第7章:体温を感じて
【SIDE:木村海斗】
“私も愛してるわ。貴方だけが私の希望だから”。
俺は怖れていた。
自分の気持ちを偽り、本当の想いから逃げていた。
彼女の記憶を思い出したくはなかった。
紫苑が俺の前から姿を消した日の出来事。
紫苑を愛していなければ、俺は傷つかずにすんだ。
何も言わずにいなくなってしまった。
紫苑を選ぶというその選択に待つ未来を求めたかったのに。
壊れたモノ同士が惹かれあった1年間の日々。
……残された想いはどこへ向ければいい?
行き場を失い、俺はまた絶望の世界へと投げ出された。
そして、あれから数年後、俺達は再び出会う。
俺は自分の気持ちに向き合い、言葉で紫苑に伝えることにした。
大切な場面で逃げたくはない……。
それだけが俺のあの夜で得た教訓だから。
それに、俺は気づいてしまったんだよ。
白銀紫苑という女性を愛している事に。
だから、俺は選んだ。
紫苑という秘密の多い女を……愛する事に決めたんだ。
今日ほど、朝の目覚めが恐ろしいと感じた日はなかった。
数年前の悪夢、俺の前から姿を消した紫苑。
俺は早朝にもかかわらず、薄っすらと瞳を開ける。
窓の外はまだ暗い時間、久しぶりに自分の部屋のベッドで目が覚めた。
「紫苑?」
俺は小声で彼女の名前を呼んで、隣で寝ているはずの彼女の顔を見つめた。
「……すぅ」
瞳を瞑り、小さく寝息をたてる紫苑がそこにいた。
「よかった……」
ホッと安心する自分、悪夢の再来だけは避けられたようだ。
彼女が俺の傍にいることにこれほど安心感を抱けるなんて。
怖れていたのは紫苑が再び俺の前から姿を消す事。
“あの夜”を乗り越えた今の関係。
安心感は愛しさの証明でもあった。
どうも俺は本気でこの女が好きらしい。
「ん……?」
俺がしばらく眠り姫の寝顔を魅入っていると、彼女が目を覚ます。
不思議そうな顔をして俺と視線が合う紫苑。
「海斗?」
「……おはよう、紫苑」
「何で海斗がここにいるの?」
どうやら寝ぼけているようだ。
こんな無防備な紫苑を見るのも久しぶり。
「昨日の事を忘れたのか?」
「……昨日?……あっ」
ようやく思い出してくれたらしいが俺は拗ねるような口調で言う。
「あれだけしておいて忘れるとはひどい女だな」
「ち、違うわ。別に忘れたんじゃなくて……夢かもって思っていた。だって、海斗が素直に私の恋人になってくれるなんて思ってなかったし」
「……素直に、ねぇ」
俺の台詞だよ、それは。
恋人なのが信じられないのも俺の方だった。
紫苑という女は本性を絶対に見せたがらないから。
「照れるね、こうしてると……恋人みたいな事、今までしてこなかったし」
俺の腕に抱きついてくる紫苑に俺は言う。
その頬を赤くしながら彼女は甘えてくる素振りを見せる。
「恋人じゃなかったんだ。当たり前の事だろう」
「それもそうだけど……恋人になる前から私達は惹かれていたんだよ?少しくらい甘い雰囲気になってくれても良かったのに」
彼女の言ってるのは過去の俺達のことだろうか。
高校時代、恋人でもなく友達でもない他人だった俺達は互いの傷を癒すためだけに傍にいて、触れ合って、お互いを求め合っていた。
それに明確にどういう関係だと、望んでもなかったけれど。
ただの他人として割り切れるだけの距離感。
踏み入れなれずにいた、最後の一歩は常にお互いの間にあったから。
そう考えるとあれからの3年間で俺達は随分と変わったのだろう。
こうしてすぐに恋人という関係になれるとは思ってもいなかった。
紫苑との再会が何を意味しているのか、俺は分からずにいたから。
「……お前は俺と恋人になりたいと思っていたのか?」
「なりたかったよ、本音で言えば高校のときからずっと……」
「嘘だろ?」
つい即答してしまうと彼女は不満げに頬を膨らませながら、
「何でそこで即答するのよ。私だって、本当に好きでもない相手とセックスできるほど身体の安売りしてません。というか、海斗だけしか私はしてないもの」
「……いや、そういう意味で言ったんじゃない」
俺は意外な事を紫苑が言ったものだから驚いていたのだ。
こいつが昔から俺に対して好意を持っていた事。
薄々、気づいていたはずだった。
それでも、実際に相手から言葉にして聞かされるとびっくりしてしまう。
