第16章:さよならも言えずに
【SIDE:白銀紫苑】
“さよなら、海斗”。
私はその一言を言えずにいた。
海斗と親しくなって1年、高校3年生の夏、決められた私の未来。
結局、海斗がくれた幸せは私を苦しめる事になる。
運命に抗う事もできず、強制的に私は海外留学する事になっていた。
できれば今通っている高校を卒業してからにして欲しかったのに。
祖父の考えは私には理解できない。
結婚する相手を勝手に選んで、留学までして来いと言われて。
彼が私に何をさせたいのか、分からない。
ただひとつだけ分かっているのは、3年後、この日本に帰ってきた私は光里さんと強制的に結婚させられるという事だけなんだ。
その頃の私は海斗が大好きになっていた。
明確な恋心を体感しつつ、別れの時は刻一刻と近づいていた。
砂時計のように、目に見えて残り時間が少ない事が分かる。
もう彼と一緒にはいられない、言いようのない寂しさ。
私と海斗の過ごす、最後の夏がはじまろうとしている。
夏休みの間、私は出来る限りの時間を海斗と過ごしていた。
無理に連れまわして悪いかなと思ったけれど彼も気にしていないみたいでホッとする。
私のことを嫌いにならないで欲しい。
……彼も私の事を好きでいて欲しい。
そう思うのは私の我が侭かな。
「海斗、明後日に夏休み最後の海に行かない?」
「また海か?ホントに泳ぐのが好きだな」
のんびりとした1日、私と彼はゲームセンターに遊びに来ていた。
普段は来た事のない場所だったのですごく新鮮に思える。
子供の頃からこういう場所には来ちゃいけないものだと教えられていたから。
海斗といれば私の世界は広がっていく。
彼が私の好みのぬいぐるみをUFOキャッチャーで取ってくれている。
それを眺めながら私は彼にさり気なくお泊りを誘う。
「……私、海斗と旅行したいなぁ。ふたりっきりで海に行きましょう。ホテルもすぐに取れるし。ねぇ、いいでしょう?」
「お前にしては珍しい。そういう誘い方するなんて」
「あら、私にだってドキドキする事くらいあるのよ。だって、自分から貴方と旅行に行きたいなんて私でも緊張ぐらいするわ」
彼の中で私はどういう印象を抱かれているのかな。
ただ我が侭で気が強いお嬢様?
それとも本当の私……少し泣き虫で気の弱い私?
彼には私の本性を知って欲しい。
なんて無理だよね……私が彼に本性を見せないから。
意地っ張りでもある私は弱音なんて滅多に表に出さない。
「……そりゃ、意外。でも、いいぜ。紫苑とならどこにでも」
「嬉しい事を言ってくれるじゃない。地獄にでも付いて来てくれる?」
「すまん……前言撤回させてもらってもいいか?」
「えー。なんて冷たい。どこまでもついてきてよ。つれない子ね」
くすっと顔を見合わせて笑いあう私達。
自然に軽口を言い合える仲、恋人に近い恋人ではない存在。
……手を伸ばせば私は彼を手に入れる事ができるのかな。
私は海斗と恋人になれることを夢見ている。
それは叶わない現実。
それ以上に私という女の立場はそれを許してくれない。
白銀家になんて生まれなかったからよかったのに。
そうすれば、ただの“紫苑”として私は彼に近づける。
心も、身体も、自分の全てを海斗に委ねる事ができる。
現実から目を背ける私、何もできない弱い私……。
「よしっ……。紫苑、取れたぞ」
彼の声にハッとすると彼が私にぬいぐるみを手渡した。
ふわもふの犬のぬいぐるみ、私はつい気を緩ませて、
「……か、可愛い」
「そうか、紫苑に喜んでもらえて嬉しい」
彼の前だと言うのに思わず子供のように顔をほころばせてしまう。
それでも、彼も微笑みながら私を見つめてくれる。
出会った頃は“冷たい瞳”をしていた彼も今では“優しい瞳”をしている。
彼は私と関わる事で変わったのかもしれない。
何の接点もなく、偶然であった私達……今では幸せを感じて笑い合っている。
これもひとつの運命だったのかもしれない。
私達から希望を奪うための運命。
親しくすればするほど、彼のことを好きになればなるほど……別れが寂しくなるのに。
それは私達の最後の夏、海へと旅行に来た日の夜。
実はこの日、私は海斗に嘘をついていた。
翌日の朝に私は飛行機に乗り、日本を出発することになっていたんだ。
正真正銘、大好きな相手と過ごせる最後の夜……。
私の我が侭を聞いてくれて、いろいろと手配してくれた美咲姉さん。
彼女だけが私にとっての理解者。
生まれて初めて見る閃光、手元で輝きを放つ花火。
子供の時から憧れていたモノを海斗は簡単に私に与えてくれる。
これからもずっと続いて欲しい。
夜の暗闇を花火の光で私達の場所だけを照らす。
私の幸せを、未来を海斗に作って欲しい。
「……海斗、もしも私が貴方の世界からいなくなったどうする?」
彼にそんな言葉を問いかけていた。
私は怖かった……本当に怖かった。
この手にある失いたくないモノ、これまで手にいれたどんなモノよりも大切だから、私はそれを失う瞬間を怖れていた。
「世界からいなくなる?」
不思議そうに言う彼は本当に明日、私がいなくなればどう思う?
