな視線をロマヌゥに投げかけた。

 もはや涙は止めようも無かった。母に抱きついたロマヌゥは、泣きじゃくりながら言う。

「何故……何故、僕はクーン人ではないのですか!」

 いつも毅然としてロマヌゥを諭す母は、このときばかりは目に涙を溜めて言った。自分の髪を三つ編みに編んでくれる時の、優しい声であった。

「ああ、可愛そうなロマヌゥシア。でも……でもね。これは多くの人が通ってきた道なのよ。ダイス家にとっては、これは使い古し、踏みなれた道。父様も爺様もそうして生きてきた。誰もが、必ず通る道なの。だから、明日は新しい砂板を持ってお行きなさい。明日だめになれば、また新しいのを持って次の日も通いなさい。最初からクーン人であるはずのお前が、他の人にとってもクーン人になるには、そうするしかないの」

 ロマヌゥは顔を上げた。父が自分と同じような目に遭ったなど初耳である。

「父様が……」

「ロマヌゥシア。彼らを憎んでは駄目。憎んでしまっては、お前をクーン人として見てくれる人はいなくなる。だから、我慢なさい。これはとても辛いことだけれど、我慢するのよ。お前はクーン人なのだから、誇りを持ちなさい」

 押し付けられた、とは母の愛情に満たされて育ったロマヌゥは思わなかった。だが、心を強く保とうとすればするほど、逆らうかのように涙が溢れ出た。

「今日だけは泣きなさい」



 最初にクーン剣士団専属の医人に弟子入りした日から、半年の間ロマヌゥは耐えた。

 ロマヌゥにとって、母は尊敬すべきクーン人であった。その母を(うしな)った時、ロマヌゥは生きる目的を同時に失った。

 彼は喪に服さなかった。それが母の遺言であったからだ。

「寸陰を惜しんで勉強なさい。私のことを弔うのは、あなたが一人前になってからでいいわ」

 自分を産み、育てることだけが人生であったかのような、母がそれだけの女であったような気がしたロマヌゥは、虚しさ以上に自身に対する怒りが込み上げてきた。そして、何よりも母が(あわ)れであった。

「しじまの王よ……しじまの王よ」

 神の名を呟きながら、彼はいつものように(うずくま)って兄弟子の暴行に耐えていたが、やがてそれも止みかけた頃、兄弟子の一人が言った。

「南人の癖に、こいつにはクーンの血が流れていやがる!」

 申し合わせたかのように周囲の者達が囁きを始める。


――売女(ばいた)だ。売女の息子だ。汚らわしい。


 ロマヌゥはもはや耐える必要も無かった。彼は跳ねるようにして起き上がると、兄弟子の鼻っ面を殴り飛ばした。

 大乱闘の末、ロマヌゥ一人が破門となったのは何ら不思議なことではなかった。自分は南人であるのだから。

 後悔といえば山ほどある。何よりも母の遺言を反故(ほご)にしてしまった自分が許せなかった。

 途方に暮れたまま、ロマヌゥは剣士団を去ったが、兄弟子達の怒りはおさまらず、自宅の前で待ち構えていた彼らに囲まれた。どういうつもりか、手には剣がある。

(もう、死んでしまえ……)

