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第四章『剣舞う』(6)

 再び西区貧民街。

 傾きかけた警備用櫓のそびえ立つ小さな広場に二人は対峙した。

 櫓の最上部にはその貧相さに不釣合いな大きさの鐘が設置されているが、これは緊急時にではなく正午と日没時に鳴らされる。都心部では警鐘と時鐘との区別がついているが、ここは貧民街である。だが、このようなところにも鐘を叩くことを仕事にしている者がおり、櫓の最上部にて日没をまっている、ボロ切れを纏った老人は、リョーンとカエーナの決闘に大した興味を抱かないのか、眼下を一瞥(いちべつ)しただけで視線を地平線に戻した。

 老人の無関心をよそに、二人の剣士は戦いの最中(さなか)にある。

 初めに動いたのはリョーンだった。

 大剣を大上段に構えたカエーナに対して、剣を水平に寝かせたまま正面から低姿勢で潜り込む。

(馬鹿な、叩き潰されるぞ!)

 シェラの心配を他所(よそ)に、地を這う蛇が獲物に飛びかかる。

 一蹴。

 リョーンの突きを弾いた大剣は、その勢いを殺さぬまま、鉄槌(てっつい)を振り下ろすのにも似た衝撃でもって、相手を叩き潰す。

 乾いた地面が裂け、地震にも似た衝撃が辺りに響く。だがそこにリョーンはいない。

 赤い髪の剣士は鋭い直線的な動きから、蝶にも似た緩やかな動きに変わる。

 押し、退き、かわす。

 単純な三動作であるにも関わらず、カエーナの打ち込みを避けきったリョーンは、しかし大剣を振り下ろして隙だらけのカエーナに襲い掛かるような真似はしない。

(あれは()()……)

 カエーナは一歩も動かない。リョーンばかりが、凄まじい速さで打ち込み、そしてかわすだけである。しかもリョーンは相手の剣刃をかわす動作をカエーナに密着したまま行う。蹴り、打ち込み、そして拳を、全て剣ひとつ分置いた距離でもって避ける。これより間合いを置けば、そこはカエーナの領域である。

 カエーナの目に、微かに失望の色が映る。

(この(はえ)のような打ち込みで俺を倒せるとでも思うか。ロセの娘よ……)

 互いの声が聞こえるわけでもないのに、リョーンはカエーナの心中を悟ったのか、口元に微かな笑みを浮かべる。

(この程度かと、失望する貴様の声が聞こえるぞ、カエーナ!)

 上段、中段、上段と打ち込まれるリョーンの剣撃、その速さは電光の如くでありながら、カエーナはあらかじめ知っていたかのごとく、大剣で受け止める。

「攻めろ、攻めろ。カル!」

 シェラは最初の接触で二人の力量の差を見抜いた。今でこそカエーナは防御に徹しているように見えるが、リョーンが攻撃の手を休めた瞬間に、あの鉄槌のような一撃でもって勝負を決するであろう。クーン最強の一角であるカエーナが、いかに秀でているとはいえ女であるリョーンより遅いはずがないのだ。


――止まれば、死ぬ。


 カエーナはロセの鍛錬を耐え抜いた優秀な戦士である。彼が女に手を抜くような甘さを未だに捨てきれないでいると考えるならば、それは夢想も甚だしい。

 刹那。シェラの脳裏に衝撃が走る。

 リョーンはこすい(・・・)連撃を打ち込むしか能の無い、凡庸な剣士であろうか。彼女の剣筋から剣翁(けんおう)の手解きを受けていないことはすぐにわかった。だが、やはりリョーンはロセの娘である。策とまではゆかないまでも、リョーンには勝利を得るための確信にも似た何かがあるように思えてならない。打ち込みのひとつひとつに迷いが無いのである。

 そして不迷(まよわず)の精神が奏でる、美しいまでの旋律。長く赤い髪は風に舞い、雪に舞う。その尾をひくようにして空気を分かつ一閃。

 美しい。リョーンの剣技は決して強くはないが、夕日に照らされ、金粉の色を帯びた雪のように、静かな美を奏でる。

 シェラは空を仰いだ。曇天にも関わらず、地平線の向こうは晴れている。そして舞い散る雪。さらには西から東へ吹き抜ける風が肌を刺す。

 カエーナの地面を踏みしめる音が響く。互いの剣が絶え間なく交差するというのに、この静けさは何だろう。

未通女(おぼこ)めが、よもや斬られぬとでも思っているのではないだろうな!)

