第一章『赤髪のリョーン』(1)
赤髪のカルといえば都でも少しは知れた名だ。
「カル」とはあだ名に過ぎず、古い言葉で刃を意味する。刃は人を傷つけることから、死を暗示することもある。彼女の名はリョーン。ふたつ名に恥じず燃えるような赤い髪が印象的な女だが、赤髪は生来のものではなく、後天的に身についたものだ。背はそれほど高くなく、透き通るような肌に、磨かれた黒曜石のような黒い瞳をしている。歳は十八。匂うような女にもかかわらず、彼女が「刃」と物騒な愛称で呼ばれるたびに誇らしげな顔をするのは、自分が剣士であることを何よりも尊んでいる証拠だろう。剣を振るうたびに長い髪が風に巻かれる姿は、いかに洗練された舞でもってしても比すべきところではない。
剣刃に映る月のような容姿に敬意を表するのなら、彼女の名をあえてカルと呼ぶことに一種の清々しさを感じずにはいられないが、リョーンとつけられた名こそ、彼女にとって宿命を超えた特別な響きを秘めていた。
「神なる竜」
リョーンの持つ常識の範囲内では、竜は空想種ではなく、家畜化された動物であり、また敬うべき神の姿だ。文明のとる姿は、その脚部に何を据えるかによって多様に変化し、生活様式はおろか言語までも異世界の如き格差を人々に与える。
人は足で戦争をする。クーンという、リョーンの住まう王国は山々に囲まれた険隘の地に興り、野生の竜を手懐け、それに跨ることで部族間の衝突において最も重要な機動力を克服し、山岳地帯における強力な統治国家を現出させた。同時に原始宗教である山岳信仰に割り入る形で竜神崇拝が興り、王家の権力を強固なものにした。
――クーン人は竜とともに生き、竜より先に死ぬ。
平野から訪れる人々は、時にこう諷す。だがクーン人にとってこれは侮辱にはならず、むしろ誇るべき要素であり、その竜への尊敬と愛情の深さは騎竜民族と呼ぶに相応しい。リョーンは生れ落ちたときに聖なる名を享けたのであり、彼女が敬虔な竜信者であることはいうまでもない。
リョーンは美しい。故に無論、彼女の脳裏にある神の御姿は美の到達点に位置する。この世の何よりも美しくあるべき神は、それ故に姿を持たず、竜という偶像を借りてリョーンたちの前に顕れる。リョーンは自らの美貌に気づかない類の、つまらぬ女ではない。彼女はその忌み名を呼ばれるたびに、神の御姿が閃光のように脳裏に浮かび、次いで自らの姿が神に近しいことを人知れず誇るのである。彼女が本名よりカルというあだ名の方を気に入っているのは若さ故の衒いというべきで、リョーンと呼ばれて初めて彼女は彼女足りえることを忘れているだけだ。
カルと同じくリョーンという語もクーン地方の古音である。本来は山霊と同義で、信仰の対象が山から竜へ移ると同時に竜のことを指すようになった。これは家畜に代表される低位の竜種とは違い、奇怪な力を持った高位竜の総称である。便宜的に「神龍」とでも記しておこう。神龍は天地を統べる生態系の王者であり、人類が自己を保つための回帰点ともいうべき存在である。故にリョーンは神と同義だ。
神と名づけられた女の鼻っ柱が強いのは当然だろう。
彼女はまだ自分の髪が碧かった頃、人を斬った。
辺境の村に生まれたリョーンは幼い頃、山賊の襲撃をうけたおりに両親を亡くし、その場に居合わせたロセという名の老剣士に拾われた。
リョーンは復讐心から剣を握ったが、ロセが許さなかった。それでも諦めきれないリョーンは、移り住んだ村の指南所に通う男に弟子入りした。男はまだあどけない遊び相手を剣術の真似事であしらっていたが、三年目に思い切って指南所に迎えると、リョーンはすぐに頭角を現し、指南所でも有望視されるようになった。だがそれもつかの間で、肢体が香るようになってくると力が伸びず、素養の悪い後輩に力づくで押し倒されたこともあった。並みの女ならば羞恥や恐怖のあまり悲鳴を上げるところだが、リョーンという女はこういう時、
「どけ」
