第四章『剣舞う』(1)
ロセに拾われて間もない頃、リョーンは剣を学びたいといった。両親を失ってからずっと塞ぎ込んでいたから、あるいは初めてロセと言葉を交わしたのもこの時だったかもしれない。
「お前には無理だ」
と、義父は鷹のような目でリョーンを見据えて言った。気圧されたリョーンはわずかに目線を落とし、
「どうして?」
と、呟いた。
「剣を習ってどうする?」
「あいつらを殺してやる」
村が賊に襲われたのは夜だった。いち早く異変に気づいた領主は逃げ、逃げ遅れた者に待つのは悲劇だけだった。男は殺されるだけだからまだいい。年頃の女は賊の慰み物になり、その後はその場で殺されるか、連れ去られた。リョーンの網膜には、父親の死体の横で数人の賊どもに犯され、殺される母親の姿が今でも鮮明に焼き付いている。
リョーンはその頃十歳になったばかりだったが、彼らにはよい玩具に見えたのだろう。衣服を剥ぎ取られ、骨が折れんばかりの力で四肢をつかまれたところで気絶した。気がついたときにはロセの腕に抱かれており、そのまま彼の養女となった。
「おまえの両親の仇なら皆死んだ。お前が剣をならう理由はない」
それでも、と言ったところでリョーンは歯を食いしばった。憤怒だけではない。自分が賊どもにつかみかかられた光景を思い出したことで湧き上がる恐怖を、必死に押し殺している。
「剣を習えばお前はあの賊どもと大して変わらない存在になる。いや、ああいう奴らでなければ剣は振るえない」
お前に人を斬る覚悟があるのか、とロセは遠まわしに言った。
リョーンにとって剣とは賊であり、悪でもある。だが、剣を振るう人間は皆悪人なのだろうか。人を斬るという行為は悪だが、あの賊どもを殺すことは悪といえるのだろうか。ロセは剣士である。襲撃の夜に居合わせた以上、彼は村を守るために戦ったはずで、生き残ったからには何人かの賊をその手にかけたのだろう。リョーンは両親の仇をロセが討ったことを薄々知っており、だからこそ彼の養女になった。本当の意味での善が何であるのか、幼いリョーンにはわからないが、自分にとっての絶対悪とそうでないものは区別できる。
リョーンにとって、剣とは賊であり、悪であると同時にロセでもあった。
「違う。ロセはあいつらとは違う」
鷹の目が一瞬、影を帯びたことに幼い少女は気づかない。彼はしばらく沈黙した後、
「お前には、無理だ」
と繰り返した。
それから少し経って、リョーンはロセに断ることなく剣をはじめた。師はロセではなく、自衛団の男だった。三年目になって指南所に迎えられた頃、ロセは都の剣士団に勤めるようになり、家を空けることが多くなった。
たった一度だけ、ロセは剣について話した。
十三度目の誕生日を迎えた夜、ロセから装飾のついた短刀を渡された。
刀身まで銀細工で彩られた鮮やかな刀で、炉の灯りに照らされると時に黄金を凌ぐほどの輝きを見せる。リョーンがその美しさに見とれていると、
「それは武器か?」
と、ロセが訊いてきた。
彼の真意がわからず、あやふやに頷くと、
「そう、武器だ。多少の値打ちこそあるが実戦では何の役にも立たない。銀細工のせいで無駄に重いし、切れ味も悪い。護身にも使えんよ。だが、それは飽くまで武器だ」
リョーンは目で問い返したが、ロセはこれ以上しゃべる気がないらしい。とにかく、女物の装飾品など何一つ持っていないリョーンにとって、刃物であるという無粋さを除けば、これは舞い上がるほどに嬉しい土産だった。
「ありがとう」
と、自分でも聞き取れないほどの小さな声で言った。ロセにそれが聞こえるはずはないが、その顔はわずかに微笑んでいる風でもあり、しかしながら灯の揺らめきとともに悲しみの端を噛んだような色も見えた。
山を竜になぞらえるだけあって、クーンは山脈の宝庫でもある。ロセやリョーン達がただ単に「竜山」と呼んでいるそれは、クーン王国では珍しくもなんとも無い山の通称であって、固有名詞ではない。リョーンとのいざこざで謹慎を命じられた領主の息子、ムシンが篭っているのも竜山であり、リョーン一行が超えねばならない山もまたそうである。
竜山はそれほど高い山ではないが、岩壁が多く、それらを迂回しつつ山越えする必要があるためにそれなりの日数はかかる。
