第四章『剣舞う』(4)
翌日、ロセは早朝に剣士団に向かったが、リョーンは同行しなかった。というのも、昨晩のロセの台詞に落胆したからである。
「今、剣士団でも主な連中は皆他方に出向いている。昨日、お前が会った者達は入団して一年ほどの新人だ。素人を相手にしてもつまらんだろう」
女の懐を除くような輩がクーン最強の戦士達であるはずがないと、リョーンは半ば納得した。
昼過ぎにシェラが来た。
(またこの男か……)
戸口で出迎えたリョーンは、内心ため息をついた。
「やあ、カル。暇なら王都見物に行こうか。勿論、そちらのお嬢さんも」
「剣士団は忙しいんじゃあなかったの?」
「そうなんだが、俺は役立たずなんでね」
役立たずが権威をもてるほどにクーン剣士団は甘くはない。どうせ弟子の稽古をつけるのが面倒で、ロセやエリリスにリョーンの王都案内の役をかってでたというところだろう。
「どうする。エト?」
「わたしはタータハクヤを手伝うから、お姉だけで行ってきて」
エトのそっけない返事に少々驚いたリョーンだったが、そういえば昨晩、そんなことも言っていたと思い出し、シェラと連れ立って王都巡りに出掛けた。
王都が東西と北の三方を山に囲まれていることは既に書いた。平野に開けた南方と交通の要所である東西の各門の周辺には繁華街などの活気に満ちた商業区があり、北方には王宮がある。シェラは一通りの案内を済ませると、竜の彫像を中心に置いた噴水の前で腰を下ろした。この噴水が王都の調度中央に当たる。蛇足かもしれないがリョーンが見上げた先にある古びた警備用の櫓は、半月後に巨象の暴走により破壊される。
「もう少し寒くなるとここも凍る」
近くの軽食屋で湯を注いだ水筒に口をつけながらシェラが言う。今日の様に風のない日はまだ噴水の前で雑談もできるが、もう冬である。
リョーンはシェラと話を合わせることはしない。
「剣士団に何が起きているの?」
「はは、気になるか……」
幸せそうに、男の碧い目が笑う。まるで会話の内容などどうでもよく、リョーンと言葉を交わすためだけに喋っているようにも見える。だが、女に惚れたが故の好意ではない。リョーンはシェラの何気ない動作のひとつひとつに言葉にならない深みのようなものを感じていた。男の魅力というよりも、タータハクヤと話しているときのような、滑らかでいて鋭い感覚。
リョーンはタータハクヤの蔵書を見せられた時のことを思い出した。
タータハクヤの博識にリョーンが賛辞を贈ると、彼女は舌を出してこう言った。
――これも、これもほとんど嘘ばかり書いているのよ。本当のことは何一つないわ。
シェラもまた、言葉が真実を伝えるということに信を置いていないのか。この世にタータハクヤを不幸のどん底から救い出す言葉など存在しなかったのと同じように、シェラにも何者にも癒せない深い傷があるのかも知れないと思うのは、読みすぎだろうか。
「ロセに聞けばいいことなんだが、まあいいだろう。飲むか?」
シェラは飲みかけの水筒をリョーンに手渡した。
「今、剣士団は二つの問題を抱えている」
「問題?」
水筒に口をつけながら、リョーン。
「秋の初め頃にアシュナ王女の成人の儀があった。その時に剣士団の人間が王女の警備に参加した。人数は二十名。主だった連中としては団長のエリリスと副団長のチャムだ」
「チャム?」
リョーンは剣士団の門前での会話を思い出した。ロセが門番と会話した時にそのような名前が出た。
「剣士団の創設者、英雄ラームの一人息子さ。勇名馳せる武勇譚こそまだないが、事実上の剣士団最強の男だよ」
「とうさ……ロセよりも強い?」
「あの人は別格さ。それに一応は引退しているからね」
「ふうん。それで?」
水が弾けた。誰かが噴水の水を汲んだのだろう。今日はまだ暖かいとはいえ、飛沫が首元にかかれば背に粟も立つ。
