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第三章『アシュナの結婚』(2)

 ザイは白蛙宮の神殿に移送された。神語を理解できる者は神官だけであると信じられているためか、傍には常に尼僧(にそう)が侍っており――彼女はザイの操る言語が理解できないのだが――ザイが何も言わなくても衣食の全てを整えてくれる。破格ともいえる待遇に気分をよくしたザイだったが、彼は自分が奇跡の体現者として期待されていることをあまり理解していなかった。



 宮殿に釘付けにされていることを除けば、ザイは自由だ。彼が最初に覚えたクーン語は水、(かわや)、寝る、の三つだった。元来、怠け癖のこびりついたこの男は、軟禁ともいえるこの状態にむしろ喜びさえ感じた。

 ザイは思ったほど自分が束縛されていないことを、良い意味で捉えた。つい調子に乗って、煙草(たばこ)をふかしてしまったのである。人の気配に気付いたザイが振り返ると、尼僧が青白い顔をして立っていた。ザイは彼女が何に驚いているのかわかっている。

「何だ。この国には煙草が無いのか。俺もあと三本しか無いのに……」

 尼僧は走り去ったが、すぐに戻ってきた。腕一杯の香を抱えて。

「ねぇ。あれを持ってきてくれ。あれを」

 そう言って、ザイは杯を干す真似をした。とは言っても酒ではない。ザイは夕食に添えられる薬湯のことを言ったのである。ほとんど味がしないが、微かに柑橘(かんきつ)系の酸味が効いていて、ザイの好みである。尼僧はすぐに諒解したらしく、再び部屋を去った。

「言葉も通じないのは苦労するが、あの娘は物覚えがいいな」

 尼僧というにはまだ、あどけなさを残した顔つきをしているが、彼女は齢十五にして上級神官の補佐を勤めている。髪はクーン人に典型的な深い黒色である。鼻立ちはこじんまりとしており、微笑むと小さなえくぼができる少女だ。

 この少女に四六時中世話をしてもらうことに、ザイはある種の至福を感じていた。あぶらっ気の多い男が、少女に対して――その気になれば必ず実現したであろう――(とぎ)も望まずに、穏やかな夜をすごしたのは、彼女が現在のザイにとって、唯一の安全であったからだ。そう、安らかであるということは、この上なくいとおしく、そして淡い雪のように儚いものであることをザイは知っているのである。

 少々の間、故郷でも久しく味わったことのない悦に浸っていたザイであったが、彼のこの小さな幸福は、身も凍るような鮮血と共に流れ去ってしまう。



 戯れに――そう、戯れに行ったことが、一体どれだけの意味を持ち得るのだろうか。しかしながら、人の犯す過ちの多くは戯れに端を発するものである。ザイは自らが思慮を伴わない行動をする権利を最初から与えられていないことを、身をもって知る。

「どこの世界でも人間のやることは変わらんな」

 最近はさすがに退屈を覚えてきたザイが漏らした言葉は、まるで彼らが退屈を楽しむ天才であるかのように、皮肉と呆れをないまぜにぶつけたものだった。

 毎日、定時になると神殿中央に位置する聖堂に尼僧が集まり、小一時間ほど祈祷(きとう)を行う。

「あーあ、また始まったよ。こっちは退屈で死にそうだってのに」

 よほどでもない限り退屈が人を殺すことはないが、多くの人はそれに耐えられないものだ。ザイもまた、凡庸というべき人の一人だった。

 白蛙宮の食事は細い。肉のない(あつもの)と、パンなのか餅なのかわからない奇妙な塊と、ザイが唯一好んだ柑橘系の薬湯で構成される食事は、量こそ少なくはなかったが、腹を満たしても舌を満たすことは出来ないほどに淡い味付けだった。味の濃い食事に慣れすぎていたザイにとっては、最大の泣き所である。

 ザイは一人で食事をとる。誰から言われるまでもなく、また、ザイも誰に望むでもなく、彼が最初にこの世界の食物を口に放り込んだときから、それが不文律であるかのように守られてきた。

 彼が不機嫌な顔をすると、これもまた決まって少量の弱い酒が食後に運ばれてくる。ザイにとってはこれが、尼僧と戯れる以外の唯一の楽しみというべきものだった。

 気まぐれと偶然は別物である。気まぐれとはいえ、人が確かに自分の意志で行うそれは、人間に判断の余地さえ与えない、偶然という言語の化け物のような現象と同一視すべきではない。それ故に、気まぐれというべき彼の行動はどうしようもなく深く、ザイの胸をえぐる。

 食時、ザイは「気まぐれ」に例の若い尼僧を同席させた。元来賑やかな食卓を好むこの男は、言語が通じないことなどまるで忘れたかのように、無作法に喋りだした。食後に運ばれた少量の酒が空になった頃には、ザイは我を忘れたように饒舌(じょうぜつ)になっていた。だが酒の量からして酔っているわけではない。

