第5章:本当の気持ち
【SIDE:木村海斗】
“本気を出して生きてみたらどう?”。
これは誰に言われた言葉だったろうか。
そうだ、数ヶ月前に別れた年上の恋人だ。
別れ際に説教するように俺にそう告げた彼女。
あの人ならば本当に愛せるんじゃないかと思っていたが、やはりダメだった。
……いつからだったか、俺は本気になることをやめた。
何事にも関心が薄くて、本気で生きる事はなくなった。
きっかけは思い出しても面白くない。
高校生の頃だったか、あの事件が起きたのは……。
今でも俺の腕に残る傷跡。
あれが俺を世界の生き方を変えさせた。
何に対しても燃える事も、興味を強く抱くこともなくなった。
絶望する事さえもなく、ただ何の意味もなく生きていた。
紫苑と出会ったのはちょうどあの頃だった。
『私達、似ていると思わない?どちらもこの世界に対して不条理を感じてる人間同士。まるで羽をもがれた蝶々のようにジタバタもがいて苦しんでるの』
『似たもの同士……その表現は好きじゃない』
『そう?でも、同じようなものでしょ。空を飛べなくなった蝶々に生きる世界は残されてない、生きている意味なんてないもの。その意味でも私達は似てると思う』
少しだけ本気になって、他人に興味を持てるようになった唯一の女。
俺を変えようとして、でも、完全に変える前に姿を消してしまった。
……だから、今も俺は世界を冷めた目で見ながら生きている。
「……起きて~。ほら、起きなさい」
俺は普段、驚いたりすることは滅多にない。
そう、例えば俺の目の前にしゃべるクマのぬいぐるみいたとしても。
クマのぬいぐるみが元気よく言葉を放つ。
「海斗くん。おはよう、今日も元気にいってみよう!」
……もちろん、実際にそんな事はなく寝ぼけた俺の見間違いなのだが。
俺は薄っすらと開いた目をこすりながら、ぬいぐるみをどけようとする。
「……何をやってる、紫苑。微妙に毛が気持ち悪い」
「あ、起きた。おはよう、海斗」
クマのぬいぐるみを俺の顔にすりよせるように押し付ける紫苑がそこにいた。
朝っぱらから、人の顔に何をしてくるんだ。
「ん、たまには朝から気分を変えてみようかなって……」
「しなくていい。むしろ、何もするな」
「でも、それじゃ面白くないわ」
人の朝を何だと思ってる、この女。
朝の爽快な目覚めを邪魔された俺は不満げに起きた。
俺はまくら代わりのクッションをどけながら、
「で、何か用事でもあったのか?」
彼女が俺の家に泊まるようになってから3週間。
こんな風に彼女に起こされたのは初めてだったりする。
普段は俺も彼女が部屋から出てくる前に起きる。
しかし、今日は日曜日のため目覚ましもセットしてない。
ゆっくり寝てようと思っていた俺の計画をあっさりと邪魔された。
「ねぇ、海斗。今日は私とデートしない?」
「……は?」
「それじゃ、すぐに行くから服を着替えて準備して」
こちらの返事を待たずに強引に押し進めようとする。
俺の返事を聞く気もないのか。
「紫苑。誰がお前とデートなんかするか」
「……しないの?せっかくの日曜日なのに?」
さも当然という物言い、俺はどう対応すべきか迷う。
いきなり起こされて、デートしましょう?
ふざけてるのか、それとも本気なのか分からない。
紫苑はぬいぐるみに語りかけるように、
「私と一緒にデートもしてくれないなんてずいぶん冷たい」
……冷酷扱いされても紫苑とは行きたくない。
俺が拒む態度を見せても彼女は諦めようとしなかった。
「……あれよね、女の子の誘い断る男って人として存在しちゃいけないと思う」
「なぜ、デートひとつ断ったくらいで存在意義すら問われるんだ」
俺は愚痴られるのも嫌になり、結局、紫苑に流されるままにデートする事になった。
……はぁ、なぜだろう。
紫苑と会話しているといつも流される自分がいる。
そして、それを嫌と思っていない自分もいる。
どうしようもなく身体を揺さぶられる気持ちがそこにある。
紫苑に連れて来られてたのは繁華街。
彼女は女の子向けのファンシーショップで何かを選んでいる最中。
俺はといえば、どうしようもない違和感のある店内で浮いた存在として気まずい。
逆にこんなぬいぐるみに囲まれる店に溶け込んでいたらそれはそれで嫌だが。
「……海斗、見てみて。これすごく可愛くない?」
テンションの高い紫苑の手に握られているのは携帯ストラップ。
ただのストラップではない、小さな猫のぬいぐるみ付きだ。
「もうっ、ホントに可愛いわ」
紫苑は薄茶色と黒色、2色の猫のストラップを手に取りながら俺に詰め寄る。
俺は微妙な拒絶を示しながら溜息がちに答えた。
「別に俺は興味ない。俺にそんなモノを近づけるな」
「えぇっ、何で?こんなに可愛いし、“ふわもふ”なのに」
「……ふわもふ?」
「ふわふわ、もふもふの略。ほら、このサイズなのに肌触りも最高でしょ」
猫のぬいぐるみを見つめる紫苑の幸せそうな視線。
悪いが俺にはこれ以上付き合いきれない。
彼女は俺にどうして欲しいと思ってるのか?