 リョーンは相手に溜めをつくる暇を与えない。これより一寸でも離れれば自分は死ぬ。

(そんなこと、知っている。男は負ければただ死ねば良い。だが、女は……)

 リョーンの脳裏に幼き日に味わった陰惨な光景が浮かぶ。それはこの世の何処よりも狭く、深く、そして暗い場所だった。暗い部屋に浮かぶ、笑みを浮かべる悪鬼達の顔。

(おまえ)は!)

 カエーナの足が動いた。それを待っていたかのように、リョーンは再び身を沈める。

 カエーナの地面をなぎ払う一撃。もしもリョーンが先ほどの大上段の構えにこだわるような素振りがあれば、一瞬判断が遅れ両足を刈り取られていたことだろう。

 跳躍。そして背にする。(まばゆ)い夕日を。

 この一瞬でよい。まさか、これから振り返るカエーナの目を(くら)まそうなどと浅はかな戦術を巡らせるリョーンではない。リョーンの狙いはもっとほかのことである。



 何年前のことか。リョーンがロセの剣術に興味を持ち始めたのは。だが、ロセに打ち明けぬまま剣術を学ぶリョーンは口が裂けても義父に教示を仰ぐことはできなかった。

 リョーンが「それ」に気付いたのは単独で狩りに出掛けた時である。リョーンよりエトが弓をよくするのは村でも誰もが認める事実だが、リョーンは狩りの最中に自らの剣の到達すべき場所を見つけた。

 今日のような淡く雪降る日。リョーンは三日三晩かけて追い詰めた獲物を前にして弓に矢を(つが)えていた。獲物は銀狼(ぎんろう)。毛皮を都へ持ち込めば数ヶ月は働かずとも暮らせる金が手に入る。

 だが銀狼は賢い。そしてしなやかである。彼は自分が狙われていることも、既にリョーンが矢を番えていることも知っている。その上で逃げない。二者の距離は五十歩といったところか。銀狼にはわかるのだ。リョーンの腕では自分に矢が的中することはないと。そして人間の知恵でもって仕掛ける罠など、彼にとってみれば稚拙そのものなのだろう。

 必死で彼らの行く道を研究し、銀狼を獲ようとして設置した罠に子兎ばかりがかかっていた時、リョーンは歯噛みしたものである。

 リョーンの気配は銀狼にとって全くの脅威ではなかった。更に悪いことに、この時風向きが変わった。リョーンのいる場所は風上となり、彼女の動作全てが風に運ばれ、あの小賢しい狼めの元へと運ばれるだろう。

 物事がつながる瞬間というのは、何の前触れもなく訪れる。

 この時になって初めてリョーンは気付いた。

 幾年にも及ぶ鍛錬、その最中にすら見えなかったひとつの道筋。

 淡い雪、ふと空を見上げてみると、朝焼けが眩しく目を刺す。そしてリョーンの背なを撫でるように、緩やかに吹く風。

 一瞬、リョーンの前に鮮やかな光景が広がる。

 道である。

 風に(あお)られ、彼方へと運ばれる雪の一粒一粒が、夕日に(きらめ)くことで現れる幾筋の軌跡。

 風の、道が見えた。

 気付いた時には既に、その道に向かって矢を放っていた。

 森の王者は何の音も立てずに(たお)れた。

 リョーンはこの後、再び銀狼をしとめたが、しばらくすると森で彼らに出会うことはなくなった。



(まさか……)

 シェラはようやく知った。リョーンは悪知恵に頼るような人間ではない。彼女は自分が最も戦いやすい状況を作ることだけを考えていたことに、気付いたのである。

(無策かよ……あのカエーナ相手に!)

