第3章:冷たい瞳
【SIDE:木村海斗】
“すごく冷たい瞳をしてる”。
俺が女を抱くと必ず相手に言われる言葉。
そんなに俺は冷たく接しているつもりはない。
ただ、普段から感情を表に出さないようにしているからそう言われるのだろう。
紫苑と出会う前から俺という人間は世の中に対して冷めていたんだと思う。
彼女との“出会い”と“別れ”はそれを表面化させたきっかけでしかない。
俺は自分の瞳を鏡でしか見たことがないために、どんなに冷めているのか知らない。
別にそんなものに興味はないし、どうでもいい。
だが、紫苑の前でも俺は冷たい瞳をしていたのだろうか?
それだけは違うと否定したい。
あの頃の俺は……いや、何でもない。
人がどんなにあがこうとも、誰も過去を変えることができない。
それが現実だと俺は十分思い知らされた。
……今の俺は冷めている瞳をしている、それだけが事実だ。
紫苑が俺の家に滞在するようになった数日後。
俺は大学の図書室でレポート作業に追われていた。
課題を提出しないと単位に響く、嫌々ながらも面倒だと放り出せず作業を続ける。
「よう、海斗。お前、こんな時間からレポート作ってるのか?」
「白井か。お前こそ、早めにしておかなくていいのか?今回のレポート、かなりの範囲があるから大変だぞ」
白井と他の友人たちもいるところを見ると、彼らは別の目的があるらしい。
「ま、そんなもんは後でいいんだよ。それよりも、今夜は暇か?」
「合コンならパスだ。俺は今、そんな状況じゃない」
「……なんだ、新しい恋人でもできたのか?」
恋人と言われて紫苑の顔が思い浮かぶが、彼女が俺の恋人なんて想像もしたくない。
俺は失笑を混ぜながら彼に答える。
「恋人じゃない。前の女のことで揉めてる最中だ。合コンなんて余裕はない」
「元カノって……もしかして、修羅場か?」
「似たようなものかもな。数日前から家に押しかけてきて困ってるところだ。今の俺には遊んでる暇がない。というわけで、しばらくそっちの方はパスだ」
肩をすくめて答えた俺に彼は笑いながら、
「そいつは残念だが、お前が女で揉めるなんて珍しいな。普段なら後腐れも、揉め事もなくすっぱり終わらせてきたはずだろう?」
「……俺にだって分かるわけない。アイツのことだけは分からない」
「ほう、海斗にそこまで言わせる女の子もいるんだな」
そうだ、いつもの俺は女と関係を割り切って付き合ってきた。
恋人として付き合っても前回のように強引に別れるのは少ない。
だから、後々に引きずるものなんてひとつもなかった。
紫苑との関係は俺にとって唯一の例外だった、それだけだ。
何もかもが違う、関係も、出会い方すらも。
「それでも、お前は何だか楽しそうに見えるぞ」
「は?俺が楽しい?そんなわけないだろ」
白井の指摘を俺は否定する。
紫苑と一緒にいて楽しいワケがない。
それを彼は何を思ったのかそういいやがった。
「いつも“どうでもいい”が口癖だったお前がそうやって女のことで悩んでる時点でいつもと違う。それに何だか、揉めてるというわりには表情が暗くない。むしろ、楽しんでいるように見えるのは俺だけじゃないはずだぜ」
周囲の友人たちにも同様の意見を言われてしまう。
俺はそこまで分かりやすい対応をしていただろうか。
「……そんな事はどうでもいい」
「ふっ、お前って都合の悪い事になるとすぐにそう言うよな」
「どうでもいいんだよ、ホントに」
全く持って調子が狂う、これも全部紫苑のせいだ。
俺はレポート用紙に目を向けて、再び書き始めることにする。
「……俺は楽しいのだろうか?」
紫苑と普通に話せるように関係が戻ったことが……。
無意識にアイツの存在を未だに求めている、そんな想像をするだけで俺は嫌になる。
俺は自分の過去に区切りをつけられない人間ではないはず。
俺たちの関係はあの夜に終わった、それでいいのに。
『海斗に会いたかったから来たの』
なぜか笑った紫苑の顔を思い出して、俺はぐしゃっと用紙を握りしめてしまい、書いたレポートを一枚無駄にするはめになった。
その日、俺が家に帰ると俺の部屋が俺の部屋ではなくなっていた。
リビングは普通だが、俺の部屋はなぜかベッドに大きめのぬいぐるみが置かれている。
……ちなみに言わなくてもいいと思うが、俺にそれを抱いて眠る趣味などありはしない。
他にも飾られているのは俺の部屋に似つかないファンシー系のグッズばかり。
「これが普通の男の部屋だと言われたら引くぞ」
少女趣味……もちろん、犯人は一人しかいないのだけど。
「紫苑、これはどういう事だ」
「あら、おかえりなさい。帰ってたなら挨拶くらいしてよね?」
キッチンで夕食の準備をしているらしい彼女に問う。
「……それより、この部屋はどういうつもりだ?」
俺が彼女に部屋のことを訪ねるとなんでもないとばかりに、
「あ、それ?今日買ってきたんだ。可愛いでしょ?」
「ふざけんな……俺の部屋を勝手に何をしてやがる」
「別にいいじゃない、私がここに住む以上、多少のアレンジは必要だし」
そう言ってこちらに振り向くとエプロンまでフリル付のやつだった。
紫苑は綺麗な顔立ちに美人という言葉が似合う女だ。
だが、趣味は大の可愛いモノ好きという一面もあったのを思い出した。