「海斗も私の事、昔から好きだったんでしょ。まだ半信半疑だったの?」
「……信じられない、仕方ないじゃないか」
「でも、しょうがないよね。……あの頃の私達はギリギリの精神状態だったはずだから。こうして過去を思い出して、そう思えるという事は私たちに心の余裕ができただけ。整理して、過去を受け入れる事ができたのよ」
「……過去を受け止めるだけ大人になった、か」
そこにたどり着くまでの3年間、俺は愛のない関係を求め続けていた。
もう会えないと思っていた紫苑が再び俺の前に現れるまで。
その出来事ひとつで俺は前に進めるようになった。
あの頃に言えずにいた好きという言葉を心の奥底で封じ込めていた。
それを彼女の存在に触れ合うことで解放できた。
今の俺は昔の俺とは違う。
あの頃の俺は弱く、痛みや現実から逃げるしか出来なかった。
それは紫苑も同じなんだろう。
俺達はよく似ているから。
互いに素直になれず、悩みがあれば心に抱え込んでばかりいた。
そういう生き方が似ているから、俺は紫苑に惹かれたんだと思う。
「私はまだ海斗に話してない事がたくさんあるの」
俺は紫苑のことをほとんど知らない。
かつて抱えていた悩みすら、俺は漠然としか把握していない。
「海斗は知りたい?私のことを知りたいと思う?」
「出来る事なら知っておきたい。お前の悩みも、辛さも全部知りたいと思う」
知っていることと言えば。紫苑の実家の白銀家はそれなりの地位を持つお金持ちの家柄。
経済界にだって影響力のある白銀グループの会長の孫娘、白銀紫苑というお嬢様。
それが彼女の過去と関係しているのは間違いない。
「……飛べない蝶々に生きてる意味はない。昔の紫苑はそう言っていた。それはお前の過去とどう結びつくのか、俺は今も知らない」
「そうね、海斗には教えてなかった。私の方は海斗の抱えた悩みを知っていたのに、私は貴方に教えずにいた。そんなずるいアンフェアな私でも海斗は傍にいてくれたわ」
「いつかお前の口から話してくれる日が来るんじゃないかって思っていた」
俺の言葉に彼女は囁くように言ったんだ。
「ごめんね、私はいつも海斗に甘えていたのに。……貴方がいてくれたから、私は飛べなくても幸せだったの。それなのに……」
薄っすらと紫苑の瞳に涙が見えた気がした。
俺がこれまで彼女に尋ねられなかったのには理由がある。
それは俺のように単純な理由ではなく、抱えた過去が大きいのだと気づいてたから。
どうしても自然に話してくれるまで待つしかなかった。
無理に聞けば何もかもが消えてしまう気がして。
そして、現実にあの夜も……俺はそれに触れてしまったから。
『紫苑、教えてくれ。お前の悩みって何なんだ?』
尋ねても言葉を濁すだけで、紫苑は何も言わなかった。
ある日、突然、彼女は俺の世界からいなくなってしまった。
その質問のせいで彼女が消えてしまったんじゃないかと思っていた時期もあった。
事実は違うのかもしれない、真実を知りたい気持ちはもちろんある。
だけど、俺は踏み込めない……もう2度と紫苑を失いたくはないから。
「まだ言えないの。ごめんなさい……海斗を信頼しているのに、私は貴方が好きなのに。だから言えない。逃げてばかりしかできなくて、私は……」
「もういいから、何も言わないでいい。紫苑、俺はお前を責めていない。言えない理由があるなら俺は聞かない。お前はお前自身でその問題を乗り越えるんだ。その後で話してくれ。それまで待っていてやるからさ」
俺も逃げ続けている過去があり、それを乗り越えてない。
焦らずにゆっくりと向き合う事の方が大切だ。
「……ありがとう、海斗。愛してるわ、貴方だけしか私は愛せないもの」
俺達はそのまま恋人同士のキスをする。
舌を絡ませあいながら、俺は彼女の白い肌に手を添えた。
今も昔も変わらないことがあるとすれば、彼女の体温を感じている瞬間だろうか。
心が温かくなるように、本当に安心できて心地よい気持ちになれる。
「んっ、あぁっ……」
ベッドに身体を沈ませる紫苑の瞳はいつにも増して優しさに満ちていた。
その瞳の奥には彼女が普段見せないでいる、もう一人の彼女がいる気がした。
だとしたら、俺はまだ“本当”の紫苑と触れ合っていないのかもしれない。