第8章:謎の電話番号
【SIDE:木村海斗】
“過去、現在、未来”。
人は過去があるから今がある。
その過去にどんな体験をしてきたのか?
楽しい事、嫌な事、嬉しい事、悲しい事……数多の思い出がある。
記憶の中でしか思い出せない過ぎ去りし日々。
たった今過ぎ去った1秒前は既に過去。
という考えをすれば、数秒先の未来は刹那的な現在により構築される。
今という瞬間、生涯という時間に無数の積み重ねをしていく中で、感情に左右された出来事だけが記憶に刻み込まれていくのだ。
俺にとって3年前の過去は封じ込めておきたいものだ。
……紫苑と出会ったのも過去のひとつ。
愛情と温もり、失うという絶望、辛い現実を前に嘆いた。
紫苑に対して愛を抱いて過ごしていたという過去。
思い出したくもないと逃げてきたあの夜の出来事。
俺は3年の月日を経て、その過去を知りたいと感じていた。
あの夜に紫苑に何が起きていたのか?
俺は今まで自分本位でしか調べようとしていなかった。
どうして彼女は俺の前から姿を消してしまった?
消えた事への寂しさは憎しみに変わり、やがて忘却されるだけの記憶へと成り果てた。
俺はいつも自分の事ばかりで物事を見ていた。
彼女の気持ちで考えた事は一度もなかったのだ。
彼女の立場で考えるようになったら、いくつかの疑問が浮かんでくる。
紫苑はずっと何かを心の奥底にひとりで抱えていたのだ。
俺の知らない事実がそこにあるとしたら……?
俺は知りたい、あの夜の真実を……。
それが俺と紫苑を本当の意味で結び付けてくれるきっかけになるはずだから。
「……なぁ、紫苑。それはさすがにマズイと思う」
「そう?私的には悪くないんだけど?」
その日は大学の講義が午前中までしかなく、俺は紫苑と遊びに出かけていた。
デートと言うほど特別な事でもない。
夕飯の買い物に付き合う程度の軽いものだ。
その前に喫茶店でお茶でも飲むかと言う事になり、店内でくつろいでいた。
「明らかに……砂糖入れすぎだろ?」
「入れすぎじゃないよ、これがノーマル。今日は控えめな方だって」
俺はコーヒーを飲みながら紫苑の手元を眺めて愕然としていた。
彼女は紅茶とケーキのセットを注文していたのだが、その紅茶に入れる砂糖の量が半端ではないのだ。
シュガースプーン5杯……いくら甘党だとしてもそれはやりすぎだと思う。
「あまり糖分ばかりとると虫歯か糖尿病になるぞ?そして太る」
「あはは、ご心配なく。甘いもの好きだからこれくらいなら大丈夫」
「見ているこっちが気持ち悪いんだよ」
「ひどいっ。海斗、恋人に対してその言葉は禁止!」
びしっと指で警告する彼女。
気持ち悪いは言い過ぎかもしれんが、言いたくなる俺の気持ちは理解してくれ。
「あまり過剰な摂取は味覚がおかしくなるんじゃないか?」
「あら、私の心配してくれてるんだ?」
「……お前が味覚音痴になったら俺の食生活は全滅だからな」
「海斗も自炊できるくらいに料理を覚えてくれたらいいのに」
今では紫苑が食事を作ってくれるので比較的バランスの良い食事をとれている。
普通の一人暮らしの大学生の男は外食、コンビニの食事が日常だからな。
そういう意味では紫苑には感謝してる。
「海斗は甘いものは嫌いだっけ?」
「……さほど好きじゃないだけだ」
紫苑は紅茶をスプーンで混ぜながら、
「私は甘い紅茶が好きなの。飲んでいるとすごくリラックスできるもの」
「そうか?見ているだけでも胸焼けするぞ」
「うーん。その辺は見解の相違ってやつ?」
「常識か非常識かの問題だと思う」
ようするに限度を知れ、と言いたい。
もはや、それは紅茶ではなく甘茶だ。
何事においても許容範囲というものはあるわけで。
そんな風に雑談に盛り上がっているとその音は喫茶店に鳴り響いた。
携帯電話の着信メロディ、静かな音楽の流れる店内に似つかわしく音。
「あっ……」
紫苑は携帯を取り出して、画面を見つめていた。
俺の顔をちらりと見るとすぐに操作して切ってしまう。
「何だ、電話か?俺に気にせず出ればいいぞ。内容がアレなら外に行ってもいいし」
「ううん。ただの迷惑メールだったから問題ないよ」
どことなく紫苑の様子は焦っているように見えた。
俺はその態度に気づかないふりをする。
「そんな事より、このケーキすごく甘くて美味しい。海斗も食べればいいのに」
紫苑は話題を変えてケーキを食べ始めた。
俺には最近、気になっていることがある。
こうして着信が来ても電話に出ない事はこれまでも何度かあった。
