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第三章『アシュナの結婚』(3)

「何、笞刑だと?」

 クーン王宮は赤き玉座の間、白蛙宮の使者から報告を受けたドルレル王は顔をしかめた。

「はい、竜の御子は尼僧に笞刑を宣告し(・・・・・・)、処刑を目撃するや否や止めに入られました」

 使者は無論、平伏しているが、彼女は微かに右手を気にする素振りを見せた。彼女の正面には文官(無論、最重要機密を知る資格のある者たちだけだが)を横に控えさせたドルレル王が鎮座しているが、使者の右手には第一王女アシュナが御簾(みす)の向こうで傍聴している。だが、彼女はこの謁見に対して公式に参加していない証として、沈黙を守っている。

 使者は白蛙宮の副祭司長である。生真面目な彼女はアシュナがこの席に顔を出していることが、少々気に障ったのだ。

「――して、その後は?」と、ドルレル王。

「御子は血塗れに染まった僧衣を御召し替えなさらず、御手も尼僧の血で穢れたままです」


――おお、何という。


 満座から声が洩れた。唯一沈黙を保ったのは、発言権を放棄している御簾の向こうの貴人だけであった。

「それは、ただ事ではないな――」

 そう言ったきり、ドルレル王は沈黙してしまった。どのような席でも考え事をしてしまうのはこの王の少ない欠点の一つである。

 ザイは彼自身の考えを凌駕して、既に宗教的な生き物となっていた。白蛙宮の人間にとって神の偶像に近しい存在ということだ。宗教において偶像がいかに強い力を持つかはここでは触れまい。神が血塗れの衣を纏うことは、万人が凶事として受け取る予兆だろう。敬虔な竜信者でありながら、宗教に振り回される危険性を知っているドルレル王は、ザイの行為をどう解釈するか迷った。啓示を馬鹿正直に受け取れば宮中の不安につながり、神龍(しんりょう)降臨についていくら緘口(かんこう)令を敷いたとしても、不安だけが民衆に波及することになる。だからといって出鱈目な解釈を示せば、神の怒りをかう。

 玉座の間は沈黙で凍りきった。それを破ったのは透き通った女の声だった。

「何という、お優しい御子なのじゃろう……」

 発言権のないはずのアシュナが言葉を発したことに、ドルレル王は驚かなかった。驚く代わりに「またか……」といった呆れの表情は作ったのだが。

「『東す灯(ソプル)』はお優しい御子に御座います。万死に値する罪を犯した尼僧に笞刑を宣告し、しかしながらその残虐に耐え切れず、自ら止めに入られたのです。神は厳格であり、同時に寛容であるということを御身をもって示されたのです。そしてこのようなことが二度と起こらないように、鮮血の衣を御召しのまま、犬らを戒めておられるのです。ですから、『東す灯』はお優しい御子に御座います」

 開いた口がふさがらないとは、この時のドルレル王のことを言うのだろう。

(そんな軟弱な神がどこにいる……)

 多神教とは違って、一神教の神には文字通り超人的な精神が求められる。畜生にも劣る人間の本性を、まるで図書館の書であるかのように整頓し、その抑制を信者に義務付ける能力である。このような難事に成功した神がいるとすれば偉大としか言いようがないが。

 ドルレル王は呆れたが、満座での反応は違った。彼らは公式には存在しないはずの王女の言葉にどよめき、中には「王女の仰ることはもっともだ」などと軽口を叩く者もいた。

(むぅ、これは……)

