第五章『暗躍』(1)
アドァという男がいる。
赤茶色の長い髪を後ろにまとめ、しかし手入れをあまりしていないのかボサボサになっているそれを掻き揚げる仕草が印象的な人だ。
凛と整った眉に、やや小さな鼻立ち、淡いそばかすは少女のようでもあり、時によっては愛らしくも見えるのだが、黒色というよりは暗黒と表現したくなるような深い色の瞳をしており、見るものに圧を与えずにはいられない顔つきをしている。そして、それに反するように物腰が柔らかい。
本人は深い色を好むらしく、赤や白といった鮮やかさが好まれるクーン王国の住人にしては、コートの襟巻きまで黒一色に染め上げた衣服は壮観ですらある。ただ、背はあまり高くない。
アドァが何者であるのか、知る者は少ない。彼に会う人はその落ち着いた立ち振る舞いから、三十路ほどに見える外見と違って実年齢は四十程度であろうと予測する。
彼の素性は別として、アドァが普段何をして食い扶持を得ているのかを語るのは簡単だ。
特徴の無い顔つきとは裏腹に実に器用な人間で、たった今、彼の押している車椅子などはその手による作品である。木製の手すりには上品になり過ぎない程度に漆が塗られており、脚部には小さな車輪が一つと大きな両輪がついている。アドァが好むのか無地で装飾の類は一切無く、時々注文に来る貴族に対しては悪趣味なほどに黒く漆塗りしたものをくれてやるが、それと比較してもずいぶんと機能性の他は度外視して作ったものに見える。
ことことと音を立てて進むそれは、しかし騒音に対して相当に配慮がなされているようで、石畳を打ち付ける音はくぐもって聞こえる。クーンでも有数の技師でありながら、アドァはそれで富を築こうなどとは微塵も思っていないらしく、彼の開業した店は営業している日を数えた方が早いほどである。
アドァの眼が、ふと、辺りを見回す。
近くの民家の屋根から雪が落ちたのだ。アドァは屋根にぶら下がった氷柱を気にしながら、轍の所だけ石畳の見える路地を曲がると、思い出したように歩みを止めた。
「寒いか?」
優しく静かな声、それは彼の押す車椅子に向かって放たれた。
降りしきる雪が溶け出しそうなほどに明るい色が、アドァの前にひょっこりと顔をみせる。
季節外れの紅葉のような色をした髪と瞳、道行く人が奇異の目で見ずにはいられないような風貌をした少女は、彼女の周囲だけ早くも春が訪れたような菜の花の色の衣に身を包んでいる。ただ、コートはアドァのものなのか、襟巻きまで黒く、さわやかな少女が着るには少々不恰好ではある。
頭の両端で団子に結んだ髪がくるりと回った。振り向いた少女はアドァの右手を優しく掴むと、二度、強く握り締めた。
――大丈夫。寒くないわ。
少女は冬の静けさを壊さないように、にっこりと微笑んだ。
「そうか……」
アドァは再び車椅子を押し始めた。
「私は寒いな。そろそろ帰るか……」
独り言にも似た声に対して、少女は振り向かないまま答えた。
彼女は右手を顔の高さまで持ってくると、掌をアドァの方に向けて小さく左右させた。
次いで、人差し指と親指で空気をつまんでみせると、人差し指を立てて宙に円を描いた。
――ダメ。お願い、もう少しだけ!
