第21章:本気で生きる意味
【SIDE:木村海斗】
“好きになりそうだった、でも、なれなかった”。
紫苑との別れから俺はひとりだけ、好きになりそうだった女の人がいる。
彼女の名前は理香子、大学の先輩だった。
初めは何となくで付き合い始めたけれど、一緒にいることが俺にある変化を与えていた。
理香子に少しずつ惹かれていく自分。
でも、結果的には彼女を愛することはできなくて。
そんな弱い俺にでも彼女は優しくて。
彼女との別れ際に言われた言葉を覚えている。
『本気で生きてみたらどう?世界が変わるかもしれないよ』
それは胸に刺さり続ける言葉だった。
ずっと前に本気になる事を捨ててしまった。
絶望しか与えてくれない世界を恨んで、憎んで……。
俺は前に進めていないのに、置いていかれている事に気づかされる。
本気で生きる意味。
理香子と別れてからも、俺はまだそれを見つけられていなかった――。
それは失われた時間を取り戻す行為。
「……服が乾くまでこれを着ておいて。少し、大きいかもしれないけれど」
「いいのか?これ、彼氏のじゃないのか?」
理香子の部屋に招かれた俺はシャワーを浴びた後に服を渡された。
知り合いから新しい恋人と付き合い始めているのは聞いている。
「細かい事は気にしないでいいわよ」
部屋には以前に何度か来たことはあるが雰囲気が違う。
理香子は社会人になっていて、俺とは違う道を歩み始めているのだから。
「はい、コーヒー。海斗君は無糖でよかったよね」
「ありがとう」
ふたりでテーブルを前に向かい合って座る。
久しぶりに顔を合わすとはいえ、相変わらず彼女は綺麗な人だ。
ウエーブのかかった茶色の髪の毛、落ち着いた雰囲気。
「びっくりしたんだよ。仕事帰りに、雨に濡れている子がいるなぁって思っていたら海斗君だったの。どうして、あんな場所で濡れネズミになっていたの……?」
「別に……」
「私、海斗君があんな顔をしていたのを見たのは2度目だよ。思い出の女の子の話をしてくれた時と同じだった」
紫苑の話を彼女だけは聞いてくれた。
俺が過去に引きずる相手。
とらわれ続ける俺の心に入り込んできたのは理香子だけだ。
他にも何人の女と付き合ったが、誰も興味も持たずに触れようともしない。
それが当たり前の反応でもあるのに……理香子だけは違ったんだ。
「図星かな?海斗君は嘘とか得意じゃないもんね。顔にすぐ出ちゃう」
「そんなんじゃないさ」
「人に話す事で自分の中で物事を整理できることもあるんじゃない?」
今は何の関係のない俺にも気を遣ってくれる。
理香子のこの優しさと包容力がかつての俺を癒してくれた。
「私が聞きたいの。海斗君、キミの悪い所は何でもひとりで背負う所。もっと他人に心を開いて。そして、もっと人に話をしなさい。人と人、心で通じ合えるのは難しいの。まずは言葉で話さないといけない」
「……また、理香子に説教されたな」
他人を怖がるばかりでホント、俺は進歩がない。
いつもこの人を困らせて、頼りにして。
ふっと自嘲してから覚悟を決めて話す事にする。
「3年ぶりに紫苑と出会えたんだ。いや、言葉が少し違う。再会というよりはむしろ、向こうから会いに来てくれた。俺に会いたかったって……」
俺は初めて紫苑の事を第三者に語る事になった。
自分の中で物事を整理するために……。
紫苑と出会い、やがて俺は再びあの頃の気持ちを思い出した。
当初、彼女に対して素っ気無くしていたのは、3年間の寂しさがあったから。
またどうせいなくなるのだとその事実を恐れていた。
だけど、俺は自分の中に紫苑の存在を認めた。
好きだという気持ちを告白した。
全ては上手くいき、ようやく希望の光に手が届くその時に、その光は突如奪われた。
2度目の痛みを俺にもたらした真実は意外なモノだった。
……紫苑は白銀家によって束縛されて、未来を決め付けられていた。
3年前も、今回の事も全て、白銀家が関わっていたんだ。
そして、その自分の運命を彼女は受けいれようとしている。
もう、俺に選択肢は残っていないのか。
どうすればいいのかすら分からないまま呆然としてた所で理香子と再会したのだ。
「……海斗君って彼女の事が嫌いなの?」
「違う。俺はまだアイツの口から何も聞いてないからな」
婚約の話も光里と言う男の戯言と言う可能性もある。
「大切なのはキミがどうしたいのかだよね。海斗君はどうしたいの?」
俺は自分自身に問いかける。
お前は紫苑をどうしたい?
