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第三章『アシュナの結婚』(4)

「アシュナや。おやめなさい」

 言葉というものは人の想像を遥かに超えた途方もない力を持つものだが、その言葉を幾億重ねようが、ただの一声で全てを言葉を無に帰してしまう人というのは、この世に存在するものである。その幾億の言葉を凌駕する声は、白衣に身を包んだ、若く穏やかな女から放たれた。アシュナだろうがドルレル王だろうが、ましてや言葉を解さぬザイまでもが、完全にこの声の虜になった。

「アシュナや――」

 二度呼ばれずとも、アシュナは既に我に返っていた。眼前にはずぶ濡れになったザイが静かに座っている。いたたまれなくなったアシュナは、何も言わずに部屋を飛び出してしまった。従者が続き、室内にはザイと、アヤと従者一人が残った。

「ソプル殿」

 ソプルが自分のことらしいことを既に知っているザイは、吸い込まれそうな穏やかな瞳の方を見た。どうせアシュナの無礼に対する詫びの言葉でも出るのだろう。だがザイの心の内は、アシュナが笞刑に処されないにはどうすればよいのか、で一杯だった。

「娘のご無礼、どうかお許しいただきたく……」

 頭を垂れて慈悲を請うアヤに向かって、天上の声が放たれた。

「ア……シュナ」

 隣室のドルレル王共に、アヤは心中の眼を見開いた。白蛙宮の者達と違って、二人はザイと直接に接してきたわけではない。次いで部屋に響いたのは幼子のように拙いクーン語だった。

「アシュナ……悪い……違う」

「ソプル様……」

 拙いクーン語は続く。

「アシュナ……悪い……違う。ソプル……悪い……」

「ああ、ソプル様。何というお優しい御子殿」

 その場で跪くアヤを尻目に、隣室のドルレル王は人知れず退室した。

「お優しい御子殿……か」



 アシュナとザイの婚儀は、提案者はドルレル王だが、きっかけを作ったのはアシュナである。流石のアシュナも今回ばかりは平手ではたいて絶交を言い渡すなどはできなかった。見合いから僅か半月で美女と野獣は夫婦(めおと)の関係になろうとしていた。

「嫌じゃ、嫌じゃ―――」

 せっかくの晴れ姿だというのに、アシュナは駄々をこねる子どものように部屋から出ようとはしなかった。

 衣服を整えていた侍女が涙目で叫ぶ。

「アヤ様、鼻を蹴られました!」

「まぁ、それは大変だわ。アシュナ、いい加減におし」

 語調を強めるということをこの人は知らないのだろうか。人を叱るにしてはあまりにも穏やかな声に、鼻血を滴らせた侍女が腹を立てたくらいである。

「じゃが、母上!」

 アシュナの甲高い声が部屋に響く。

「儂はあんな醜い男と結婚なんて嫌じゃ!」

「まぁ、困ったわ。どうしましょう。ソプル様はとてもお優しい方なのに。えぇと……」

 何かアシュナの機嫌をとれるようなものがないか探す。アヤをこよなく愛するドルレル王も時々感じることだが、アシュナとアヤの関係は母子というよりも、姉妹に近い。

「あら、珍しい竜だわ。ほら見て、アシュナ。今朝、ゲールの言っていたとっておきの乗り物はきっとあれよ!」

「飛竜なら、もう見た」

「いえ、飛竜ではないわ。何でしょう。あの竜、鼻がこんなに長い」

 窓の外を指差すアヤがあまりにものん気な声をあげるので、アシュナはしぶしぶ窓から顔を出した。そういえば、ナバラ王国から帰還したばかりの兄が、飛竜とは別に南から珍しい竜を取り寄せたようなことは聞いたが。

「おぉ、大きい!」

「あの竜に跨れるなんて、アシュナもソプル様も羨ましいわ」

 口元で手を合わせて喜ぶアヤを見ていると、何だかアシュナもその気になって来た。

「あれに乗れるのか?」

「ええ、勿論」

 この瞬間、アシュナの頭からソプル(ザイ)のことは抜け落ちた、というのはアヤの勝手な解釈であって、自身の結婚という人生の一大事に夫のことを忘れる女などこの世にいない。

(母上は儂を助けてくださらぬ……)