と微動だにせずに言う。これに面と向かっても呑まれないだけの胆力を持った男は彼女の近くにはいない。いや、一人いた。馬乗りになってリョーンの胸元に手を這わせている当の本人で、名をムシンという。だが彼は胆力云々よりも、領主の息子という己の肩書きを過信しているにすぎない。
「どけ」
微かにかすんだ声で、しかしながら力強く言い放つのだが、それでもムシンがリョーンの体を弄ぼうと胸元をはだけた瞬間、彼女は素早く男の小指をとり、躊躇わずに折った。ムシンが激昂する前に起き上がったリョーンは、拾い上げた刀で男を背から斬り付けた。
「首を落とされないだけましと思え」
美顔がひしゃげるほどに泣いて命乞いをするムシンに向かって言い放つと、リョーンは何事もなかったかのように去った。
三日後にリョーンの家が焼けた。幸い家には誰も居らず、このあたりにムシンの小心が表れている。
リョーンの養父であるロセは都の剣士団で指南役を勤める剣豪である。元は傭兵で現役を退いたところ、王宮のつてから声がかかり現在に至る。いかに地方領主といえども背後に王宮のちらつく者を軽々しく牢にぶち込むことはしない。だが、ムシンは復讐心に駆られ、リョーンの家を焼いた。幸いリョーンは無事で、一見事故として収拾をつけられそうだが、村人は皆ムシンがリョーンを犯そうとして返り討ちになったことを知っており、都からロセが帰ってくれば必ずそれを知る。クーンの法は辛く、事が王宮にまで持ち込まれれば必ず領主が責を負うことになる。保身に走る人がとる行動はひとつしかない。
排除である。領主は裁定の場を設け、本来問うべき罪を匿し、領主の子を斬った罪でリョーンに斬刑を宣告した。また、リョーンを犯そうとした子の罪を認め、一年の間険しい山に篭り、山霊と対座することで自らの罪をすすぐことを命じた。
リョーンは親の七光りなど意識したこともなかったが、まさか自分が鎖につながれるなどとは思わなかった。それ以上に、自分が罪を犯したという自覚すらなかった。彼女は自分を犯そうとした男に相応の報いを与えたに過ぎない。領主は裁定において過ちを犯している。断罪の刃に服すべきは彼であって自分ではない。刃を振るうのも神であって領主ではない。
しかし、死は眼前にある。リョーンのような信心深い者が死を回避するために最後にたどり着く答えは決まっている。それは精神の死の回避である。だがリョーンは若い。彼女の若さが、肉体の死をも拒んだ。
「山海を統べる神龍よ。我が名、我が血を生みたるしじまの王よ。今、神の枝葉が枯れようとするときに、あなたは何故わたしに気付かないのか」
自らが神の枝葉であるなどという傲慢を口にする者に神が助けをよこすかどうかは疑問だが、処刑前夜、リョーンは鉄格子の外に神の使いを見た。
「スサ!」
クーン人は必ず竜とともに居る。竜もまたそれが使命であるかのように人に忠実である。
竜には様々な種が存在するが、クーン人が家畜化している種は一般に走竜と呼ばれ、文字通り山地を走ることに秀でた竜である。山緑をその身に宿したかような色をしており、膚は白くなった腹の部分以外は鞣革の様に硬く、外見は蜥蜴に近い。蜥蜴と違うのは、走竜は前足が退化しており、後ろ足だけで山猫顔負けのしなやかな歩行を行う。機動に制限のかからない平野に生息する走竜の中には、兎の様に跳躍前進する種もある。
リョーンもまた、竜を駆る民族の端くれである。スサとは彼女が十の頃から手綱を任されている竜の名だ。雄大で落ち着きのある、若い竜である。神にすがったまま儚い生を終えようとしていたリョーンだったが、月のない夜を忍んで現れたスサの姿に光明を見出した。
「ああ……スサ。お前は神の使いだ」
人が困難から生き延びるために必要なものは知恵である。天運などというものは知恵をふりしぼった者にしか味方しないとリョーンが考えるのは、若者らしい発想ではあるが、明日には死ぬという窮迫した状況が彼女の知性を呼び起こそうとしていた。
「一人じゃないな。お前を連れて来た者がいるだろう」
手枷が邪魔で鉄格子から外を覗き込むことはできないが、彼女はそこに人の気配を感じた。