第20章:突きつけられた選択
【SIDE:木村海斗】
“海斗の寂しさを私が消してあげるから”。
そう言って紫苑は俺の恋人になってくれた。
これまで付き合ってきた女の誰にも感じた事のないものがある。
それは恋人に対する愛情と言う感情。
どんなに親しくなっても、相手に抱くことのできなかった感情が紫苑には自然と抱けた事が俺にひとつの答えを与えた。
ホントに俺は彼女の事を愛してるという事に。
俺は孤独を望む人間だ、それはただの勘違い。
本当の俺は弱くて、失う事を恐れ、怖がりな臆病者だった。
人に嫌われたくないから孤独でいる。
そんな臆病に震える俺を抱きしめてくれたのは紫苑だ。
ひとりじゃないと教えてくれた。
世界との向き合い方を、生き方を示してくれた。
彼女がいなければ、俺は街を徘徊する不良の成れの果てでしかなかっただろう。
高校時代、彼女は俺の心を守ってくれた。
だから、俺も紫苑を守ると約束した。
……それなのに、彼女はまたいなくなる。
どうして、とか考えても分かるはずもなく時間だけが過ぎていく。
紫苑、キミは今、どこで何をしている?
それを俺に教えてくれ。
今度は俺がお前を守るから……絶対に守ってやるから。
大切な人だと信じていた紫苑がいなくなった。
俺の心に大きな穴があいたように、彼女のいない現実は辛い。
傍にいて笑っていて欲しかった。
俺のために料理を作ってくれたり、我がままを言って困らせたり。
アイツが消えてから俺は3年前と同じように過去ばかりを振り返っていた。
今度こそは離さないと誓ったのに。
彼女に何が起きたんだろうか。
俺の前から姿を消したのは彼女の意思なのか?
それが分からないまま、紫苑が失踪して1週間が経とうとしていた。
そして、事態は思わぬ方向から進展を見せる。
「……なんだ、これは?」
俺の住むマンションの前に居座る数人の男達。
どいつもこいつも黒いスーツを着たテレビとかに出ていそうな怪しい男だ。
遠目に眺めながら掃除をしている管理人の吉原が困り果てた顔をしている。
「道の邪魔だからどいてくれないか?」
自室に戻ろうとする俺の前に立ちはだかる彼らに声をかけると、無言でこちらに近づいてくる。
おいおい、まさかヤクザとか言うんじゃないよな。
俺が警戒するとリーダー格の男が俺に淡々と言葉を告げる。
「木村海斗さんですね?貴方をお待ちしておりました」
「は?俺を待っていたって……?」
「貴方にお話があります。少し、お時間をもらえませんか?」
「いかにも怪しいって奴らに、ほいほい付いていくバカはいないだろ」
こんなのは相手にしないのに限る。
俺がそう吐き捨てると、彼は表情を変えずに言うのだ。
「木村さんは“白銀紫苑”という女性をご存知でしょう」
「紫苑、だと……!?お前ら、アイツの関係者か?」
思わぬ相手から聞かされたその名前に俺は衝撃を受けた。
どうしてこいつらは彼女の名前を知っているのか?