 アシュナはきつく口を結んだまま、もう抗わなかった。



 初冬の晴れ渡った空が一瞬、白い息で霞む。クーンの冬の厳しさを予感しながら、ザイは窓の外に目をやった。

「何だ、象か。寒くてかなわんだろうに……」

 王宮内の一室。金縁で彩られた黒衣に身を包んだザイは、鼻の長い巨大な動物を眼にしても驚かなかった。むしろ、懐かしみを感じた彼の胸中を推し量れるのは、この異世界からの来訪者と故郷を同じくする者だけだろう。

(俺はどうやら、腋臭の女の婿にされるらしい……)

 周囲の動向からそれくらいはわかる。たかが(・・・)象の一匹に大勢の人が群がっているところを見ると、この国では象は珍しいようだ。そんな珍しい動物が婚儀の出し物に使われるくらいだから、アシュナは相当に身分が高い娘なのだろう。もしかすると、この国の王女かもしれない。

(あの()は良くなっただろうか……)

 ザイの悪ふざけのせいで笞刑に処された尼僧のことが頭に浮かぶ。考えてみれば、ザイはあの少女の名を知らない。この世界に放りこまれてから最も多くの時間を共有した娘なのに。ザイが唯一知っている固有名詞は、皮肉にも今夫婦の契約を結ぼうとしているアシュナ一人であった。

(人の名を呼べないのがこんなに苦痛なんて……)

 名前とは祈りの言葉である。人は他人の名を呼ぶことで、感覚としてとらえていた人の像が鮮明に心に刻まれるのだ。

 侍女がしきりに何かを勧めている。どうやら時間らしい。ザイは仕上げに竜を模した黒い仮面をかぶされた。窮屈ではないが、木と漆の匂いが微かに鼻に障った。

 外から象の鳴き声がする。

「ああ、聞こえているよ。聞こえているさ……」



 白蛙宮にて起こった異変に関する緘口は未だ解かれていないが、アシュナ王女と白蛙宮の最上級神官ソプル(ザイ)との婚儀は国家全体の慶事として祝うこととなった。勿論、最上級神官などという官職は、ザイのためにわざわざ特設したものである。ドルレル王の目的は、王宮内ではザイの処遇に決着をつけ、民衆に対しては御転婆王女アシュナの結婚という一つの娯楽を提供することにあった。民衆は自分達が祭りを楽しめればそれで良く、ザイがどこの馬の骨であってもかまわないことをドルレル王は知っているのである。だが、これによってかえって神龍降臨の噂は根深く残ることになる。

 王都クーンは三方を山に囲まれた城塞都市でもある。平野の開けた南方の城壁は、弧を描いており、二十年前の望南戦争の時にクーンの上空を駆けた南人の飛竜騎士達には、この要塞は引き絞った弓のようにも見えただろう。

 市街は城壁の内部にあり、王宮は都の北辺にある。

 アシュナ王女の婚礼は宮殿内部にて行う誓約の儀に始まり、王宮内の神殿を巡り、更には都の中心部を一周し、最後に王宮へ帰還するという、一種のパレードの様相である。嫁に出て行った女が最後に実家に帰還する結婚式は少々滑稽だが、王宮の住人であるザイが新郎である以上、仕方がなかった。

「全く、奇妙なことだ……」

 とは、第一王子ゲールの言である。

 宮殿内で行われた夫婦誓約の儀式はアシュナが全くおとなしかったこともあって、何の問題もなく進んだ。竜の仮面をかぶらされたザイはただ、神官の言うがまま、おどおどとアシュナの注いだ酒を干した。

 王宮での儀式が済めば、次は都でのパレードである。アヤがアシュナを機嫌をとるために話題にのせた鼻の長い奇妙な竜(象)も、ただの飾りではなく、新婚の二人はこの巨大な竜を駆って王都の中央を一周するのである。

 二階建ての王宮とは違って、都内には高層の建物が多い。とはいっても、ザイを驚かすには至らない。せいぜい五階から六階建ての木造りの建物だが、中には風が吹けば飛んでしまいそうなものもある。しかしながら都の名に恥じず、神経質なほどに区画整理された道は石畳で舗装されており、この都が軍事上の都合を最優先していることがうかがえる。先ほど、ザイの目に留まった高層の建物はどうやら警備用の(やぐら)らしい。改めて見てみると、櫓は規則的に、一定の間隔で存在している。