少女はそう言っているらしかった。最後にアドァの右手に自分の手を重ねた。彼女にとってのおねだりの仕草だ。
「仕方が無い……」
肩をすぼめてアドァが言う。
この少女――ハルコナはただ散歩をするためだけに、わざわざ寒空の下に出てきたわけではない。彼女には彼女なりの目的があるのだ。
再び路地を曲がったところで、彼女の目的は達成された。ハルコナは嬉々として正面に見えた丘を指差すと、アドァに車椅子を進めるように急かした。
何度も腕をさすられるので思わず車椅子を転倒させそうになったアドァだったが、丘の上の人影が目に入ったところで、最近増えたハルコナの日課に付き合わされたことを知った。
空に雲がかかっているというのに、アドァはどこか眩しそうに丘の方を見上げた。
蒼衣にかかる赤く長い髪、剣を振るその姿はどこかたどたどしく、素人のようでもある。ゆっくりと構え、腰にさした懐剣を抜き、心細い速度で突きを繰り出しては、亀のように鈍い動作で剣を鞘におさめる。
緩慢な動作を何度か繰り返した後、彼女は息を付き、その場に座り込む。胸元を押さえ、苦しそうだ。
よく見ると丘の木陰に誰かの影が見える。眩しいほどの金髪の男は目の前の女が苦しんでいるのを見ても近寄る素振りも見せない。いや、ハルコナほどにその光景に見入っていなかったとはいえ、アドァは見逃さなかった。男は半歩のところで踏み留まったのだ。
胸元を押さえていた赤い髪の女はどうにか立ち上がると、再び構えて、突きを繰り返した。これまでよりも遥かに鈍い動きで。
彼女が誰であるのか、アドァは知っている。
「そんなに赤髪のカルが好きか?」
アドァが半ば呆れ気味にそう言うと、ハルコナは振り向くこともせずに、アドァの右手首を掴み、強く握った。間をおいて何度も。
――好きよ、好き。大好き! だってあの人、あんなに頑張っているわ。それに、わたしと同じ赤髪!
可愛くまとまった団子髪に何度も自分の手を押し付けられながら、アドァは小さく笑った。
次の日も、また次の日もアドァは丘の前までハルコナの乗る車椅子を押していった。普段はハルコナの散歩に付き合うようなことは無いのだが、ほんの一時間ほどということもあり、アドァはあえて少女の言うがまま、白く染まった路地に轍をひいていった。
「おや、今日はいないな……」
その日、丘の上には誰もいなかった。しばらく待ったが、いつも同じ時間に稽古が行われていたことを考えるに、これ以上待っても赤髪のカルは現れないだろう。
「ハルコナ……そろそろ帰ろう。風邪をひいてしまいそうだ」
言い終えると共に、くしゃみの音があたりに響いた。都心からわずかに離れた路地とはいえ、小川の水面に薄氷が張るほどの寒さである。いくら厚着をしようが足りるというものではなかった。
案の定というか、ハルコナは駄々をこねた。今日は赤髪のカルを見るまで帰らないと、身振り手振りを交えて言うのである。
「駄目だよ」
ハルコナがいくら主張しようが、車椅子を押すのはアドァである。彼は強引に車椅子を旋回させると、ハルコナを落としてしまわないように気をつけながら、来る時につけた轍をなぞった。
アドァは黙っている。彼は正面向かいの道を行く蒼衣の女性に目をやると、気付かない振りをして歩き出した。ハルコナはまだ、後ろの丘への未練が断ち切れないようで、目の前を歩く赤髪のカルに気付かない。
ハルコナがこんなにも憧れる人であるのに、アドァはどういうつもりなのか、赤髪のカルから遠ざかろうとする。いや、来た道を戻れば良いだけなのに、既に車輪が轍を大きく外れたことから、アドァが赤髪のカルを避けて行く魂胆であるのは明らかだ。
(それにしても……)
アドァは人知れず嘆息した。赤髪のカルの美しさといったら、どうだろう。
(噂では勇ましい人に思えたが……)
自分に手を出そうとした領主の息子を背なから斬りつけ、それに対して死刑を宣告されたことを不服とし、領主に刃を贈りつける女だ。どんな鼻っ柱の強い女であるのか、アドァは興味がわかなくもなかったが、今の彼女といったら、ちらちらと降り積もっては溶け消えてゆく雪の粉よりも儚げに見える。