このままで本当にいいのか?
問いかけて、思い浮かぶのは紫苑の笑顔だった。
そうだ、俺は……あの笑顔を見たいんだ。
ずっと俺の傍にいて微笑んでいて欲しい。
彼女が本当に幸せになれるかどうかなんて、誰にも分からない。
大切なのは“誰が”紫苑を幸せにしてあげられるか。
「私と付き合ってた頃の海斗君はすごく寂しそうだった。だから、私は思ったんだ。この子を助けてあげたいって。この子はどんな笑顔を見せてくれるのかって」
「理香子」
「あはは、結局、海斗君が私に笑いかけてくれる事はなかったけれどね。私じゃ、キミは救えなかったの。でも、今、こうして海斗君は再び私の前にいる。あの頃と違う。ちゃんと自分の意思でどうしたいのかを悩んでいる」
昔の俺はこんなにも彼女に支えられていたのか。
「数年前よりも、数ヶ月前よりも、数分前よりも、キミはちゃんと前に進めているよ」
「俺はずっと後悔ばかりしていたんだ。世界は俺にいつだって残酷な道しか与えなくて、それを進む事を怖れていた。違うんだ、俺が目を背けていただけで、本当は……別の道もあったはずなんだ」
こうして手をさしのばしてくれた相手がいたことにすら気づこうとしなかった。
現実を見ようとしなかったのは、自分のせいだ。
「俺はいつも“他人”だったり、“世界”だったり、“運命”のせいにしていた」
自分の人生、狂ったのは“誰か”が悪いからだ。
あの日、あの時、あの時間……今の俺が満たされないのも“誰か”が悪い。
いつもそういう風な考えしかできないから、俺は前に進めない。
責任逃ればかりで、自分は何も悪くない、悪いのは世界の方だと決めつけて。
見てみぬふりをしてきたのは、自分が何もしなかったという現実。
「……本気で生きてみたら世界の見方が変わる。キミはもう1度、本気で世界とぶつかりあいなさい。例え、そこに希望がないとしても、希望を作り出すのはひとつじゃない。別の方法を探す事もできる。絶対に諦めない、生きるってそう言う事だもの」
「本気で生きる、か。いつからだったかな、俺がこの世界に冷めたのは……」
「私はキミの幸せを望む。だから、海斗君は自分で決めて、行動する必要があるの。本当に欲しいものを手に入れるためなら、自分の全てを賭けることだってしなくちゃいけない。……キミにはそれができるはずよ」
理香子はそう言い終わると、俺に一枚の写真を見せた。
そこに写るのは彼女と知らない男の人、楽しそうに幸せそうに見える。
「私ね、今度、結婚するの。……私はキミと別れてから、傷ついていたわ。それを癒してくれたのがこの人なんだ。私は見つけた、自分にとっての本当の幸せをね」
俺は理香子に対して何もしてやれなかった。
救おうとしてくれたのに、傍にいてくれたのに、想いに報いることはなかった。
「だから……海斗君も見つけてよ。まだ終わってないんだったら、最後の最後まであがいて見せて。それが恋人として同じ時間を過ごした女の最後のお願い」
理香子は他人の痛みまで抱えてしまうタイプの女の人だ。
自分の過去を振り切れずに傷つけた。
それでも、こうしてまた俺の力になろうとしてくれている。
「……俺は諦める事に慣れていた。ずっと前にテニスができなくなって、世界に絶望したあの日から本気で生きる事の意味も必要もないと思っていた」
俺は本当に子供だったんだ。
自分の事しか見えなくて、周囲の人間の事を考える事さえできない子供だった。
人はひとりで生きていけない。
だから……俺は大切なものを手にするために全力で世界と向き合わなければならない。