「まだその年でぬいぐるみが好きだったとは……」
「そう?あ、もしかして私のことが可愛いと思っちゃった?」
「……それはない」
似合わないものだろうと他人の好きなものに文句はつける気はない。
ただし、それに俺を巻き込まない限りだが。
俺が否定の言葉を呟くと、彼女はくすっと微笑している。
「何だよ、その笑いは……」
「ううん、昔と変わらないなって思っただけ」
その言葉で俺も思いだしてしまった。
それは俺たちが出会って間もない頃に遊びに出かけた時の事。
そういえばあの時もこういうファンシー系グッズを眺めていた紫苑に俺が告げた言葉と同じだった。
「覚えてる?あの時も海斗って私に対して、それはお前に似合わないって言ったんだ。私はそれにムキになって反論したりして……懐かしいなぁ」
「それ以上は言うな、昔のことだ」
「あはは、海斗。もしかして、恥ずかしい?」
彼女の口をふさいでしまいたい衝動に駆られる。
そう、あの出来事は思いだしたくない。
なぜなら、あの後に俺達は……初めてのキスをした。
恋人でもないのにしたあのキスが、俺にとっての悪夢の始まり。
思い出したくないのに決まっている。
「私はいい思い出になったと思うけどな」
「俺と紫苑は思い出になんてならない」
「また、それ?さっきから海斗は私のことを否定ばかりしてつまらない」
紫苑の唇を尖らせる仕草に俺は呆れている表情を変えはしない。
俺はまだ聞けずにいる質問がある。
“お前が姿を消した3年間、どこにいて何をしていたのか”。
それはどうしても聞けないからこそ、俺は彼女と自然に接する事もできないのだろう。
「……海斗って私のこと、怖い?」
そう言うやいなや、俺に近づいて彼女は俺の身体に触れた。
冷たい手で撫でるように彼女は俺をそのまま抱きしめてきたのだ。
俺はそれを拒む寸前、真っ直ぐな視線に何も言えなかった。
紫苑に対して怖がっている?
「ふふっ、やっぱり怖いんだ。可愛いね、海斗」
「何を言ってる。ワケわかんねぇ」
「海斗ってクールに見えて、カッコいいからモテる。でも、それは全部違うの。貴方はいつもこの世界の全てを怖がってる。海斗は世界に触れることを怖れてる……だから、貴方の瞳はいつも冷たく見えるんだ」
抱きしめられたその温もりはどこか寂しくもあり、懐かしくもある。
「でも、私はその冷たい瞳は好きよ。寂しそうなのに強がってる可愛いところも……。だから、私だけは怖がらないで……海斗」
まるで姉のように優しく俺の頭を撫でる。
紫苑の指が俺の髪を触る。
それに安心していく気持ちに心が揺れる。
俺が紫苑だけを信用した過去。
それは同じ境遇ゆえに理解者であることだ。
彼女は俺を理解してくれている。
孤独であることも、寂しがり屋であることも。
「貴方の傍に私はいるよ。今、ここにいるのよ」
抱きしめた温もりが俺の心に温かさを与えていく。
ダメだ、こいつに心を許すな……。
その果てに何が待っていたのかを思い出せ。
「やめろ……!!」
俺は必死に彼女を身体から引き離した。
実際は弱々しく彼女の腕を振り払っただけだが。
「……あ」
彼女は俺の右腕にまったく力が入っていないのに気付いた。
「くっ――」
俺もすぐに何でもないという表情をする。
「海斗……まだその腕は治ってないんだね」
「うるさい」
右腕を隠すように背中に回した。
俺の現在の利き腕は“左腕”だ。
……右腕はずっと昔に壊れて、今もろくな働きをしてくれない。
何ともいえない雰囲気が漂う。
「冷たい瞳をしているのは、もうひとつ理由があったね」
「……やめろ」
「貴方は世界に不満ばかり抱いている。この世界は自分に優しくないって」
そうだ、俺は世界に裏切り続けられている。
自分が世界で一番可哀想なんて思ってるワケじゃない。
ただ、俺の人生は俺が思い描くようには全く進んでくれない。
「分かるよ。私も同じだったもの。私の人生は私の願いを無視してばかりいる」
「……紫苑」
「私だけは貴方の痛みも苦しみも理解しているわ。貴方と同じ。だから、私を拒まないで。私の存在を嫌わないで。私は他の人と違う。貴方のすべてを受け入れられる」
そうだ、俺が紫苑の存在をここまで苦手にしているのはこれだ。
“理解者”であるということ。
こいつの傍にいると、理解されている事に“甘えてしまう”のだ。
俺はひとりではないと思わされる。
だから、拒んで避けて、逃げようとするのだ。
お前と言う存在を受け入れて、また失うのが怖いから。
「何度も言わせるな。俺に近づくんじゃない」
「もうっ、残念。もう少し抱きしめておきたかったのに」
彼女は残念そうに呟いてから雰囲気を変えた。
「はいはい。素直じゃないんだから、海斗の意地っ張りやさん」
それ以上、追及する事もなく。
「……夕食、もうすぐ出来るから待っていて」
紫苑はそのままキッチンに戻ってしまった。
俺はといえば呆然と立ち尽くしながら、抱きしめられた温もりを思い出していた。
彼女の香水の匂い。
その冷たくも触れていたいという誘惑に駆られた。
「アイツの温もりが何だって言うんだよ……ちくしょう」
俺の口から自然に漏れたその言葉。
それは少しでも紫苑に心を許しそうになった俺自身に向けた言葉だった。