 誰に向かって思ったのか、ロマヌゥが自暴自棄になりかけたその時、一人の男がその場に現れた。頬に傷のある、長身の男だった。


――カエーナだ。鉄槌(てっつい)のカエーナ……


 兄弟子達が足ずさる中、カエーナは何も言わずにロマヌゥの前に立った。

 なんという広い背中だろう。ロマヌゥの青春は、この時より始まったのだ。



 揺らめく蝋燭(ろうそく)の炎。薄暗く狭い部屋に、ロマヌゥは横たわっていた。

「お(かしら)、大丈夫ですかい?」

 揺り起こされて不愉快な表情をするロマヌゥを、歯の抜けた貧相な顔の下僕が案じる。

「相当うなされてましたぜ。まだ腕が痛むんですかい?」

 ロマヌゥは包帯で巻かれた右腕を見た。淡く血が滲んでいる。

「おっと、こりゃいけねぇ。取り替えなくちゃあ」

 下僕は顔つきとは裏腹にてきぱきとした仕草で包帯と湯を持ってくると、右腕の包帯を解き、傷口の洗浄を始めた。

 痛みに顔をしかめながらロマヌゥが言う。

「お頭はやめろ。副団長と呼べと言っただろう?」

「そうは言いましても、皆がお頭と呼ぶんだから仕方がねえじゃないですか」

 ロマヌゥが溜め息を付くと、不意に戸の叩く音が響いた。

 二人は顔を合わせた。もはやお尋ね者同然であるロマヌゥの潜伏先を知る者は少ない。

「どなたさんで?」

 歯の抜けた下僕が問う。そして外からの返事はロマヌゥの期待したものだった。


――アヴァーだ。


 ロマヌゥの目が光る。彼はすぐに身を正すと、下僕の男に戸を開けるように促した。



「どういう風の吹き回しだ? 今までただの一度も姿を現したことなど無いというのに……」

 ロマヌゥは黒い布で顔を隠した男に向かって、多分の皮肉を込めつつ言った。下僕の男には外で番をさせてある。

「こちらの準備は出来た。カエーナの説得は済んだのか?」

 必要以上の会話はしないとでも言うように、黒覆面の男はくぐもった声で言う。体格だけ見れば女性とも取れるから、この者が本当に男であるのか、ロマヌゥには判断が付かない。

「カエーナは無理だ。あの人には最初からそんなつもりが無かったんだ」

 ロマヌゥは言い捨てたが、覆面の男が自分を凝視していることに気付くと、微かに視線を逸らせた。

「嘘だな。そんなに良人(アヴァー)を巻き込みたくないのか?」

(良人だと!)

 アヴァーという音の原義は柱である。クーン語で父を意味し、転じて王のことを指すが、それとは別に古い言い回しで妻が良人(おっと)を呼ぶときの呼称でもある。黒覆面の男はカエーナがロマヌゥの良人であるとからかったのだ。

 普段ならいきり立つところだが、ロマヌゥは耐えた。クーン剣士団に居た頃からその手の陰口には慣れていたし、自分がカエーナに近しいところにいるということが誇らしいのも事実だ。

 思えば団長のカエーナが自主謹慎している今、この得体の知れない人物によってカエーナ剣士団が動かされている。それに腹立ちを覚えなくもないロマヌゥはかねがね思っていたことを口にした。

「その西方(さいほう)(なま)りは耳にくるな。もう少し綺麗なクーン語で喋ってくれ。聞き取り辛い」

 黒覆面の男は一瞬、小さく笑ったようだった。

「まあ良い。ともかく、決行は一月後だ」

「前々から思っていたんだが、やけに遅いな。チャムが快復すれば面倒ではないか?」

 遅い、とは言ったものの、真冬に決行という時宜を外していないことはロマヌゥにでもよくわかる。だが、やはり気に入らないのだ。自分が誰かの手の上で踊らされるということが。アヴァーがいなければロマヌゥ一人でカエーナ剣士団をまとめられないという事実がさらに歯がゆい。

「カエーナの説得は諦めるなよ、ロマヌゥ。私怨は自らの手で晴らすべきだが、力無き者にはそれも叶わぬ。貴様はそれをよく心得ている分、あの男よりはましだ。ロマヌゥ、世界を変えたいと願うのなら、犠牲を恐れぬことだ。貴様の目指す世界はそれほど安くはあるまい?」

 言い終えると、戸を閉める音も立てずに黒覆面のアヴァーは去った。冷たい風が部屋に吹き込み、蝋燭の炎を揺らした。

 世界。

 なんという途方もない、漠々とした言葉だろう。

 かつてアヴァーは、血筋も、尊卑も、貧富も解消した世界がこの世に確かにあると、言った。ロマヌゥのように虐げられる人々が大手を振って歩ける国があると。にわかには信じられない話だが、ロマヌゥはこれにすがりつかずにはいられない。それほどに甘美な響きを、彼の言葉は持っていた。

 ロマヌゥは思い出したように身を起こすと戸の外へ走り出た。

「アヴァー! お前は一体……」

 今宵は新月であるから、闇を照らすものなど何も無い。ロマヌゥの問いは闇に投げかけられたも同然であった。


――人は沈んでゆく。それが死の淵であろうが、快楽であろうが、より甘美な方へと沈んでゆくものだ。わたしはお前にとってはアヴァーでしかない。お前が甘美な世界だけを望むのなら、自分に都合の良いことばかりを見て、そうやって自分の中に沈んでゆくといい……


 風に紛れるようにして響く声は、精霊の囁きにも聞こえた。



「早く包帯を付け替えろ!」

 全く不機嫌になってしまったロマヌゥの声に、両手に息を吹きかけつつ入ってきた下僕の男は慌てた。

「もうすぐ、この国は変わる。お前や僕が胸を張って生きられるようになるんだ……」

 ロマヌゥの呟きは、蝋燭の炎を揺らすにはあまりにも弱かった。

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