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三つめ 溝


「仁科さまがお戻りになられました」


 お百合からその知らせを聞き、私は目を輝かせました。


 春も終わりの頃でした。五郎兄様が出陣なされてから、七つも月が過ぎていました。


「本当ですかっ!?」


 私は思わず立ち上がって、打掛の裾を踏んで転んでしまいそうになりました。

 それほど、五郎兄様が戦から戻ってこられたことが嬉しかったことを覚えています。


 五郎兄様がご無事に帰ってらっしゃった・・・!!


 戦のお話を、たくさんお聞きしたいと思いました。五郎兄様の武勇伝を、すぐにでもねだりに行きたくて。


「お百合っ!!今から五郎兄様にお会いすることは出来ませんか?」


「・・・はい。松姫さまはお部屋に参られるようにと、仁科さまから言付かっております」


「すぐに参りましょう!!」


 私は自分の部屋を飛び出して、急いで五郎兄様の部屋へと向かいました。どうしてか、浮かない顔をしているお百合のことにも気付かないまま。


 五郎兄様の部屋の前に立ち、思い切り障子を開けたとき


「五郎兄様っ!!お帰りなさっ・・・い、ませ・・・」


 私はその異様な光景に、臆してしまったのです。


 つつじに戻ってきたというのに甲冑姿で、戦塵も落とさずに汚れた顔の五郎兄様が、そこにいたのです。とても暗く怖い顔で、じっと俯いていらっしゃいました。


 そして部屋の奥には、同じく甲冑姿で戦塵まみれの諏訪の兄様。その後ろには俯いたままの菊姫もいます。



 なんですか・・・これは・・・



 何があったのか、私は怖くなりました。


 五郎兄様は私の顔を見ると疲れたような顔で笑みを浮かべて


「あぁ松、久しいな」


「松、話がある。座れ」


 間髪入れず諏訪の兄様が冷たい声で私に指示します。


 私が部屋の中に入るとお百合が黙ったまま障子を閉め、私の後ろにそっと座りました。

 

「・・・っ、お姉様・・・」


 菊姫の弱々しい、まるで私に助けを求めるような声が聞こえました。


 一体、何があったのですか・・・


 みな一言も口にせず、ただ重苦しい空気だけがじっと流れています。


「・・・見てわかるとは思うが、今、戦から戻ってきた」


 ぽつりぽつりと口にされる五郎兄様の一言一言がとても重く、空気はひんやりと冷たく感じます。重い緊迫感の中、私はグッと息を飲んで力強く頷きました。


「その戦陣で、父上が病で召された」


「父上が、ですか・・・」


 父上が、亡くなられた・・・


 そのようなことを言われても、全く実感が沸きませんでした。父上はこの甲斐の国にとっても、武田の家にとっても、無論私にとっても大きくて・・・とっても大きくて・・・そのような父上がいなくなるなんて、ありえません。


「そんな・・・ありえません・・・」


 父上は、まるで山のように大きなお方です。甲斐の山がなくなるわけがないではないですか。甲斐の川が急に流れを変えたりするはずなどないではないですか。


「事実だ。受け入れろ」


 突き刺すよう短く、諏訪の兄様が言い放ちました。誰も、笑ったりなどしません。じっと歯を食いしばっている様が、本当のことを物語っているのでしょう。


 本当に、父上が・・・


 呆然としながら、私はずっと心の中で言い聞かせました。父上が亡くなったことを。


 苦しいときほど、武田の姫として凛としていなければ・・・一生懸命、その小さな心を安定させようと必死でした。


 だったのに・・・


「家督は諏訪の兄上がお継ぎになさる。諏訪の兄上が新たな武田家の棟梁だ、家のことはお前が気にしなくてもいい。あとは兄上と俺が良きように計らう。だが、一番の問題はそれではない」


「何なのですか・・・」


「織田が敵となった」


 五郎兄様が、何を言っているのか全くわかりませんでした。


 私は武田の家の中で、きっと織田家のことを最も親身に感じていたのだと思います。奇妙様の文から津島の祭りなど尾張のこと、織田のことをたくさんお聞きしていました。織田のことを仲の良い隣国だと、ずっと思っていたのです。


 織田と武田はずっと仲良くしていて、その証として諏訪の兄様と遠山の方様や、私と奇妙様が・・・なのに、急に敵だなんて・・・


「織田が・・・敵・・・どうしてっ?どうしてですか!?」


「我らの西上に織田方が反発し、戦になった。あの国はもう敵国故、お前たちの婚約も解消された」


 奇妙様が敵・・・婚約が解消・・・私は何がなにかわかりませんでした。いや、無意識のうちに受け入れたくなかっただけのかもしれません。何となくですが、奇妙様との結婚がなくなったこと、奇妙様が私から離れていったことは気付いたのですから。