「後悔したって遅いのも理解してるのに。大事な時に行動できないなら意味がない」
すっと抱えていた黒いモヤが消えるように心が晴れていく。
紫苑は白銀家に追われてまで俺に会いに来てくれた、それが彼女の意思だ。
だとしたら、俺はここで立ち止まるわけに行かない。
彼女を愛する人間として、行動しなくちゃいけないから。
「諦めるのも、後悔するのも……すべてが終わってからでいい。何もせずに諦めるのだけはもうしたくない」
……本気で生きてみよう、もう1度、あの頃のように。
乾燥機に入れた服が乾いたので、俺は理香子の家から自宅に帰ることにした。
空はいつしか雨も止み、星空さえも雲の合間から覗かせている
「雨がやんだみたいね。よかったじゃない」
理香子はまるで俺の心のようだと言う。
「雨はいつか上がるんだから。海斗君も同じだよ。多分、もう会うことはないかもしれない。でも、キミと出会えた事は私の中でいい経験だったわ」
「俺からも言わせて欲しい。ありがとう、理香子。それと……結婚、おめでとう」
俺の言葉に彼女は照れくさそうに笑顔を浮かべた。
心の中でも俺は理香子に感謝する。
さぁ、俺を守ってくれたもう一人の女のために行動しよう。
自宅に帰る途中の俺の携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
電話相手は知らない番号……誰だろう?
俺が電話に出るとかすれた涙声で相手は話をはじめた。
『……海斗?海斗……紫苑、私は紫苑……返事をして』
「紫苑ッ!?何で……?」
それは間違えるわけもない紫苑の声だった。
これまで携帯電話に連絡しても一度も通話できなかったのに。
『よかった……すぐに出てくれて。ごめん、時間がないから手短にしか話せない』
「それよりも、お前は大丈夫なのか?いきなりいなくなって心配したんぞ」
『ごめんなさい、海斗。私、こんな事になるなんて思ってなくて。今、白銀家の方で閉じ込められているの。すぐには戻れそうにない』
ぎゅっと胸に来るのは彼女の思い。
その震える声に俺は紫苑の必死さを感じとる。
『そっちに白銀家の人間が来たでしょう。何を言われたかは分からないけれど、気にしないで。お願いだから私を嫌いにならないで。私は……あっ』
電話越しに男の叫ぶ声が聞こえた、どうやら紫苑の事がバレたみたいだ。
『ごめん、もうダメみたい。あのね……海斗、私……私は…』
電話が切れる寸前、途切れそうな声で彼女は思いを打ち明けた。
『私は海斗が好きだから。絶対に信じてるから!……お願い、私を助けて――』
電話は一方的に切れてしまう。
でも、紫苑の本当の意思を確認できただけで十分だ。
彼女はまだ俺のことを好きでいてくれた、俺の存在を求めてくれていた。
だったら、男としてやるべき事はひとつじゃないか。
翌日の昼、俺は白銀家の屋敷の前にいた。
大きな屋敷の扉の前には警備の人間の姿も見える。
中にも何人もいるはずだ、厳重な警備網のど真ん中に突っ込むバカはいない。
「俺は約束したんだ、紫苑を守ってやるって……」
でも、そんな事をしようとする“バカ”がここにいる。
大事な女を取り返すために、運命から解放してやるために。
「飛べない蝶々、もう2度と紫苑をそう呼ばせない。俺が再び、空へ飛ばしてやるさ」
真っ直ぐ扉に向かって駆け出す、大事な女を守るためなら全力を尽くすために。
「さぁて、そろそろ行きますか」
俺が紫苑の世界をぶち壊し、新しい世界を作りなおしてやるんだ。