 満座を無視して話を続けようとするアシュナを、ドルレル王は制した。彼はしばらくの沈黙の後、口を開いた。

「一月後に竜の御子とアシュナの婚礼の儀を執り行う」

 今度はドルレル王以外の皆が呆れる番であった。



 アシュナは醜男が好きな訳ではない。諸所に破天荒な性格が垣間見えても、彼女はやはり王族の娘である。王族の娘の存在理由は血統以外にない。クーンで影響力のある貴族に嫁ぐこともあれば、クーン人が南人と蔑称するナバラ王国の王族の元に嫁ぐこともありうる。だが年頃で負けん気の強いアシュナは血統以外にも自分の存在価値を見出そうとした。最初に彼女が目をつけたのは政治である。積極的に公式の場へと姿を現しては幼稚な発言を繰り返したのだが、伴侶のない姫の意見に耳を傾ける者などいないことに気付いてからは、早々に諦めた。そして今、彼女が選んだのが、宗教であり、結局は血統なのである。神の血をクーンに取り込むことで、南人との戦争で国土の三分の一を失ったクーンに再興の活力を与えようと、本気で思ったのだ。そして初恋すらしたことのないアシュナは、半ば本気で先ほどの発言をしたのだった。つまり、彼女は恋愛には至らずとも、ザイに興味を抱いている。

 ドルレル王がアシュナに劣らず破天荒な決断を下したのには理由がある。

 神龍降臨の噂が都を徘徊している事は、ドルレル王も知っていた。それでいて何の手も打たなかったのは、無論、王宮が動いた瞬間に噂が真実に変貌してしまうからだ。

 そして、神龍降臨を知るものは皆、ザイの処遇にも困っていた。宗教、政治の両面からザイを浮かせておくのは得策ではない。かといって落ち着けるわけにもいかなかった。宗教的に強すぎる影響力を持つこと必至なザイは、表に出せばドルレル王個人にとって災いとなるからである。

 アシュナの発言に賛同した官達は阿呆ではない。彼らは無知な娘の台詞が、意外にもこの中途半端な状態を解決する妙案であることを、そこはかとなく王に提示したのである。

 ドルレル王は、ザイとアシュナの縁談を全く考えなかった訳ではない。だが、やはり彼も人の親で、可愛い娘が醜男の嫁になるなど許せなかった。信心深いドルレル王はこの考えが浮かぶたびに、神への冒涜を恐れ、己の中から打ち消してきたのだった。

 御簾の向こうで何やら妖しく微笑むアシュナを想像したドルレル王は、自らの決断に対しての充実感と、不安と、そしてわずかな開放感を覚えた。



 ザイの失望を何に例えればよいのだろう。目は虚ろで微動だにせず、はっきりと少女を見ているはずのそれは、誰の呼びかけにも、朝な夕なの明かりの変化にも全く反応を見せず、ただただ見ているのである。

 少女は九死に一生を得た。だが彼女の神は、少女の幼い体に大きすぎる代償を求める。

「あぁ……」

 寝台にうつ伏せの少女が微かに目を開いた時、ザイは心の底から幸福を覚えた。

 尼僧の少女の顔が歪む。その瞬間に、ザイは地獄に叩き落されたような気持ちに変わる。

「昨日、医者みたいなのが来て、お前の傷を診ていったよ。俺には言葉がわからなかったが、大丈夫、きっと死なないから。きっと――」

 少女が目を覚ましたらどうなるだろう。彼女はザイの戯れのせいで笞刑に処されたのだから、処刑の時を思い出し泣き叫ぶかもしれない。その時、自分はどうすればいいのか。

(また自分のことばかり考えてやがる!)

 そのようなこと、どうでもよいではないか。今の自分の願いはこの娘の恢復だけなのだから。

 少女の目が開いた。彼女の視界に真っ先に飛び込んできた像は、頭の薄くはげた醜悪な男の顔だった。少女は自分の手を握り締めたまま、泣きそうな顔で見つめる男に対して、優しく微笑みかけた。男にできることは、童子のように泣きじゃくることだけだった。