シェラは寒そうに首をさすりながら話を続ける。
「王宮に神龍が降臨したっていう噂は知っているな」
エリリス、チャムを筆頭に警護に参加した人間は、そこで異変――ザイのこの世界への召喚――に遭遇した。「神龍の眼」に斬りかかったチャムは牢に入れられ、エリリスたちは緘口を命じられたまま帰途に着いた。
不思議なことに、あれほどの騒ぎであったのに白蛙宮の外にいた人間は誰一人として神の降臨を感知しなかった。それでいながら王都から遥かに離れた地にいたロセ、タータハクヤ、エトの父の三人は空に赤い雷が立つのを見たのである。更にタータハクヤに限って言えば、彼女はヨアンを見た。白蛙宮にいなかった人間で、唯一、神と交信した。
話を戻す。
緘口を厳命されたエリリスたちは、チャムの拘禁を剣士団に伝えることができなかった。
――王命により、王宮に残った。
というのは苦し紛れの方便であって、神龍降臨の噂が広がると共にチャムの不在を訝る声が聞こえ始めた。
エリリスも指をくわえて待っていたわけではない。彼はあらゆる手段を尽くしてチャムの救出を試みた。だが、王宮からの返答は全て「否」であった。エリリスは王と直接に交渉できる人間であるロセを頼る以外になくなってしまった。
「それで、そのチャムという人を助けるために、ロセが動いているのね」
「そういうことになる。まあ、あの人なら間違いなく連れ戻してくるだろうからな」
「信用があるのね。あの人は……」
リョーンは遠くを見た。今は同じ屋根の下で暮らしながら、ロセはずっと遠くにいる。そんな気がした。
「ええと、それでだな」
今までの話が問題の一つ目である。言うまでもなく、リョーンの関係の外にある話だ。シェラから内容を聞いたところでリョーンにはどうすることもできない。だが、問題の二つ目は違った。剣士団で腕試しをするつもりでいたリョーンは、チャムの一件のせいで優秀な剣士が出払っていると聞き、鬱憤が溜まっていたのである。
「問題の二つ目だ」
シェラの目から笑いが消えた。
クーン剣士団の指南役であるロセは、彼自身の性格もあってか、優秀な戦士を鍛えるためには容赦をしなかった。その結果、鍛錬は峻烈を極め、最後まで耐え抜いた者は僅か十名に満たなかった。
「剣翁の孫達」
彼らはそう呼ばれ、剣士団でも特別な存在になった。当然といえばそうだが、剣士団筆頭剣士であるチャムもまた、ロセの孫と呼ばれる内の一人である。
そして、険しい鍛錬を乗り越えたものは皆、チャムのようにまっすぐな精神を育むとは限らない。
「カエーナという男がいる。この男もロセの鍛錬を耐え抜いた一人で、実力はチャムに次ぐ」
「その男がどうしたの?」
シェラはもう、笑わない。
「話すと長いが……」
一年ほど前の話である。
半年に一度行われる剣士団内での練習試合、そこでカエーナは当時の副団長を殺害した。練習ではあっても真剣勝負であるから、当時は事故として処理されたのだが、一年経った今になってカエーナが副団長に毒を盛ったという疑惑が浮上した。カエーナの母が他界した折に、遺書に書かれた一句にカエーナの陰謀を嘆くようなものがあったことから、疑惑が真実味を増してきたのである。
「母親の遺書?」
リョーンは母を失って久しい。母親といえば、今はエトの母が思い浮かぶ。残酷な死をリョーンの記憶に刻み付けた母は、たとえ実の母であっても、思い出すには心苦しさを伴わずにはいられない。だから、リョーンは無意識にエトの母を思い浮かべたのだ。
「『これ以上、カエーナには罪を重ねて欲しくない。卑怯な手段で手に入れた地位は災いしか呼ばないのだから』という感じだったかな。とにかく話が大きくなりすぎた以上、剣士団はカエーナの陰謀があったのか、調査を迫られたわけさ」