毎回、画面を見るだけで終わってしまうのでただのメールだと思っていたのだが、どうもそうではないみたいだ。
それに気づいたのは彼女の携帯電話の着信メロディ。
メールが来た時になる音楽と電話の着信メロディは違う。
そう、さきほどのメロディも“電話”の方に登録しているメロディだった。
……深く気になるほどでもないが些細な事を気にしてしまう事は時々あるだろ。
その“些細”な事が大抵の場合は“重要”だったりする。
しばらくすると彼女は小声で囁くように、
「……ごめん、少し席をはずすわね」
「ん、トイレか?」
「海斗、分かっているならそういう事言わない。デリカシーないわよ?」
恥ずかしそうにそう言うと彼女は席を立つ。
俺は「悪かった」と彼女に謝ると鼻先をちょんっと彼女につつかれた。
そう言う何気ない仕草が自然になるくらいに今の俺達は恋人という関係に身をおいてるのだと実感できる。
「……あれ?」
俺はテーブルに置かれたままの彼女の携帯電話に気づいた。
よくあるお話、「交際相手の携帯電話が気になりますか?」と言うやつだな。
知らない間にメールチェックとかされたりするんだろう。
ちなみに俺はしょっちゅう紫苑に携帯をいじられている。
……まぁ、紫苑と付き合うまでは遊んでいただけに女絡みの事は多いわけで。
その痕跡を見つけるたびに彼女は楽しそうに“全消去”と言う言葉を告げるのだった。
全消去はされて困るので自主的削除をしているのだ、女と付き合うのも結構大変。
と、俺の方は比較的オープンなのに紫苑は1度も俺に中身を見せたことがない。
俺もそこまで知りたいと思っていなかったのもあったんだが。
プライバシーに踏み込むのは俺の主義でもないし。
ただ、その時は本当に何気ない気持ちで彼女の携帯電話に触れてしまったんだ。
中身は可愛い猫の壁紙、紫苑らしいなと思った。
俺はさっきの電話の事も気になり、履歴だけを見ようとした。
内心軽い気持ちだったのだ。
その履歴に並ぶ電話番号を見るまでは……。
「……え?」
驚かされたのはその着信履歴に残るある番号。
ずらっと同じ電話番号が連なっている……それもひとつ、ふたつではない。
多い日には10件、少ない日でも3件、ほぼ毎日、その相手から電話がかかっていた。
電話番号から察するに携帯ではなく家庭用の電話からのようだ。
「この市外局番に見覚えあるな、これは……?」
それは俺の実家のある地域の市外局番だった。
ということは、普通に考えれば彼女の実家からの物であると分かる。
俺は履歴をさかのぼって見ていく中で、あるひとつの疑問に行き着く。
「……実家からかかってきた電話を無視している?」
つまり、そう言うことだろう。
考えてみるまでもない、彼女は元々一人暮らしをしているはずがないのだ。
実家は有数の名家、家族が心配になって電話をかけても何も問題はない。
「……この電話の多さが気にかかる、明らかにこれはおかしい」
紫苑は実家からの電話無視している、なぜだ?
その事実を知り、俺はこれまでの紫苑の態度を思いだす。
いきなり俺の前に現れた彼女、それまでどこにいたのか分からない。
もしかしたら……あの夜の出来事は彼女の実家が絡んでいるのか?
「あ、私の携帯電話。もしかして勝手に中身を見たの?ひどいっ」
だが、いろいろと考える前に紫苑が帰ってきて焦るように俺からそれを取り上げた。
しまったと思ったときには遅い、彼女はムッとした表情を見せている。
マズイ、ここはなんとしても乗り切らないと……。
「いや、中身じゃなくてその携帯ストラップを見てたんだ。お前がくれたのと同じ奴つけてるんだと思い出してさ……お揃いのだろ?」
バレた事を誤魔化すためにとっさに携帯電話のストラップに話をそらした。
俺の携帯電話にも同じように子猫のぬいぐるみがついている、紫苑がくれた奴だ。
「よかった、そっちか。……海斗、ちゃんとつけてくれたんだ」
彼女はホッと胸をなでおろすと、微笑を浮かべて言った。
「恋人がくれた誕生日プレゼントだし。飾っておくのも悪いだろ」
「ありがと。そうして実際につけてくれるとすっごく嬉しい」
何とか機嫌を損ねずにすんだ俺達は喫茶店を出て、夕食の買い物へと出かけた。
「実家からの電話を無視。家出をしてきたということか?でも、なぜ……?」
あの謎の電話番号はもしかしたら、紫苑の過去を知る手がかりになるかもしれない。
ただし、紫苑の反応を見る限り、うかつに触れない方がいいだろうけれど。
俺はあの夜の出来事を含めた真実を知りたいんだ。
例えそれが紫苑にとって辛い過去だとしても……俺はお前の過去が知りたい。