「おい、これを見てろよ!」

 といって、クーン語では表現しようのない得体の知れないもので、尼僧の目の前に火をつけては、彼女が恐れおののく度に大きな笑い声を上げた。楽しんでいるというよりは、退屈と倦怠を吹き飛ばすために、あえてそうした。

「はっはっは――驚け、驚け!」

 どんなに取り乱しても、彼女はザイの名を直接呼ぶことをしない。

「ああ、お願いです。お願いですから、もうおやめになって、『東す灯(ソプル)』様」

 と、泣きそうな顔で懇願する。しかし微かに頬にできた小さなえくぼは、彼女が短期間とはいてザイに侍ってきたことの証であった。

 ここで「東す灯」とは何かという講釈を行うのはやめよう。クーンの東には何があるのか、今をもって知らないのはザイだけであるのだから。

「こら、こら、ザイと呼べとさっき言っただろう」

 ザイは接吻を迫る男のように尼僧に顔を近づけると、彼女の(あご)をつかんで強引に振り向かせた。

「俺は、ザイ」

 自分を指差しながら、そういったザイは、今度は尼僧を指差した。

「さあ、呼んでみろ」

 尼僧の目付が変わった。驚きの一語で表現するにはあまりにも張り詰めた表情は、驚愕と呼ぶに相応しいものだった。だが、ザイは気付かない。いや、彼女の表情の変化には気付いているものの、それがどれだけ重大なことであるのか、推し量ることをしなかった。

 ザイは繰り返す。

「(自分を指差し)ザイ」

「(尼僧に向かって)さあ――」

 幾度、(ザイにとってばかばかしいことこの上ない)このやり取りを繰り返しただろうか、尼僧の驚愕はやがて絶望に変わり、ザイが異変をようやく異変として受け入れた頃には彼女は声のかけ様もないほどに泣き崩れていた。

(ああ、やりすぎだ――)

 心から反省の念が沸くほどに、尼僧の泣き様は哀れだった。彼女は他に侍っていた尼僧に助けられ、どこかへと消えてしまった。

 疑念。そう、この大げさなやり取りの果てに退場してゆく若い尼僧を見ながら、彼女の手をとる別の尼僧の目に涙を見たときに、泡のように浮かんだ小さな疑念。ザイは自分が万が一にも犯してしまったかもしれない過ちに、この時既に気付いていた。だが、彼はその一を拾わなかった。小さな過ちの欠片を拾ったからといって失うものなど何もないのに、人は何故見て見ぬふりをするのだろう。気付いていた過ちを通り過ぎたところに災厄が起こることを、身をもって知らぬ人間などいないというのに。これに一時の答えを求めるとしたら、それは油断よりも羞恥というべきだろう。ザイは、勝手に泣き崩れた少女を慰めてまで、自分の過ちかも知れない過去を認めることを拒否したのである。

(きっと、大したこと無い。大したことないさ――)

 そういって、寝室に篭ったザイは、喉の渇きを押し殺したまま眠りについた。



 笞刑(ちけい)といえば、窃盗などの軽罪に対する罰のような響きがあるが、法や宗教というものは人間の節制のために存在するものなのに、どういうわけか犯した罪を凌駕するほどに過度の刑罰を好むものらしく、クーンにおいての笞刑は極刑を意味する。

 ザイが尼僧を泣かせてから次の日、白蛙宮は早朝から物々しい雰囲気に包まれていた。

「おい、あの娘はどこに行った?」

 ザイが近くの尼僧に問うた頃には、既にそれは始まっていた。

 悲鳴。

 この世のものとは思えないような、残酷な音。

 中央広場に顔を出したザイの頬に、熱い液体が飛び散った。ザイはそれが千切れ飛んだ肉片であることを、眼前に広がる地獄を認識すると同時に悟った。

「何を……何をやっている!」

 泣き崩れた少女は笞刑に処された。特設された処刑台の上に拘束され、彼女はまるで畜生でもあるかのように容赦なく鞭打たれていた。

 太った先端に棘のついた、鞭というよりは鈍器、鈍器というよりは刃物のような処刑器具で、彼女の背なの肉はただの一振りで千切れ飛び、白い骨が顔を覗かせていた。

「やめろ!こいつが何をしたっていうんだ。やめろぉ!」

 弾丸のように飛び出し、執行人から鞭を取り上げたザイは、ことの原因が自分にあることをしっかりと認識していた。そしてこの事態を収めることができるのは自分だけであることも。

 ザイは泣き叫ぶ少女の戒めを解き、自らの胸に抱き寄せた。周囲の者が事態を飲み込むまで、彼は尼僧の手当てを待たなければならなかった。背なから滝のように流れ出る赤い液体を見続けるうちに、ザイは発狂しそうになった。

 ようやく、ザイの真意を理解した祭司長によって、尼僧は奥に運ばれた。ザイは血まみれになった僧衣を着替えるように勧める尼僧たちを全て退け、その場に立ち尽くした。

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