第4章:揺れ動かされる心
【SIDE:木村海斗】
“好きだと言ってくれないね”。
俺は今まで付き合ってきた、どの女にも好きだと伝えた事はない。
女を愛したのはひとりだけ、その相手が紫苑だった。
彼女にも俺は好きだと伝えられなかった。
伝えようとしていたが、突如、紫苑は俺の前から姿を消してしまった。
だから、あれ以来、俺は誰も愛していない。
正確に言えば、誰も愛せなかった。
愛そうとしても、紫苑に恋したあの気持ちに勝る気持ちは誰にも抱けなかったから。
恋に似た気持ちをいくら恋人に抱いても、それは偽り、いずれ崩壊する。
長続きしない関係に嫌気が差しながらも、俺が女を求める事はやめなかった。
例え、刹那的にでも俺は他人を傍に置いておかないとダメな人間らしい。
……そんな俺に今は紫苑に対して恋心はない。
この3年の月日は俺から彼女への愛を完全に失わせていた。
いつまでも、心に残る想いなんてないと思っていた。
もう一度、彼女に出会うまでは……。
『……海斗って私のこと、怖い?』
あの紫苑の言葉が耳から離れずにいる。
俺は彼女の存在を怖れているのか?
違う、怖れているんじゃない。
俺は紫苑の傍にいたくない。
終わっていてくれればよかったんだ、全てあの夜に……。
「……ん?」
深夜、俺は雨の音で目が覚めてしまった。
時計を見てみるとまだ1時を過ぎた頃。
また雨が降りだしてきたらしい。
下手にその雨音が気になりだして眠れない俺は起き上がる。
ソファーに寝転がっていた身体を起こすと、かけられていたタオルケットが落ちる。
もしかして、紫苑がかけてくれたのだろうか?
俺はそれを拾い上げてテーブルの上に置くと、水が飲みたくなってキッチンに入る。
水道の蛇口をひねりコップに水を注ぎ込むとそれを一気に飲み干す。
「……何だ?」
のどの渇きを潤しているとふと何かの声が聞こえてくる。
元俺の部屋、今は紫苑が占拠している部屋からだ。
「紫苑か……?」
俺は少し気になり、軽く部屋の扉のドアを開ける。
覗き込んでみると澄んだ歌声が聞こえてきた。
「……きっと私の気持ちは彼に届かない」
電器もつけず、紫苑が窓を開けて小声で歌を歌っていた。
雨にかき消される声が何とも物寂しい。
「それでも良いって思える私はバカかもしれない」
その歌には聞き覚えがある、数年前に流行った歌だ。
初恋をした少女が結局相手に気持ちを伝えられないという歌詞だった。
「だけど……私は……」
そこで歌を歌うのを紫苑はやめてしまう。
途切れた歌声、そのあとの歌詞は確か……。
「私は今でも、貴方が好きなの……。今でも忘れられないから」
歌うのではなく、淡々とした言葉として紫苑は囁いた。
その表情はなぜか寂しそうに見える。
俺に会いに来てから1度も見せた事のない表情だ。
「……ホント、今さらよね。私、何をしているんだろ」
静かにそう呟いた言葉。
紫苑のその顔を俺は前にも見たことがある。
『この世界は私に優しくない。私は世界に嫌われてるのよ』
自嘲めいた言葉と共に、かつて彼女は俺にそう言った。
『私はここにいる事に何の意味もない』
あの時と同じ瞳をしているから、俺は何にも言わずに去ろうとする。
「……海斗?そこにいるの?」
しかし、紫苑には気づかれてしまった。
別に隠れてこそこそする事もないので俺は部屋に入る事にした。
すっかりとファンシーなグッズに囲まれ、女の子の部屋らしくなってしまった。
「こんな時間まで起きて何をしている」
「ごめん、起こしちゃった?」
「別に。雨の音で起きただけだ」
「そう。今日は何だか眠れなくて」
こうして近づいてみて気づいたことがある。
それは紫苑の瞳が赤くなっていた事だ。
もしかして、泣いていた……のか?