まっすぐに下ろした髪は、少々癖っ毛なのか所々はねており、だが手入れを怠っていない証拠に若々しい艶に満ちている。肌はそれこそ雪のように白く、墨を落とせば全身が黒く染め上がってしまうのではないかと思うほどにうるおしく澄んでいる。
噂とは違う蒼色の衣は袖が長く、剣を振るのにいかにも不便そうである。
本人がどう思っているにしろ、赤髪のカルという女は男をそそらずにはいられない、そういった性にあるようだ。アドァは彼女を押し倒したという男のことが、少しだけ哀れに思えた。
――雪の鳴る音。
アドァは自分の脳裏に突然浮かんだ言葉が、何を意味するのか全くわからなかった。
ただ、赤髪のカルが宙空に白い息を吐く度に、その息が美しい音をたてて雪の結晶に変わってゆくような、そんな気がした。
ふと、目が合った。
凍りついたような、いや、きっと自分は雪の鳴る音を聞いたのだと、後から思い返せばそういえるような短い時間、アドァは止まった。
赤髪のカルもまた、驚いているらしかった。彼女がアドァを見たのはほんの一瞬で、視線はすぐに彼の押す車椅子に移った。
「もし、そこの人……」
腰の左右にさした短剣が音を立てる。彼女が足早にこちら側に向かってくるのを見ながら、アドァは何故か不愉快になった。
(その剣が、あなたという女を台無しにしている……)
アドァは何故か、そう思った。
ハルコナにとっては不意打ちもいいところだ。自分が憧れてやまない人が、知らない間に目の前にいるのだから。
「へぇ。ハルコナっていうんだ。あなたの髪も赤いのね。あら、目も赤いわ。とても綺麗――」
今のハルコナの顔を何と表現すれば良いだろう。
彼女の燃えるような髪は何処にいても目立ったし、赤い瞳と目が合えば気味悪がらない人などいなかった。ただでさえ声を持たないハルコナにとって、人々の前に自らの姿を晒すのは苦痛でしかなかった。それを、赤髪のカルは何の迷いも無く壊したのだ。ハルコナは赤髪のカルと出会えたことを、心から神に感謝した。
アドァを通訳にハルコナは喜びを爆発させるようにして、赤髪のカルに話しかけた。赤髪のカルはその一々に文句も言わずに答えた。
一段落した頃、通訳に辟易していたアドァに向かって、赤髪のカルは話しかけた。内容はアドァの予想したとおり、車椅子が何処で売っているのか教えて欲しいとのことだった。
「わたしの友人に足の不自由な人がいる。その人は普段、外へはあまり出ないのだけれど、その椅子を贈ってあげたいの……」
ハルコナは目を輝かせた。なんといっても車椅子を作ったのはアドァである。ハルコナは赤髪のカルの役に立てると思ったら、目が眩みそうであった。
だが、アドァの返した答えはにべもないものだった。
「これはもう、売っていないんです。残念ですが……」
「そう……」
ハルコナは耳を疑った。何故アドァが断るのか、理解できない。
赤髪のカルはとてもあきらめきれない様子ではあったが、アドァとハルコナに謝すと身を翻した。
「――っ!」
突然、腰に重みを感じた赤髪のカルは、やはり剣士を自覚しているだけに、自分が何者かに襲われたのではないかと思い、懐剣ペイルローンに手をかけながら振り向いた。
ハルコナは無我夢中で飛び出していた。ここで赤髪のカルを欺けば、もう二度とこの人とは会えない。そんな気がした彼女は、衝動的に憧れの人の腰に飛びついていた。
赤髪のカル以上に面食らったのはアドァである。
彼は振り向いたハルコナが目に涙を溜めているのを見ると、これ以上抵抗することの無意味さを知った。
南区貧民街は西区と並んで二十年前の望南戦争において最大の激戦区だった。それにもかかわらず、他のどの地区にも先んじて、驚異的な復興を果たしたのは、この場所が王都でも最も活気に溢れる王都正門前の商業区と隣りあわせであることと無縁ではないだろう。資産階級で下の上といった者達が居を構える街で、造りがしっかりとした瓦葺の屋根が目立つことから、足を踏み入れてみれば貧民街というのは名ばかりであることを思い知らされる。