 また、クーンの家屋の屋根はザイにとっても懐かしい瓦式である。ただ、遠くに見える貧民街らしき地区の屋根は全て藁葺(わらぶき)だった。



 金髪白顔の南人が鞭を操り、象の背なに乗ったアシュナとザイは、天上に迫る高さから路傍の民衆に手を振った。

 その民衆の中には未だザイとの邂逅(かいこう)を果たさぬ、リョーン、エト、タータハクヤといった面々もあった。

 アシュナは平静を装っているが、隣で仮面をかぶったままのザイが明らかに感じ取るほどに、異様な空気をかもし出していた。

(死のう……)

 一度思い込めば、省みることをしないこの娘は、子どもっぽさ以上に感情の高ぶりを抑えられない性質であり、さらに不幸なことにこの娘―――いや、女は実行力にも富んでいた。

(ここから飛び降りれば死ねるかのぅ。でも竜に踏み潰されるのは……)

 そう思った時には、アシュナは既に象から足を乗り出していた。

「お、おい!」

 ザイはアシュナの(そで)を引いた。躊躇わずに投身するつもりだったアシュナが振り向いた。頬に一粒の涙が伝った。

(しょうが無いよな。こんな男と結婚させられるんだからな……)

 沐浴の時に目に留まった女を抱き寄せるような豪胆さは、この男からは既に消えていた。ザイは、自分と関わる人間の顔を見る度に、肉の引き裂かれる音と、病的なほどに白い肋骨と、滝のように流れ出る鮮血を思い起こすのである。

「なあ、アシュナ……」

 民衆は異変に気付かない、お茶目なアシュナが市井に関心を持ち、身を乗り出しているところを新郎が慌てて袖を引いたようにしか見えないのだろう。象はそれでも道を進んでゆく。

「頼むから……座ってくれ」

 アシュナは何も言わず、自分の袖を引く仮面の男を見つめている。

「アシュ……おわっ!」

 下から突き上げるかのような感覚の後、ザイは自分が中に浮いていることを知った。一瞬、空が見え、すぐにそれが地面に変わった。

(何が……!)

 激突を予想したザイだったが、僅かな衝撃と耳元で響く竜の(いなな)きと共に彼の身は無事に着地を果たした。どうやら衛兵であった竜騎士の一人が受け止めてくれたらしい。慌ててアシュナの袖をつかんでいた方を見たが、彼女はいない。

「どこだ!」

 上空から悲鳴が聞こえた。それに振り向こうとした瞬間、黒い影が地面を覆った。何もわからぬまま、危機だけを感じ取ったザイは、必死でその場から飛び退(すさ)った。

 次いで民衆の悲鳴。もう振り向かずともわかる。象が暴走したのだ。そしてアシュナは一人、象の背なに取り残されている。

 巨象の右目から血が流れ出ている。南人の御者(ぎょしゃ)が操縦を誤り、櫓に激突したのだった。

「うわぁ、何じゃこれは。誰か。誰か儂を下ろして……わぶっ」

 象の背上に取り残されたアシュナの声が途絶えた。どうやら舌を噛んだらしい。

 兵達が巨象を相手にてんやわんやする様を傍目に、ザイは自分を受け止めた老いた竜騎士に怒鳴った。

「おい、アシュナを追え。早く!」

 もはや道など気にもせず、民家を破壊して回る象を指差して怒鳴り散らすザイを見て、老いた竜騎士は口の端を曲げた。

(こいつ、自分も行くつもりか……)

 ザイは老いた竜騎士―――ロセに相乗りになった。仮面の新郎は自分もろとも巨象に向かって突撃しろと、兵士に命じたのである。言葉はわからずとも、意は通じる。

「さて、行きますぞ」

 ロセは手綱を緩めた、竜は喧騒の間をくぐる様にして走り、そして荒れ狂う巨象の元へと向かった。



(殺すのが早いが―――)

 巨象の暴走を止めるにはそれが最も手っ取り早いが、荒れ狂う巨象の息の根を止めるのにいったい何人の兵が犠牲になるのか。果たしてそれまでにアシュナは無事でいられるだろうか。それにこのまま民家を破壊して直進されでもしたら、まずい。

「おい、最上級神官殿!」

 ザイが解すクーン語はほんの数語に過ぎない。だが自分が呼ばれていることくらいはわかる。それに特に危機時、人間は言語よりも互いの声色や表情で会話をするものである。

「わしはあの竜を何とかするから、お前は姫を助けろ!」

 そういうと、ロセは何の合図もなしに竜を跳躍させた。加速も相合わさって巨象の背な近くまで跳躍した竜から、ロセは飛び出した。

(お、おい。これ俺が操縦するのかよ!)