「……貴方にお会いたい人がいます。詳しいお話をしたいのでついてきてください」
俺は警戒しながらも彼らの誘いにのる。
紫苑に関しては何の情報もない、僅かな情報でも今は欲しいから。
黒服の男に連れて行かれた俺は車で移動し、駅前のホテルの一室に案内された。
ホテルの最上階、金持ち以外には縁のない豪華な内装だ。
「しばらくお待ちくださいませ」
「俺に会いたい奴っていうのは誰なんだ?」
俺が尋ねても、板倉と名乗った男は無言のままだ。
その屈強な身体をした男とふたりっきりで沈黙のまま5分が過ぎた。
「木村さん、お待たせしました」
部屋に入ってきたのは20代前半と言う感じのいかにも優男的な印象を抱く男だった。
「初めまして、木村さん。僕の名前は倉敷光里と言います」
「倉敷?……何で紫苑の事を知ってる?その理由を話してもらうぞ」
「その件で僕らはここに来ました。そう警戒せずにどうぞ楽にしてください」
ソファーに座ると板倉は彼の横に立って灰皿を差し出した。
「木村さん、煙草は吸いますか?」
「今はやめている。好きにしてくれ」
「……では、僕もやめておきましょう」
倉敷は出しかけた煙草の箱を再び胸ポケットにしまいこむ。
「さて、さっそくですが本題に入りましょう。板倉、例の用意は出来ているのか?」
「はい。こちらになります、倉敷様」
板倉が彼に渡したのは一枚の紙だ。
それを彼は確認してから、俺に話をし始める。
「僕は倉敷、簡単に説明すると白銀家の分家の人間です。そして、貴方の知る紫苑さんは白銀家の本家という立場の人間になります」
「……白銀家。紫苑は今、どうしている?無事なのか?」
「ええ。彼女は白銀家の本家のお屋敷にいます。先日、見た限りでは元気な様子でした」
その言葉を聞いてホッとした。
とりあえず事件に巻き込まれたとかではないらしい。
それにしても、どうしてアイツが実家にいるんだ?
「失礼ですが、貴方と紫苑さんはどういう関係でしょうか」
「俺と紫苑は恋人だ。……そういうアンタは紫苑とどういう関係だ?」
「僕は……紫苑さんの婚約者ですよ。数ヵ月後には結婚する予定になっています」
「……なっ!?」
婚約者と聞かされて、俺は紫苑の言葉を思いだした。
紫苑を苦しめている悩みのひとつだ。
俺に話してくれたときの辛そうな彼女の表情は忘れらない。
「率直に言います、貴方には紫苑さんとの関係を解消してもらいたい」
「なるほど……。白銀家との問題に俺は邪魔というわけか?」
「……ふふっ、何を勘違いされているんですか。紫苑さんの恋人とはいえ、貴方はただの凡人。貴方ひとり、僕たちにとって障害にもなりません」
事実とはいえ、その言葉はグサリとくるものがある。
倉敷は俺を見下すように強気に言い放つ。
「心の問題ですよ。恋人がいるから、僕と婚約はできない。そう彼女は言いました。だから、貴方には自らの意思で彼女と別れて欲しい。もし、別れてもらえるのなら、こちらをお渡しいたしますよ」
先ほどの紙が倉敷から俺に手渡された。
それは小切手で、よく見てみると金額は300万円と書かれている。
「へぇ、この300万円は手切れ金というわけか?」
「そう言うことです。これで貴方には彼女から手を引いてもらいたい」
「ふざけんなっ。誰がこんな物でアイツと別れるか」
俺はその小切手を倉敷につき返した。
紫苑との関係を金で解消するなんてクズに成り下がった覚えはない。
倉敷はそんな俺の様子に肩をすくめて、呆れるように言う。
「この金額で満足できませんか?まだ上限をあげることはできます。それとも……?」
「金なんていらない。それより、アンタらは紫苑をどう思ってる。彼女が苦しんでいる事を知っていたか?アンタは紫苑を愛しているのか!?」
「……やれやれ。感情的な人だ。正直に言いましょう。僕は紫苑さんを妹のようであっても、愛してはいません。僕が本当に愛するのは別の人間ですから。それでも、僕と彼女は結婚する。自分の感情は意味がない、白銀という場所はそういう所です」
紫苑以外に愛する人間が婚約者、それを彼女は知っているのだろうか。
どうして、こんな男に紫苑を奪われなければならない。
イラつきを抑えられない俺は彼に叫ぶように問う。
「そんな事情はどうでもいい。紫苑を返せ!」