「紫苑……?」
俺が赤い目をしているのに気づいたら、彼女はそっと手で隠す。
「あっ。こ、これは……」
紫苑でもさすがに涙のあとは見られたくないらしい。
ベッドに座っていた彼女の横に俺も同じように座る。
「うぅ……恥ずかしいなぁ」
小さく唸りながら、枕元においてあるタオルで瞳をぬぐう。
俺はその光景を見てみぬふりするように話題を変える。
「……雨、好きなのか?」
先ほど雨を見ていた紫苑の顔を思い出して俺は言う。
「え?あ、うん。どしゃぶりじゃない静かに降る雨って見てると心が和むっていうか……安心できる気持ちになるの。海斗、雨は好き?」
少し肌寒いからと彼女は窓を閉めた。
窓の外では冷たい雨の雫が降り続いている。
「雨は嫌いじゃない」
「……嫌いじゃない、か。海斗にとって好きってはっきり言う事、少ないよね」
そうかもしれない。
俺はこの世界に好きなものはほとんどないから。
自分自身すら俺は好きではない。
「どうでもいいだろ、そんな事は……」
「あはは、別にそれが悪いわけじゃないけど。でも、自分が何を好きなのか、嫌いなのかくらいはっきりして欲しいな。私、海斗の好み全然知らないから」
「……考えておく」
俺がそう答えると彼女はくすっと微笑している。
いつもながら何がおかしいのか分からない。
「海斗ってホント素直じゃないって言うか……可愛いよね」
「男に可愛いは褒め言葉じゃないだろ」
「褒め言葉だよ。女の子からしてみれば男の子を可愛いって思える瞬間は褒めてる時だから……覚えておいて損はしないよ」
紫苑はいきなり俺に寄り添うように肩をあずけてくる。
「おい、何をするんだ」
「……人肌恋しい時って誰にでもあるでしょ。こうして海斗にくっついていたいの」
「そうかよ」
「あれ?今日は拒まないんだ?」
毎回、反応していた俺を不思議そうに見つめてくる。
俺としてはさすがに紫苑の行動に慣れてきた。
「もう下手に反論するのも疲れただけさ」
紫苑が次に何をするのかなんて予測不可能。
それに対して、俺も過敏に反応することはやめにした。
俺達は子供じゃない、大人として付き合う以上は自然なことでもあるだろう。
「くすっ、海斗らしい言い方。拒まないという事はこれからすることも肯定してくれるかな。ねぇ、今日は久しぶりに一緒に寝ましょう?抱いてくれてもいいわよ?」
すぐに前言撤回したくなる行動をしでかす紫苑。
こいつのこういう所が嫌だと感じている。
俺のジッとにらみつける視線に紫苑は苦笑いを浮かべていた。
「……って、普通に寝るだけ、寝るだけ」
そのまま横になってしまう紫苑。
俺はといえば流されずにベッドに座ったまま彼女を眺め続けた。
「さすがにここまでは許してくれないの」
「お前は気軽にそう言うことを言いすぎなんだよ」
「まぁ、半分は冗談だけど。今日はこれで我慢してあげるわ」
俺の手を握り締めて彼女はゆっくり目を瞑った。
これはこれで俺が動けないという意味では問題があるんだが。
「私が眠るまでこうしてくれない?それくらいの我が侭は聞いてくれてもいいでしょ」
「嫌だといっても離すつもりはないだろう」
俺は仕方なくそのまま彼女の眠りを待つことにした。
白銀紫苑は綺麗な女だとは思う。
整った顔だけではなく、女性としても改めて成長している事を感じていた。
当たり前だがあの頃とは違う。
それは俺にとって事実として受け止めなければならない。
俺達は変わったのだ、3年前とは違うという事を理解しなければならない。
それなのに、こうして触れ合う事で俺は過去ばかりを思い出してしまう。
「……紫苑、ひとつだけ答えてくれ」
「ひとつだけなら」
「お前は……あれからの3年間を幸せに暮らしていたか?」
それだけが聞きたかった。
何をしていたのか、どこにいたのか、答えてくれなくてもいい。
その一言だけで俺は過去を過去として整理できる気がしたから。
いつまでも過去にとらわれ続けても意味がないと知っている。
俺も変わったのだということを証明するために。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「直接的な質問をしてもはぐらかすと思ったからだ」
「聞いても面白くもないと思うけど……前にも言ったけど理由は話すつもりはない。だけど、そういう質問の仕方はずるいわ。答えなきゃいけないじゃない」
俺の問いに彼女は繋いでいた手をぎゅっと力強く握り返してくる。
表情は目を瞑ったままのせいで分からない。
「この3年間……幸せなんて感じたことなかったわ。ひとつも楽しくもなかった」
それが彼女の答えだった。
「だって、私の傍に海斗がいないんだもの。幸せになれるはずがないじゃない」
どうして俺の前から姿を消したのかは分からない。
それでも、その3年間、彼女は満足していなかった。
その事実を知れただけでもよしとする。
「……そうか」
「うん。でも、今はすごく幸せよ。海斗がいるから……幸せなの」
含みを持たせた言い方、そっちの方がずるいだろ。
彼女が再び俺に会いに来たのはなぜだ?
俺の傍にいて幸せなのか?
彼女の言葉にはいつも“期待”を持たせたワードが入ってる。
紫苑は俺に対してどういう気持ちを抱いてるのか。
今も昔もそれが分からない。
「……すぅ」
しばらくすると聞こえてくる寝息。
どうやら寝てしまったらしい。
俺は手を離すと彼女の頬を軽く撫でた。
手のひら越しに伝わる紫苑の温もり。
彼女の存在の全てが……俺を狂わせていく。
「答えてくれ、紫苑」
俺は願いにも似た想いを込めて眠り姫に囁きかけた。
「……お前は何を望んでいる?俺をどうしたい?俺にどうしてほしいんだ」
初めて出会った時から何も変わっていない事がある。
それは紫苑の本心、俺はいまだに彼女の本当の気持ちを知らない。
「俺はお前のためにどうすればいいんだ?」
気づいてしまった。
やはり、俺は彼女と接するのが怖かったらしい。
紫苑という存在がまた俺の前から消えてしまうのではないか。
それがとても怖くて……失うくらいなら触れたくないと思っていた。
いつしか外を降りしきる夜の雨はその強さを増していた。
「……嫌な雨だ」
こういう雨は嫌いだと、はっきりと言えるのに。