寂しいと感じてくれる?
私の事、自分を裏切ったと思うかな……?
「世界は人そのものよ。自分の世界と他人の世界。人間っていうのは他人の世界と触れる事で、現実を初めて実感できる。ひとりだけの世界に意味はないの」
線香花火は儚い小さな光を瞬かせている。
この光がすぐに消えてしまうように……私と海斗の関係も人生において一瞬の輝きでしかないのかもしれない。
それでもいいんだ、私は……。
海斗と過ごせたその一瞬に後悔はしないから。
「触れ合わせている世界が消えるだけ。私はその事に意味なんてないと思っていた。でも……いざその時が来ると思うと寂しいの」
溜息をつく私はしっかりと彼の瞳に視線を向けた。
マジマジと見つめて、その顔を心に刻み込む。
私の大好きな人、愛している人……私は忘れないから。
「紫苑、教えてくれ。お前の悩みって何なんだ?」
ぎゅっと私の心を掴むように彼はその一言を口にする。
ダメだよ、海斗……私にはそれに答える資格もない。
「……紫苑、俺はお前の力になりたいと思う」
やめて、お願いだから……。
私は彼にすがりつきたい気持ちを一生懸命に耐える。
本当は彼に伝えたかった、全ての真実を伝えて抱きつきたかった。
私はそれが出来ずに彼の唇に人さし指を触れさせるしかできなかったんだ。
「ありがとう、海斗。でも……私は……」
線香花火が砂浜に落ちて消えてしまう。
私と海斗の時間の終わりを告げるように。
私は唇をきゅっと噛み締めて言った。
「私は海斗に感謝してる。例え、それが定められた運命だとしても、抗う事で希望を見つけだせるんじゃないかって……貴方からそう教わったから」
私は彼を抱きしめてそう言葉にする。
諦めないから、私は絶対に海斗を諦めたりしないから。
いつか、いつの日か……海斗のところに戻るんだって決めたから。
幸せを失いたくない私はそう心の中で誓う。
現実がそれを許さなくても、運命が私たちを引き裂こうとしても……。
貴方の大事な人のひとりでありたい……それが私のたたひとつの望み。
傍にいられなくても、私のことを忘れないで。
幸福と言う快感に酔いしれる私達は最後の夜を過ごした。
早朝、私の携帯電話が鳴り響く音で目を覚ます。
ベッドの隣で眠る海斗を起こさないようにゆっくりと身体を起こす。
時間はゼロになった、これで私達の過ごせる時間はお終い。
一言だけ紙に海斗への謝罪文を書いて私はその部屋を去ろうとする。
彼が起きたら私がいない事をどう思うだろう。
さよならすら面と向かって言えない私は……私は……。
「……ごめん……ごめんねっ」
私は涙ぐみながら彼の寝顔に言葉を告げる。
嗚咽を漏らして、こみ上げてくる感情を抑えきれない。
「海斗、私はっ……ぁっ……」
そっと彼の頬に右手で触れて、私は彼に告白したんだ。
「海斗、大好き……大好きだよ」
頬を伝い零れ落ちる涙を私は拭う。
そのまま彼の唇にキスを落として、最後の温もりを感じた。
大好きな人と別れることがこんなにも辛いなんて。
「……せめて、貴方に幸せが訪れますように」
自分勝手な祈りを口にして、私は彼の元から消え去った。
高校3年の夏、私は世界で大切な存在と別れを告げた……。
身勝手な運命に翻弄されて、後悔という心に大きな傷をつけた夏が終わる。