「……貴方は本当に彼女を愛してるのですか?」
「当たり前だ。俺は紫苑の恋人なんだから」
紫苑を彼は幸せにできない、そう判断したからこそ俺は断言した。
こいつらが彼女を苦しめていた元凶だとしたら……。
「ふふっ、あはは……面白い人だ。これだけ言っても引いてもらえないようですね。白銀家をあまり甘く見ない方がいい。木村さん、貴方ひとりを社会的に潰すのは容易です。我々はあくまで紳士的に行きたかったのですが……」
「金の次は脅しか?白銀家っていうのは汚い連中だな。家に縛られる紫苑が可哀想だ」
「“彼女”の目指す未来を侮辱するのは許しませんよ」
冷静な男の瞳にはっきりとした動揺と怒りが見えた。
「彼女?アンタの好きな相手ってまさか……美咲さんか?」
白銀美咲、紫苑の姉である彼女が今、白銀家の頂点にいると聞いた。
白銀家を支配している美咲さん、紫苑と倉敷の婚姻も彼女の望みだという事か。
「それを貴方に答えても仕方がない。僕は美咲の作りたい未来を支える、それだけです」
「そのために好きでもない女と結婚するのか。アンタ、間違ってるだろう。彼女が好きなら自分のモノにしろよ。男なら自分で運命を変えて見せろ」
「木村さん、貴方にそれができますか?出来もしない事を言うのはただの子供です。もしも、貴方がそれを実現したら考えてもいいですが無理な話ですね」
俺をそう一蹴すると彼は立ち上がる。
交渉は決裂で終わる。
誰がこんな紙切れ一枚で紫苑を諦められるか。
「……そうだ、ひとつだけ言い忘れていました。紫苑さんはもう2度と貴方の前には現れません。そう、ご自分で言っていました」
「紫苑がそんな事をいうものか」
「木村さんに迷惑をかけたくない、そう泣いていたとしても?」
倉敷が含みを持たせて語る。
それが真実かウソかはわからない。
「いつも涙を流しては貴方の名前を口にする。そろそろ解放してあげたらどうでしょう?貴方が彼女の心にいる限り、彼女は辛さから逃れられない」
「……紫苑を苦しめているのは俺の方だと?」
「違いますか?彼女は自分の運命を受け入れているんです。それを木村さんは邪魔をしている。白銀家に生まれた彼女はずっと前から、僕と結婚する事を良しとしていました。そんな彼女を変えたのは木村さんです」
紫苑を妹のようにと言っていたから、本当に幼い頃から親しいのだろう。
そんな彼が紫苑を泣かせるとも思えない。
「よく考えてください。どの選択が彼女を幸せにするか。僕に任せてくれても紫苑さんを幸せにすることだけは約束します。あの子を泣かせる真似だけはしませんよ」
俺の存在が紫苑を苦しめている現実。
否定はできなかった。
俺も倉敷も望んでいるモノは同じ、紫苑の幸せ。
だとしたら、どうすればいい。
俺はどうすればいいんだろう。
彼らと別れてホテルを出たら雨が降っていた。
傘を持ってきていない俺は駅前をぶらりと歩く。
髪を濡らす雨の雫は冷たくて、身体を冷やしていく。
紫苑がいる場所は分かったけれど、彼女は俺との関係を望んでいない。
アイツは諦めたのかな……本当に俺との関係を諦めてしまった?
「……紫苑にとって俺はもう必要ないのか。本当に終わりなのか」
濡れきった服が気持ち悪い、俺は雨を降らす黒い雲を見上げた。
「俺はこういう雨が大嫌いだ」
雨が好きとか嫌いとか、それを話す相手は俺にはもういない。
これが現実、俺達に希望なんてやっぱりなくて……。
こんな事になるなら俺達は再会するべきじゃなかった。
「……俺は紫苑を解放するべきなのか」
俺達は過去に捕らわれたままでいる。
俺自身、答えの出ない悩みにどうしようもできずにいた。
静かに降る雨。
ふと俺は立ち止まると目の前にひとりの女性が立っていた。
「え?もしかして、海斗君……?」
俺の顔を見て、そう囁いた女性。
かつて俺が愛そうとして、愛せなかった女の人。
『本気で生きてみたらどう?世界が変わるかもしれないよ』
年上の元恋人、理香子だった。
「……久しぶりだな、理香子。元気にしていたか?」
「ホントに久しぶり。でも、キミはひどい顔をしてるわね。びしょ濡れの猫みたい。そうだ、海斗君。私の家によっていかない?」
俺は黙って頷くと彼女の差し向けてくれた傘に入った。
それは俺にとって大切な夜になる。