エリリスは喪に服していたカエーナに出頭を命じた。だが、カエーナはこれを拒否した。拒否したばかりではなく、彼は新たな組織の建設を始めたのである。カエーナ剣士団と名づけられたそれは、最初はカエーナを慕う者達で構成されていたが、次第に貧民街や繁華街のゴロツキ連中が顔を並べるようになり、早くも小マフィアの様相を帯びてきた。
「なぜ、そうなるまで放置したの?」
「ロセやチャムを欠いていたのもあったが、それ以上に事態のややこしさが対応を遅くした」
「ややこしい? カエーナを捕えれば終わりじゃないの」
「カエーナは逃げているわけでも、隠れているわけでもない。彼の家に行けば会えるさ。ややこしいというのは、カエーナ剣士団は既に奴の手から離れていることだ」
リョーンは話が読めない。
クーン剣士団は王都でも特別な存在である。剣士団の活動範囲において、完全な自治が認められているのだ。クーン剣士団に居る限り、そこは治外法権であり、この特権を悪用するものも中にはいるのだが、大抵は団長であるエリリスの目に留まり、厳罰に処される。治外法権とはその範囲内での法施行が徹底して初めて意味を持つものである。
これがカエーナの持っていた免罪符である。エリリスが決断を下さない限り、カエーナは何者にも裁かれない。だが、どういうつもりかカエーナはこの免罪符を捨てた。
カエーナは自らの名を冠した剣士団の創設までは行ったものの、ただのチンピラの集まりに変わった時点で組織を捨てた。カエーナ剣士団はこの時点でカエーナの意志を離れた。
クーン剣士団内で起こった問題である以上、副団長毒殺の疑惑はクーン剣士団の中でかたをつける必要があった。だが、決定的な証拠がなく、エリリスはカエーナへの追求を徹底することができなかった。その内にカエーナは独断で私設の剣士団を立ち上げ、クーン剣士団に反旗を翻した。この時点でカエーナは破門となり、彼は治外法権の外に晒された。だが、それに呼応したかのようにカエーナは組織を捨てた。もし彼がカエーナ剣士団の頭目であり続けたなら、王の許可なく王都内に私設軍を持ったという罪で王宮近衛兵により捕縛される運命にあったが、彼は巧妙な手を打つことによって、王宮とクーン剣士団の及ぶ法の隙間に身を潜めたのだ。だがこれはカエーナ剣士団が極めて派手な行動は起こさないからこそ保たれる、微妙な均衡だった。カエーナ剣士団の本拠が貧民街にあったということも、ザイの出現に頭を悩ませていた王宮の対応を遅らせた一因になった。
何か一つでも間違えれば私設の剣士団もろとも破滅する。カエーナはそんな危うさの上に身を置いている。
「どういう男なの? そのカエーナというのは……」
「糞真面目で母親思い。剣の腕は剣士団でも一二を争い、人望もある」
「とても毒殺を考え付くようには思えないわ」
「俺もそうさ。そして剣士団の皆もそう。未だにカエーナがクーン剣士団を裏切ったなんて信じられん」
「ふぅん」
リョーンは中身がすっかり冷えた水筒を置いた。
「で、剣士団はカエーナをどうするの?」
「どうもこうもない。破門になった以上、どうしようもないというのが現状かな……」
リョーンは立ち上がると両腕を空に突き上げながら背を伸ばした。
「カエーナは何処に?」
「西の貧民街に古びれた櫓がひとつ建っている。その真下さ……って、おい。まさか、会いに行くのかよ」
リョーンは噂話のような胡散臭いものが嫌いである。
(クーン剣士団でも三指に入る達人ともなれば、剣を交えればわかるかな?)
剣技はともかく、剣筋というものは必ず人の心を映す。リョーンがロセの背から学んだことである。
「うぅ、寒い」
風が吹き始めると同時に、シェラが身を震わせた。
寒い。吐く息が白んでいる。
先ほどまで晴れ渡っていた空は、いつの間にか曇天に変わっていた。