第2章:誘惑……?
【SIDE:木村海斗】
“もっと他人に興味持てないの?”。
よく言われるが、他人にそう言われるのにも慣れた。
いつもそうだ、俺は他人と近づき過ぎない距離を置く。
心に入り込む隙は与えたくない。
誰にも、もう踏み込んで欲しくなんてない。
俺は人を愛さない、愛する気すらない。
あんな痛みを伴うものなら、恋なんてする必要はどこにもない。
身体を重ねるだけの関係。
互いに快楽を得るだけならそれでいいだろ、別に。
……例外だった人間はひとりだけ、アイツだけは俺にとっても特別な存在だった。
忘れたくても忘れられない事ってあるんだな。
今もそうかもしれない。
会いたくもない人間が俺に会いにきているのだから。
紫苑が俺の家に来た翌日の朝。
俺は目覚ましも鳴らない時間に目が覚めた。
訂正、俺の傍に目覚ましはなかった。
自分がソファーで寝ている事に気がついたのは既にソファーから落ちた後だったが。
「痛てぇ……ちっ、何だよ?」
俺がなぜソファーに寝るようになったのか。
思い出して朝から憂鬱な気分になり、俺は小さく嘆息する。
「……携帯、どこだっけ?」
俺はテーブルの片隅にある携帯電話で時間を確認する。
朝の6時前、いつもより早い時間には違いない。
俺は着替えを取りに自室に入る。
中にいるであろう、紫苑を気にしながら扉を開ける。
だが、そこには布団が片付けられているだけで誰もいなかった。
ベッドのシーツすら丁寧に整えられていた。
誰もいない、初めからそこには誰もいなかったように。
「紫苑……帰ったのか?」
俺は安心した気持ちながらも、どこか心に突き刺さるものを感じた。
「お前はそういう奴だ」
俺達は同じ朝は迎えられない、分かりきっていた事だ。
口うるさい紫苑はまた俺の前から消えてしまった。
それでいい、何も困る事なんてない。
「……変な夢でも見てたんだろ」
嫌な悪夢だったと頭を切り替える。
そのまま俺はタンスから着替えを取り出して、シャワーを浴びようとした。
シャワールームの扉を開けてしまった俺に待っていたのは……。
「あ、海斗。ごめん、先に使わせてもらってるよ」
シャワーを浴びる全裸姿の紫苑がそこに立っていた。
白い肌、胸元から水滴がしたり落ちる。
どうやら昨夜の出来事は夢ではなかったらしい。
「どうしたの?あっ、少しは成長した姿に見惚れてる?えっちぃなぁ」
濡れた肌を露出させ、平然とシャワーを浴び続ける。
俺の記憶よりも胸は膨らみ女性的なものに成長していた。
俺達の関係に羞恥心もないのか、それともコイツに恥じらいがないだけだろうか。
俺も今さら、女の裸を見ただけで照れるほどの事はない。
紫苑はシャワーを浴びる手を止めようともしない。
ただ、少しは反応ぐらいしめしたらどうなんだ、この女。
「……海斗?あんまり凝視されると照れちゃうわ」
俺は嫌気がして「煙草を買ってくる」と扉を閉める。
「あ、ついでにお醤油も買ってきて。コンビニで売ってるでしょ」
扉越しに聞こえた声を俺は返事をせずに部屋を出て行った。
胸がざわつくようで気持ち悪い。
紫苑の傍にいるとどうしてだろうか、自分が自分でなくなるようだ。
「意識しすぎてるのは俺の方かよ」
朝陽を浴びながら俺は廊下を歩き、エレベーターに乗る。
降りた先で掃除をしているひとりの青年、このアパートの管理人だ。
「おう、木村か。どうした、こんな朝早くから」
管理人の吉原は俺と年はさほど違わない。
このマンションのオーナーの息子らしく、この若さでマンションの管理人をしている。
ほうき掃除を止めると彼はにやけた顔で、
「そういや、昨日の夜、女が尋ねてきてたろ。鍵くらい開けといてやれよ」
「……よけいなお世話してくれるな」
「何だ?関係ない人間だったのか?お前を待ってると言ってたんだが」
「関係なくはないが、会いたくはなかった」
そうだ、会いたくなんてなかったんだよ。
「お前の口からそんな言葉が出るとは珍しい。何だよ、前の女だったのか?そんでもって修羅場か?そいつは悪い事をしたね。ははっ」
「アンタ、全然、反省する気がないだろ?」
むしろ、いつもの事ながら俺の状況を楽しんでいるようにも思える。
「あはは、そうでもないさ。俺の役目は不審者からこのアパートを守るためでもあるんでな。声をかけるのは必要な事、そして、女の子に優しくするのも当然だ」
「……あっそ。どうでもいいけど。俺、もう行くから」
「あいよ。今度からは気をつけてやるから心配するな」
俺は適当に手をあげて答えておく。
そう言って、吉原がまともな対応をしてくれたのは一度もないけどさ。
コンビニで煙草と醤油を買ってくる。
家に帰れば紫苑がいる、それが俺の悩みの種ではある。
今日こそはどうして俺の前に現れたのか聞き出してやる。
……そう意気込んでいたのだが、気がつけば大学に行く時間だったために話は夜へと持ち越されるはめに。
「いってらっしゃい」
「くっ……勝手に部屋のものをいじるなよ」
どうも俺は紫苑相手ではまともに接する事ができない。
俺、確実に紫苑のペースに流されてるな。
その日の夕方、俺は大学から帰るとすぐに自宅に帰る。
「……紫苑」
「おかえりなさい、海斗」
リビングでのんびりとテレビを見ている紫苑。