他の客から微笑ましそうに見られる俺の気持ちを誰か理解してくれ。
結局、紫苑はいろいろと見て回りながら最初の猫のストラップを2つ購入していた。
俺達は店の外に出て繁華街を歩く事にした。
「お前ってホント、ファンシー系が好きなんだな」
「可愛いものは何でも大好き。特に猫は私のお気に入りでもあるから」
「……男には分からないな、そういうの」
「そう?最近は男の子でもこういうのを、つけてる人いるわよ。癒し系っていうのかな。というわけで、こっちの色違いの猫ちゃんは海斗にプレゼントしてあげる」
彼女はそう言いながら、先ほど購入した猫のストラップを俺に渡した。
“ふわもふ”な黒猫のぬいぐるみ付きストラップ……絶対にいらない。
「いや、激しく遠慮させ……あ、こら、勝手につけるな」
「誕生日プレゼント。私の記憶が確かだと今日は海斗の誕生日でしょ」
俺の言葉を途中で止めて、紫苑は俺にそう優しく囁く。
俺の21歳の誕生日、そう言えば忘れていたが今日だったのか。
自分の生まれた日なんて普段から意識してなければ忘れてしまう。
「だから、これは私からプレゼント。それとも、私からのプレゼントなんていらない?」
「……もらうだけもらっておくさ」
誕生日プレゼントと言われて渡されたモノを捨てるワケにいかない。
他人の好意をむげにするほど、そこまで俺も人間が腐っていない。
俺がストラップを受け取ると、楽しそうに彼女は笑う。
「嬉しい。これで海斗とお揃いのストラップだね」
携帯電話にくくりつけてある薄茶色の猫。
……いますぐ外してもいいですか?
だが、俺は微苦笑だが口元に笑みを浮かべた。
ホント、この女は面白い事ばかりしてくれる。
「あっ」
彼女が小さく声をあげるとこちらを見つめながら、
「海斗の笑った顔、久しぶりに見たかも」
「……そうか?」
「そうよ。いつもはムスッとした顔か、どうでもいいって風な表情しか見せてくれないもの。やっぱり、海斗は笑顔の方が似合うわよ」
俺だって人間だ、笑うくらいはする。
笑顔を浮かべた記憶は思い出ず必要がある時間くらいは経っているかもしれないが。
ただ、俺が紫苑の前で見せた笑顔は久しぶりだった。
「それはこちらの台詞だ、紫苑。“自然”な笑顔を見せられるようになったんだな」
昔の紫苑は人前で作り物の笑顔を浮かべることは多々あったが、今ほど自然に誰かに笑顔を見せたりしなかったはずだ。
彼女が俺に笑顔を見せる事の珍しさ。
再会してから俺は当たり前のように感じていたせいか忘れてしまっていた。
「私も貴方も変わってるのよ。いい意味か、それとも悪い意味かは別としてもね。3年前とは状況も違えば、生きている“世界”も変わってきているのだから……」
変わっていく世界、そうなのかもしれない。
俺たちが生きている世界は、あの頃のものとは違う気がする。
それならば、俺のこの世界は……希望を見出してくれるのだろうか。
「もっとも、私の場合は海斗がいてくれるということが1番影響を与えてくれているんだけど。海斗は?……誰が貴方の世界を変えたの?」
「さぁな。俺には分からない。ただひとつだけ分かってるのは……」
「分かってるのは?」
「……誰かさんが押しかけてきてから、俺は変われたのかもしれない」
俺の言葉にふたりしてクスクスと笑う。
それは誰かに強制されるのでもなく、自然に笑いあえた。
「そっか。うん、すごく嬉しい。私が貴方に何かを与えられてるなんて」
紫苑の微笑みに俺は素直に見惚れていた。
人は変われるのだろう。
“幸せ”という感情を実感している間だけは――。