 その風上に回りこむことに何の意味があるかなどシェラにはわからない。だが、リョーンはそれだけを待っていたのである。敵の事情などお構いなしに。最高の一撃を打ち込むためだけに全てを賭けたのだ。

(道が……見える)

 カエーナが大上段に構えた。対するリョーンは着地を果たしたばかりで構えてすらいない。

 必要ないのだ。粉雪の導くままに剣を突き出すだけで全ては終わるのだから。

 夕日に照らされ、黄金に輝くリョーンの髪を撫でた微風は、彼女の脇の下を通り抜け、そして淡い雪を巻き込みながらカエーナの胸元へと向かう。

(力など必要ない。風が運んでくれる……)

 赤子を掌で支えるが如き優しさでもって、リョーンは剣を突き出した。



 リョーンは最初の油断を除けば、何一つ過ちを犯していない。ただひとつ、この結果をもたらした要因は今の彼女にはどうしようもない事だった。

 技量、そしてそれに至るまでの蓄積である。

 齢三十三にして剣歴三十年というカエーナと、自らの奥義を得たとはいえ、わずか八年にも満たないリョーンとの圧倒的な差。それは構えてただ打ち下ろすという単純な動作ひとつに、顕著にあらわれた。

 大上段に構えたカエーナの大剣は、リョーンの想像を遥かに超える速度で打ち込まれた。風を運ぶ滑らかなリョーンの太刀筋に対して、音を断つ鋼の一閃。それはリョーンの突き出した剣をいとも容易く砕き、辛うじて身をよじったリョーンのこめかみをかすめた。

(はや)い……)

 シェラはこの当然の結末に驚かなかった。彼の望みはリョーンがこの一撃で戦意喪失してくれることだったが、それは叶わない。

 あまりに重い衝撃に尻餅をついたリョーンの肩を、カエーナの大きな足が踏みつけた。誰が見ても決着である。だが、リョーンの中でだけは、この戦いは終わっていなかった。

 背筋に走る怖気(おぞけ)

 八年ほど前に体験した恐怖が、リョーンの心を覆う。

 カエーナは冷徹な剣士である。だがクーン剣士団を辞めたとはいえ、彼が剣士の誇りまでも失ったわけではないことは、剣を交えたリョーンが誰よりもよくわかる。しかし、リョーンは既にカエーナを見ていない。暗澹(あんたん)とした自らの過去、抗う術を失った女に待つ陵辱の極みが、リョーンの眼前に光景として現れた。

 母親の死体の前で、衣服を剥がされ、手足が引き裂けんほどの力で(なぶ)られる恐怖に誰が耐える事ができるだろう。

(なぶ)られるくらいなら……死ぬ。嬲られるくらいなら……)

 瞬間、脳裏に一筋の光が閃く。

 自らを踏み倒す男の顔は、もはやカエーナではなかった。

「……ムシン――!」

 リョーンの胸の内は、剣をふるう者全てに対して抱き続けた憎悪でもって満たされた。



 最初にそれに気付いたのはリョーンと相対していたカエーナではなく、少し離れたところに居たシェラだった。彼は異変に気付くと、叫んだ。

「カエーナ。避けろ!」

 辛うじて声が届いたのか、それともカエーナが知っていたのかはシェラにはわからない。ただ起こったのは、リョーンが未だに手にしていた折れた剣でもってカエーナの足を切り払おうとしたことだった。

「たわけが、死ぬか!」

 往生際の悪い者に手心を加える必要は無い。もしそれをすれば、黄泉(あのよ)までつき合わされるはめ(・・)になり得るからだ。

 カエーナの、この勝負で三度目になる大上段からの鉄槌。かつて無い速度と重量を伴って繰り出された一撃は、リョーンの顔面を砕くに十分すぎる力を持っているにもかかわらず、止まった。

(何が、起こった……)

 この事実に当惑したのはリョーン本人であった。

 突き出された折れた剣。リョーンは攻撃に移るには最悪の体勢であるにもかかわらず、カエーナの一撃を真正面から受け止めていた。

「マジかよ……」

 シェラは目を見開いた。分厚い鉄板を叩き折るカエーナの一撃を正面から受け止める女など、この世にいるものか。


――く……ぉぉおん……


(獣声?)