リョーンの故郷から、王都クーンまでは徒歩で二十日ほどである。険しい山道を通るにはいささか不便な竜車と、文字通り両足の無いタータハクヤがいるために、日数だけでも倍はかかる。
(ムシンがこの山のどこかにいる)
ムシンが山のどこに居を据えているか、リョーンは知らない。
(竜に喰われていればいいのに……)
と、がらにもないことを、得体の知れない歌を謡いながら歩くエトをみながら思った。クーンには肉食性の竜など滅多にいないというのに。
山道に入ったところで、リョーンは思い出したようにロセに声をかけた。
「義父さん」
「何だ?」
ロセは振り返らない。リョーンもそれを期待して声をかけたわけではない。
この山にムシンがいる、と言おうとしたが、そんなことは義父も承知の上だろう。リョーンが口をつぐんだのは、放火はもとより、自分の娘を犯そうとした男を斬らずにいられるほどロセは温和な男ではないからだ。もしムシンが裁かれずに道を闊歩しているところに出くわせば、ロセは必ず彼を斬るだろう。今回の処置は、ロセからムシンの身を守るために、領主が知恵を使ったのかもしれない。
「ねえ、この髪飾り、綺麗でしょ? エトの母さんにもらったんだ」
と、リョーンが右側にまとめてある赤い髪にさした銀の髪飾りをさすりながらいうと、後ろで歌を謡っていたエトが近づいてきて口を尖らせた。
「いいなぁ。あたしにはまだ早いって何もくれないんだよ」
ロセはにわかに足を止め振り向いた。彼らしからぬといえばそうだろう。
「リョーン」
鷹のような目はまっすぐにリョーンの瞳を見据えている。
「領主に刀を贈ったそうだな」
処刑前夜、リョーンはエトを通じて、領主に銀の短刀を贈りつけた。
ロセはリョーンにとってそれがいかに大事なものか、与えた本人だけによく知っている。短刀を与えたその日から今まで、一時も肌から離さずにいた思い出の品を、家が焼けて何もかも失ってしまった身で手放すということが、どれほどの意味を持つのか。
(よほど悔しかったのだ)
口にこそ出さないが、リョーンは今でもまだ悔しいのだろう。彼女にそれを言えばきっと否定するだろうが、リョーンは心の奥底で自分の無力さを痛感しているのではないか。
(十八にもなれば―――)
都に行ってもリョーンは剣を続けるだろう。都で剣を振るうならば彼女は必ず剣士団を訪れる。そのとき立ちはだかるだろう大きな壁に、リョーンが絶望するのはロセの目に見えている。
「刀が髪飾りになったか……」
ロセとしてみれば願ってもないことだ。だが、それによってリョーンの都での生活は辛いものになるかもしれない。自分も寂しくないといえば嘘になる。娘の平穏と幸せを願うところは、いかにロセといえども人の親なのだ。
「えっ?」
よく聞き取れなかったので、リョーンはロセの顔を覗き込んだ。
「何でもない。行くぞ」
村を出て二日目に、大雨が降った。
山の木々が全て倒れるのではないかと思うほどの強風で、
「神龍が降りたんじゃない?」
と、エトが冗談ともつかないことを言った。タータハクヤの表情が一瞬、曇ったのをリョーンは見逃さなかった。
山越えの途中で雨に遭うと、酷い。特に今は秋口をとうに過ぎている。木下で宿をとるにしろ、日が落ちれば凍えるほどに寒く、吹き抜ける風に体温をごっそり奪われる。
幸い、小さな洞穴を見つけた。洞穴などという、風雨をしのぐのに都合のいいものがそうあるわけでもなく、しかし山を行き交う旅人たちがこういうものを目ざとく見つけ、山越えの中継点として決めたもので、付近の住民は皆知っている。中には何もない岩壁に、木を束ねただけの粗末な屋根をつけたものもある。
リョーンたちが通り過ぎた中にもそういうものがあったが、この嵐の中では屋根ごと飛ばされているのではないか、と思わざるを得ない。
洞穴には先客がいた。若い男だが、黙ったままでいると四十歳近くに見える。荷が多く、どうやら食糧や衣類のようだ。
「こりゃ災難でしたな」
笑うと、ならびの悪い黄色い歯が見えた。
男はリョーンのことを知っていた。それもそのはずで、彼は領主に仕える隷僕だった。
(嫌な奴に会った)
リョーンは内心舌打ちした。といっても、この男を嫌ってというわけではない。ムシンと嫌なところで縁があったことに不快を感じた。
「坊ちゃんに食料を届けに行くんでさぁ」