商業区に近い路地裏の一角に、アドァは居を構えていた。需要の割りに車椅子を商う者は少なく、故にアドァは広いとは言わないまでも、瓦葺の家を持っている。
賑やかな商業区の騒音を背に、鑿を打つ音が響く。
アドァは不機嫌そうに、車椅子作りに励んでいる。
それもそのはずだ。この多忙な時期に予期せぬ仕事が舞い込んだのだから。
あの後、アドァはハルコナの暴走に屈する形で、赤髪のカルに車椅子を贈るはめになった。
「五日後にお伺いしますから、一度、車椅子が合うか試してみてください。その後に微調整をして三日ほどでお届けします」
穏やかな物言いだが、アドァの言葉はどこか冷めていた。もっとも、赤髪のカルは車椅子が手に入るのがよほど嬉しかったのか、気にも留めない様子だった。
暗い部屋に鑿を打つ音が響く。
アドァがふと息を付いた時に、窓を叩く音が聞こえた。
座ったまま気鬱そうにそれを聞いていたが、三度同じように叩かれた時、支え棒を拾って窓を押し開けた。
外からなにやら筒状の書簡が投げ込まれた。アドァは無言で止め紐を解くと、書簡の中身を一瞥しただけで、炉の中に投げ入れた。
戸の隙間から冷たい風が流れ込む。
立ち上がったアドァは小さく窓を開けると、外にいる何者かに向かって囁いた。
「この通りで良い。私が言うまで、竜の尾を踏むなよ……」
冷たく、感情のこもらない声。
外の気配が消えると、アドァは何事も無かったかのように再び鑿を打ち始めた。
炉の中の薪が弾けるような音で鳴った。
突然、木の粉が舞う部屋の、壊れかけた戸が鳴る。今度は打つのに夢中で気付かなかったのか、ついに雷のような音が部屋に響いたところで、アドァはようやく重い腰を上げた。
「君はまた私の家の戸を壊すつもりか?」
不愉快そうな声でアドァが言う。戸の外には両肩を抱いて体を震わせている女の姿があった。
「いい加減に一度で出てください。居留守を使っているのかと思われますよ!」
半ば怒りを込めて、女は言う。黒い髪を後ろで団子にしているのが印象的な女だ。歳は二十代後半といったところだろう。別段美人というわけではないが、歳相応のみずみずしさはある。
「ふぅ、わかったよ。とにかく入りなさい、テッラ」
テッラと呼ばれた女性は麻色の袖で木の粉を払いながら、室内の一角に腰をかけた。
「椅子作りの家だというのに、座るための椅子はひとつも無いのですね、ここは」
「そう邪険にしなさんな」
そう言って、アドァは床に放ってあった水筒に口をつけた。
「あら、昼間からお酒ですか?」
「水だよ」
飲み終えると、アドァは再び鑿を手にして椅子作りに戻った。
「君がここに来るなんて珍しいな。それで、何の用だったかな?」
テッラには別荘でハルコナの世話を任せている。別荘とはいっても、アドァの本宅とほとんど変わらないが、丘の上に位置するため、こことは比べ物にならないほど静かである。
「ああ、そうだった……先生、赤髪のカルとお知り合いになったって本当?」
「うん、本当だよ……」
テッラが手を打つのを見て、アドァは彼女が何をしに来たのかわかった。
アドァは目を細めた。といっても考え事をしているわけではない。
「ねぇ先生。今度機会があったら、私も赤髪のカルに会わせてくださらない?」
妙に体をくねらせて、テッラが擦り寄ってくる。アドァは無表情のままそれをかわしながら、もしやハルコナのカル熱はこの女のせいではと疑った。
(調度いい。こいつに行って貰おう……)
テッラの過度な期待に応えるのは何やら癪な気もしたが、今は椅子作りにかまけているわけにもいかない。
「かまわんよ。この椅子がある程度出来上がったら、剣士様の家に届けてくれ。飽くまで合わせなのだから、ちゃんと感想を聞くのを忘れずにね……」
アドァの言葉に、テッラが悲鳴を上げた。
「きゃぁ! あの方に会えるのね。私ってついてるわ!」
言い終えると、テッラは踊るような足取りで出ていった。間際に木の粉を吸い込んだのか、外で咳き込む声が聞こえた。