すっかりとこの部屋に馴染んでる感を払拭するために、俺は最初から本題を切り出した。
「何で俺のところに来た。その理由を聞かせてもらおうか?」
俺の問いかけに紫苑は露骨に嫌そうな顔をする。
「またその質問?何度も飽きないね」
「はぐらかすな。お前と俺は別に関係と言う関係でもない」
「……そんなに知りたいの?貴方って理由がなければ人を傍に置いておかないタイプだったかしら?」
「普通は状況によるだろう。紫苑がここに来たこと自体がイレギュラーなんだ。それくらいの質問は当たり前だと思う」
「そう。……私がここにきたのは何度も言うけど、海斗に会いたかったから。場所は地元の友達に聞いてきたの。これでいい?」
面倒くさそうにそう告げる彼女。
俺は態度を緩めずに強気に言葉を続ける。
「……何で俺に会いたかったんだ。今さらだろう。3年前、お前は俺の前から姿を消した。いなくなったんだ、お前から。それを今になって会いたくなった?信じられるわけがあるか……答えろよ、紫苑」
俺は彼女にあえてキツイ言葉を使う。
恋愛って2文字を本気で信じていた頃も俺にだってある。
それを裏切ったのは彼女の方だ。
本当に何がしたいのか俺には分からない。
今さら過去を責めるつもりはない。
俺だってもうそれなりの大人だ、割り切る事も我慢する事もできる。
ただし、真実を知りたい気持ちに偽りはなかった。
「……ごめんなさい」
紫苑は素直に頭を下げてそう囁いた。
人に謝る姿なんて1度も見たことなかった彼女が俺に謝罪する。
「あの時はごめん。私が悪かった、理由は……言えないけれど」
「言えないのに来たのか?都合よく俺が受け入れてくれるとでも?」
「……でも、海斗なら分かってくれると思ったから」
一方的な信頼関係、彼女は俺を信頼しているらしい。
俺の方には紫苑を信じる気持ちなど持ち合わせていない。
「今、貴方に会いたくなってここに来た。それは本当の事よ。これまでだって、ずっと海斗に会いたかったんだから……」
「だから、信じてここにおけってか?ふざけるな、紫苑」
「ふざけてなんかない。私は素直な気持ちしか言葉にしてないもの」
本当にもういい加減にして欲しい気持ちだった。
俺の心をかき回すような発言、その態度。
紫苑はあの頃と何も変わってない。
けれど、俺は変わったんだ。
昔とは違う、現実を理解している。
どんなに期待しても、そこに希望はない事も知っていた。
「別に俺達は付き合ってたわけじゃない。忘れたのか、紫苑。これはお前が言った台詞なんだ。そして、紫苑は俺の前から消えた。それでよかったんだ。再び会う必要なんてどこにもない、忘れられていく存在でいいだろう」
昔の気持ちなんてどうでもいい。
俺は面倒ごとに巻き込まれたくないだけだ。
紫苑が傍にいようといまいと……今の俺には関係ない。
俺達は他人同士、距離は永遠に縮まらない。
うつむき加減だった表情の彼女は真面目な顔をしながら、
「……やっぱり、傷ついてたよね?ごめんなさい」
「勘違いするなよ。誰が傷つくんだ?あの頃、俺もお前も壊れていた。互いに必要だったのは“痛み”を共感できる相手で、“愛情”とは違う。分かっていた事だ」
だったら、俺はどうして今も思い出すだけで苦しいのだろう。
その矛盾、追及される前に俺は話を畳み掛ける。
「もういいだろう。出て行け、それで全てが終わる」
「それだけは嫌。お願い、海斗、私をしばらくここに置いて欲しい」
「しつこいんだよ」
「貴方こそ、過去にこだわらないなら、昔の女のひとりくらい置いてくれてもいいじゃない。そんなに迷惑?別の相手でもいる。それとも私が本当に嫌いなの?」
俺に会いに来てくれた、そんなのは嘘だ。
嘘つくのが得意だからな、お前って。
どうせ別に理由があるのに違いない。
その嘘に“2度”も騙されてやる事はしない。
『……別にいいよ。私から誘惑した事だから。責任とか関係ないでしょ』
頭によぎるのは……消せない俺たちの過去の断片。
お互いを必要としていた、恋人でもなく友達でもなく、他人として。
だけど……だからこそ、俺は彼女に……。
「ちっ……もういい。勝手にしろよ」
言い合うだけの時間は無駄だ、俺は折れる事にした。
なぜ、俺は断らなかったのだろう。
ここで終わればもう本当に紫苑とは別れられるはずなのに。
それを躊躇させたのは過去の想いか、同情めいた感情か。
「ありがとう。海斗ならそう言ってくれると思ってた」
笑顔に変わる表情、お前でも不安になることもあるのかよ。
俺はコイツの気持ちが分からない、紫苑のことを理解する事は不可能だと思う。
「海斗は優しいね。あの頃と変わってなくてよかった」
「優しさなんてない。ただ、俺は――」
お前の口からあの日の真実を聞きたいだけ。
心の中によぎった思わぬ本音に自分で驚いた。
「あの頃と同じだよ。優しい人。私の大好きなままだもの」
平凡だった時間は終わり、再びあの日々が俺に戻ってきた。
どうでもいい、いつからか口癖になっていたその言葉。
どうでもよくない事態が起きた時には使えない、都合の悪すぎる言葉でもある。
どちらにしろ、俺はこの日の選択を後悔する事になるに違いない。
紫苑との再会が俺に何をもたらすのか、俺はまだ知らない。