 どこからともなく聞こえる咆哮(ほうこう)――竜の(いなな)きにも似たそれは、確かに聞こえる。そして、二人の鼻を襲う吐き気を催すほどの獣臭。

 気配を感じたシェラは空を仰ぎ見た。だが、何もいない。ただあるのは降りしきる雪。そしてその下で狂気に侵されたが如く剣をふるい続ける女剣士だった。

「あ……」

 噴出する汗。シェラは「赤髪のカル」の(まと)う奇妙な物語が、ただの噂ではないことをこの時知った。

 リョーンに黄金の光が降り注ぐ。シェラは夕日をその身に宿したかのような光が既に神域にあることを理解した。

 燃えるような、いや実際に燃えているようにも見える赤い髪の女は既に、シェラの知っているリョーンではなかった。

 何という打ち込みだろう。カエーナの大剣が(きし)むほどの一撃。それこそまさに鉄球を投げつけるような太刀筋にカエーナの巨体が一瞬、宙に浮く。

 リョーンが大上段に構えた。そしてこれまでカエーナが幾度か見せた鉄槌の如き打ち下ろしを、折れた剣でもって再現する。

「貴様――!」

 鮮血。

 カエーナの右肩を捉えたそれは、彼がすんで(・・・)で後ろに体をずらせたことにより、胸元の皮一枚を剥ぐだけですんだ。砕け折れた剣で切られたせいか、衣服や傷口がズタズタに引き裂かれている。

 リョーンと目が合う。先ほどまでは静かな黒色であったそれは、今は赤竜石(ルビー)のような光を帯びており、カエーナもまた、リョーンが既に常人ではないことを悟った。

(……化け物めが)

 冷静沈着なカエーナの口元に苦々しい笑みが浮かぶ。これが苦戦ではなく何を意味するのだろう。事実、リョーンが一撃を加えるごとにカエーナは一歩、また一歩と後退を余儀なくされる。リョーンが打ち込む衝撃に合わせて、カエーナの胸元に刻まれた傷口から血が噴出す。

 そして、リョーンは体の底から無限にあふれ出る活力に、喜びでもって応えた。自分は今、神に選ばれたのだと、歓喜したのである。

(これほどの力……嗚呼(ああ)、神よ。感謝します。神よ!)

 体が熱い。どういうわけだろう。剣を手にしてからこれほどの愉悦に浸ったことなどあっただろうか。カエーナほどの怪物を圧倒したことなど、今まであっただろうか。

 剣撃を辛うじてかわしたカエーナが、身をよじって繰り出した一撃をリョーンはいとも容易く避ける。

(何という(のろ)い攻撃……)

 リョーンの横()ぎの一閃。先ほど、風の導くままに繰り出した一撃が虚しく響くほどに力任せな一太刀である。美の観点からいえば、リョーンの剣はもはや誰かを魅了するようなものではなかった。美しさを捨てる代わりに得たのである。相手が恐怖せずにはいられないほどの力を。

 追い詰めた。櫓の真下、カエーナは既に退路をなくした。

 リョーンが勝つ。先ほどとはうって変わって、シェラはおろかカエーナまでもこの事実を確信していた。無論、リョーンも。

「ははは、()った。カエーナ――!」

 リョーンの溜めの無い一突きは、心臓を貫くに十分な速度をもって放たれた。

 だが、それでもクーン最強――

 「剣翁の孫(タータ・ロセ)」の一角。並みの剣士ならば絶対に気付かない一瞬の隙、カエーナはそれを逃さなかった。

 リョーンが神に選ばれていようが、たとえその力が妖術にも似た超常であろうが、彼女が一個の人間であることには変わりない。人間である以上、外界からの刺激に必ず反応する。意識、無意識を問わずに。

 地の利はカエーナにあった。彼は幼い頃から貧民街で育ち、毎日のようにこの場所で夕刻を過ごしてきたのである。日没とともに鳴らされる夜刻の鐘。その音は、王都全土に鳴り響く。しかも彼が背にした櫓の最上部の鐘が鳴らされるのである。

 カエーナには幸運もあった。リョーンが王都に長く住んでいれば夜刻の鐘など気にも留めないほどにささやかな日常であったはずだが、彼女は王都を訪れて未だ二日である。前日のリョーンは夕刻に寝こけていたから、彼女にとってはこれが初めての体験になったことも、カエーナにとってこの上なく有利に働いた。

 西日が消えると共に、肌を震わすほどの音量でもって夜刻の鐘が鳴る。

 リョーンの身が微かに強張る。

「うおぉ―――!」

 一瞬という表現が長すぎるほどの合間に、カエーナはリョーンの胴を切り払った。並みの速度であったならば、確実に返り討ちに遭っただろう。その証拠に、リョーンは折れた剣でもって防御を行ったのだ。

(人間の反応ではない……)

 自らが人間の限界に近い反応速度を誇るだけに、カエーナの心中の呟きには深刻なものがあった。

 十歩ほど離れたところに叩き飛ばされたリョーンは、もはや立ち上がることは無かった。カエーナが安堵の息をついたことはいうまでもない。

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