 急に手綱を任されたザイだったが、文句を言う前に行動を起こさねばならなかった。

 巨象の背に取り残されたアシュナは座席で気を失っている。この跳躍でアシュナを助けるのは不可能だった。

「おい、起きろ馬鹿!」

 ザイが思わず叫んでしまうほどに、状況は絶望的だった。というのも、彼の眼前には既に巨大な水路が迫っていたからである。吐く息が白むような寒さの中、大水路に落下すれば死を免れないだろう。ロセが有無を言わせずに飛び出したのも、今のザイには頷けた。

 ザイはふと、巨象に飛び乗ったロセを見た。象の額の上に華麗に着地したロセは、軽やかに剣を抜いた。

「ちょっと待て、まだアシュナが……」

―――自分の嫁くらい自分で助けろ。

 とでも言うような冷酷な一撃が象の額に放たれた。象の足は次第に(もつ)れ、アシュナは宙に放り出された。

「畜生―――」

 ザイは手綱を放り出すと、無我夢中でアシュナの方へ飛び出した。

 一瞬、アシュナに手を差し伸べるロセの顔が見えた。

 ロセの手がアシュナに届く前にと、ザイは祈るようにして手を伸ばした。

(俺が助けたい……)

 衝撃。仮面が砕ける音。激痛。そして確かに捉えたアシュナの温もり。全てが同時に起こった。

 体中がどうしようも無く痛いのに、それでも意識は体の外に集中している。着地時の鈍い音からして確実に砕けているだろう右肩よりも、両腕で抱き寄せた人の安否の方が気がかりだった。

「ほう、救ってみせたな……」

 一撃で象を気絶させるという曲芸を見せたロセが、からからと笑声をあげるのを聞いて、ザイは自分が命を賭して守った人の無事を知った。



 幸い、右肩の脱臼だけで済んだザイは、これもまたあれだけの騒動にもかかわらず、舌を噛んだだけで済んだアシュナを横に寝かせたまま、静か過ぎる夜の王宮を一人酒で濁していた。

「ぐっすり眠ってやがる……」

 パレード中の騒動の後、目を覚ましたアシュナは緊張の糸が切れたように泣き出した。ザイはただ黙って彼女をあやしていたのだが、駆けつけた民衆達は新婦の危機に命を顧みず飛び出したザイに対して賞賛を惜しまなかった。ロセの剣技を目撃した者も多くおり、彼らはザイよりもロセに拍手を贈ったのだが。

 拍手喝采の中、王宮で別れを告げたはずのドルレル王が人垣を掻き分けて飛び出してきた時、パレードは笑声と共に絶頂を迎えた。

 互いに軽傷であった事もあって、婚礼の儀は王宮への帰還をもって終了した。

 式を終えた二人に待つのは初夜である。だが、自殺を試みた末に事故に巻き込まれてしまった間の抜けた王女は、長すぎる一日に耐え切れず、侍女が衣を剥がし、下着姿で夫の入室を待つ最中に眠りこけてしまった。色香ばかりは十七の女相応のものだったが、それよりも童女のように無垢な寝顔を見るだけで、ザイは微笑と共にアシュナに対してとびきりの愛情が芽生えたのである。

 寝相の悪いアシュナの頬にそっと口付けようとしたが、ザイは自分の面持ちを思い出し、柄にもないことだと思い、やめた。

「いるかい?」

 侍女は初夜の証人である。彼女は事が始まるのを確認するまで、戸の外で控えている。

 ザイは軽く戸を叩くと、顔を見せた侍女に対して酒を持ってくるように言いつけた。侍女は訝しげにアシュナの方を見たが、彼女も事情を察したらしく、拙いクーン語の命じるままに部屋を去った。

 月光を酌んだような澄んだ杯に酒を注いだザイは、朝まで戸の外で控えねばならない侍女を哀れみながらも、今日という一日に満足して、冬の空に乾杯を告げた。




三章『アシュナの結婚』了

四章『剣舞う』へ続く

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