また、黄色い歯が見えた。
男はリョーンが首を傾げるほどに彼女に対して好感を持っているようで、食糧を少し分けてくれようとした。
これにはタータハクヤやロセがリョーンの代わりに断った。
「これが領主に知れたらおまえの首が飛ぶ」
と、ロセは言ったが、それ以上に自分の娘を侮辱した男の食い物を分けてもらいたくなかった。エトはロセが言ったために黙っていたが、大声でこの男を罵りたかった。
男はこの言葉を待っていたといわんばかりに膝を叩き、
「坊ちゃんがそうしろと仰るんでさ」
と、奇妙なことを言った。
ムシンは山に篭もって十日目に神龍を見たという。晴れた日で、川に水を汲みに行っていた彼は水底に蠢く白い影を見た。影はゆっくりとムシンに寄ってきて、水面に近づくにつれて、車の輪ほどに大きな目が二つ浮かんできた。ただ、車輪というよりは長い弧形をしていて、形も色も狐の目に似ていた。
辺りはいつの間にか霧がたちこめていて、大きな目は水面から浮き出るとさらに大きくなって、遂には牛馬がすっぽり入るほどの大きさになった。
この川、あるいは竜山という山川自体が神龍なのではないかと思うほどに、それは巨大だった。濃い霧が竜巻くようにして淡い輪郭をつくり、辛うじてそれがかたちを持ったものであることを教えてくれた。ただ、川底から現れた巨大な目だけが、すでに上空にあり、ムシンを見下ろしていた。
普通、御伽噺などでは、ここで神龍がムシンに何かを言うか、与えるかするものだが、この神とおぼしき巨大な存在は、ムシンと目を合わせた後、煙のように消えてしまった。
山小屋に戻ったムシンは、隷僕の男が衣食を届けに来た時にこのことを彼に話し、
「俺は神に見張られている」
と、身震いするようにして言い、謹慎の身でありながら自分に支給される食糧や衣服が多すぎることを恐れた。
「これからは今までの半分でいい。道中、旅人に会うことがあったなら食を分けてやれ。だが、里に下りてもこのことは誰にも言うな。ただ父上にだけ申し上げろ」
それからというもの、彼は竜山において僧人のように起居するようになった。
日の出前に起き、山頂にある神龍の棲むとされる小さな泉へ赴いては、日が暮れるまで泉のほとりに座ったまま祈り続けるのである。
隷僕の男は言う。
「わたしは半月に一度、衣食を届けに参るのですが、前にお会いした時はまるで憑き物がおちたようにすがすがしいお顔になっておいででした」
リョーンは気味が悪そうに話を聴いていたが、ふと、
(むしろ何かに憑かれたのでは……)
と思った。
「なぜ我々にそれを話すのです。口止めされているのでしょう?」
タータハクヤの世話人であるヒドゥが当然のことをいうと、
「さあ、どうでしょう?ただ、あなた方には知っておいてもらったほうがいいような気がしまして……」
と、男は半笑いを浮かべたまま答えた。
(こいつ、斬ろうか……)
ロセは一瞬、本気で剣を抜こうとした。ロセが思うに、この隷僕が言っていることは全て偽りで、この話を捏造したのはおそらく領主だろう。
(都へ行けばわかる)
領主はわざとらしく自分の領内で噂をたてたりしない。山ひとつ越えた都に噂を流す。人口を介して話が化けるほど良い。噂というのは事実から多少かけ離れている方がそれを聞く人にとって受け入れやすくなる。つまり、面白くなる。この面白さというのは辺境の人にとってくせもので、常々情報に不足している彼らは、面白ければそれで満足してしまう。領主にとってはそれでよく、都で流した噂が里に広まれば、彼らはそれだけで「ムシンの山篭り」の効果があったことを信じてしまう。たとえムシンが山から下りてきても、少しじっとしているだけで、噂が真実だったと認めてしまう。あとはムシンが、これを覆すような新しい噂の種をまかなければ良い。
ロセはリョーンを見た。彼女は話を聴いても、会話には参加していない。ロセはリョーンも今の話を聴いて怒ったものだと思ったが、実は違う。
彼女はこの隷僕の話を信じた。信じ、かつ畏れた。
焚き火の揺らめきをじっと見つめながら、リョーンはムシンに軽い嫉妬をおぼえた。
一夜明けると空は晴れていて、すでに隷僕の姿は無かった。夢見心地に彼が出発したのを覚えているが、いちいち起きる気にもなれなかった。