 笞刑から半月と経たずに、ザイは王宮に移送された。アシュナとドルレル王の意向が重なったのだ。ザイは数ヶ月も世話になった白蛙宮に何の執着も示さなかった。ザイという男が持つ執着そのものが宗教的な意味を持ってしまうことに、ようやく気付いたのだ。その代償の多くを支払ったのが自分ではなく他者であったことが、ザイには耐えられなかった。彼にできたのは、拙いクーン語で最後に少女の安否を問うことだけだった。



 ザイとアシュナは既に出会っている。ザイにとっては生まれて初めて胸元に抱き寄せた女であり、アシュナにとってもそうだった。彼女がザイの沐浴に潜入したのは好奇心ばかりではなく、自身が白蛙宮の異変の中心にいたというある種の責任感からであった。もっとも、それを知った時のドルレル王は肝を潰す思いだったが。

 笞刑から十五日目に王宮内の一室でザイとアシュナは再会した。アシュナの意向もあって、ドルレル王は同席しない。従者を含めた五人が、「見合い」の参加者だった。その中には白衣に身を包んだアシュナの母、第一王妃アヤの姿もある。ドルレル王が壮年の頃に(めと)った女で、年は三十三歳になる。アシュナの顔つきはほとんどアヤから受け継いだものだが、母はアシュナと違って、銀を織り込んだような美しい白髪であり、顔つきは穏やかでやや下がった目尻をしている。ザイと目が合った瞬間に、微笑とともに目を伏せ、後は上品極まりない泣き黒子(ぼくろ)が白い肌に浮かぶ女だった。

(女の(かがみ)のような人だな)

 もし、ザイが事の成り行きを知っていたなら、アシュナよりは年が近く、アシュナの十倍は良い女であるアヤを娶りたいと思っただろう。

 ザイに遅れて、アシュナが入室した。

 白い犬の王の一族にとって神聖な色は太陽の色である白だが、クーン王朝が伝統的に好むのは赤である。紅葉の光だけを編みこんだような着物姿のアシュナを見たザイは、最初、それが誰なのかわからなかった。

「ああ、あの腋臭の女か……」

 ザイのこの台詞が届いた時のアシュナの顔も見ものだろうが、当然ながらザイの言葉が聞き取れない彼女は、しかしながら一人前の婦人のように微笑み返すこともせず、逆に言葉の壁を意に介さないのか、ザイを質問攻めにした。

「のぅ、のぅ。ソプル(東す灯)殿。殿は火の魔術を使われるそうじゃが、犬にも見せてはくださりませぬか?」

 ずいずいと、顔を寄せてくるアシュナに対して、ザイは返答に困った。

(どうする。俺は何を喋れば良い。喋れば、今度はこの女が鞭打ちになるのか?)

 ザイは沈黙を守った。この無用心に顔を近づけてくる女の唇をみていると、何度奪ってしまおうと考えたことか。だが、ザイは何もしなかった。彼の興味は専ら、何のために自分がこの場に居合わせているのか、であった。

 しかしザイと違って相手の身を案じる必要のないアシュナは、寡黙以外にとりえの無い男に対する女を地で行った。

「つまらぬ。この男、本当に神の使いなのかや? 頭は禿げておるし。太っておるし。御子の癖に何故にあばたがあるのじゃ。おいそこな下郎。もしや父上は儂をたばかるために、市井からこのような下賎な男を連れてきたのではないだろうな。答えよ!」

 傍に控えた下郎は、汗だくになって平伏するしかない。内心では「誰かこのうつけ姫を止めてくれ」と叫びながら。

 アシュナは妄想癖とまでは行かないものの、一度考えると突っ走る傾向がある。何を言っても反応の無いザイに対して、彼女の不満は次第に怒りへと変わっていった。

「えぇい。この男は何ぞ喋らぬのか!」

 アシュナは袖をまくし立て、目の前にあった茶請けをザイに向かって放り投げた。

 同席しないとはいったものの、それでもと思い、隣室に潜んでいたドルレル王は娘の暴君ぶりに心底呆れながら、しかし婚礼の儀に対する決心は変わらなかった。

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