「それは、もう私は奇妙様と会うことがないということですか! もう文すら送れないということですか!」


 全てを信じたくなくて、私は大声で叫びました。


 父上の死、奇妙さまとの突然の別れ。


 信じられなくて、信じたくなくて、私は叫んだのです。ですが、それも空しい響くだけでした。


 起こってしまった事実は、誰も変えられない。私がどれほど叫んでも、ここにいる誰にもそれを変える術は持っていないのですから。


 私は、奇妙様の婚約者ではなくなってしまいました・・・


 もう、奇妙様に文を書くことも出来ません・・・


「・・・すまぬ」


 そう謝った五郎兄様の声は弱々しくて濁っていて、さらに私を惨めにさせて。


 私の荒い呼吸だけが、空しく聞こえる中、


「それだけではないと思いますが」


 それは、お百合の殺気立った声でした。鋭い顔つきでじっと、諏訪の兄様や五郎兄様を睨みつけていました。


 その表情は、どのように見ても私のことで怒っているように見えます。


「侍女如きが、口を出すな」


「いいえ松姫さまのために出させてもらいます」


 冷たくあしらう諏訪の兄様にも一歩も引かず、お百合はじっと目を反らそうとしませんでした。侍女が諏訪の兄様に逆らうなんて、手討ちにされてもおかしくないはずなのに。


 私の前に身を乗り出して諏訪の兄様に食って掛かるお百合を、ただ呆然と見つめていました。


「松姫さまは・・・四年前、あの婚儀が決まった時点で、松姫さまは織田方の人間になったのだと私はお聞きしております。この婚約解消で、松姫さまは武田と織田、二つの家から見放されたのではないですか?」


 五郎兄様も諏訪の兄様も、俯いてまましばらく何も仰ってくれませんでした。まるで、その態度が答えだとでも言うようで・・・


 お百合は、ただ悔しそうに歯を食いしばって、背中を震わせて


「答えて下さいっ!!」


 大声で諏訪の兄様に怒鳴っていました。


 私は、もう魂が抜けたように何も考えることが出来なくて、お百合を止めるなどという考えすら思い浮かばなくて、ただずっと激昂するお百合の背中を眺めているだけで。

 

「・・・織田からは、確実に絶縁されているだろう。しかし、その確認が取れなくなった以上、松は敵方の姫のままだ。この家の復縁はできまい。」


 顔色一つ変えず、ただ淡々と諏訪の兄様はお答えになっていました。自分の妹の話であるはずなのに、まるで他人事のようだったことを覚えています。


「松は、もうこの国に居場所はない」


「っ、そんな・・・そんな話がありますかっ!!殿方が勝手に戦をなさって・・・松姫さまは・・・松姫さまはあんなに奇妙さまとご結婚なさるんだって・・・どうして織田と戦などなさったのですか!!どうして松姫さまのお立場を考えて下さらなかったのですか!!」


「お百合・・・?」


 お百合の嗚咽が聞こえました。諏訪の兄様に怒鳴りながら、泣いているのでしょうか。私からはお百合の背中しか見えません。


「松姫さまのお気持ちは・・・どうなるのですか・・・」


 生まれたときから、私はお百合と共に過ごして来ました。お百合は、この世の誰よりも私と多くの時間を過ごし、まるで姉妹のような・・・いえ、それこそ互いの写し身のように近しい関係でした。お百合はもう一人の私で、私はもう一人のお百合で。それほど、お互いのことを大切に思っていました。


 奇妙様との婚約を、一番応援してくれたのはお百合でした。私が奇妙様の仲が深まっていくことが、一番嬉しかったのもきっとお百合でしょう。お百合が色恋で口うるさく言うのは私のことを想っているからだと、私は強く知っています。


 だから、目の前で泣き崩れるお百合に本当申し訳ない気持ちでいっぱいで。


「・・・菊は、俺が預かる。松は、五郎の下へ行け」


 泣き崩れるお百合には目もくれず、諏訪の兄様はそれだけを言い捨てると、すっと立ち上がって部屋から出て行こうとしました。


「お姉様・・・」


「菊、行くぞ」


 菊姫は心配そうに私を見つめるのですが、諏訪の兄様に急かされて、申し訳なさそうに黙ってまま諏訪の兄様について部屋から出て行きました。


「何も出来なんだ。不甲斐ない兄で、誠にすまぬ・・・」


 五郎兄様はそう仰って立ち上がると、そっと私の髪を撫でて、部屋から出て行ってしまいました。きっと、五郎兄様も内心とても苦しい思いをなされていて、この場に居ることが耐えられなかったのだと思います。


 五郎兄様が去った後、私は呆然としたままでした。


 もう、何もわからないのです。


 ただ、奇妙さまにはもう会えないというのに、


 この心に残った寂寞は奇妙さまに会えぬ悲しさだとわかっているのに、

 

 瞳は乾き涙すら出ませんでした。


 十年生きて、これ以上悲しきことはなかったと思います。なのに涙が流れず、そんな自分への苛立ちが混ざって、もう、何も考えることはできなかったのです。


「っ、松姫さま・・・ごめんなさい・・・」


 お百合が急に私に抱きついて、私の代わりに泣いてくれていました。


「・・・ごめんなさいっ・・・ごめんなさい・・・」


 『おなごはおしとやかに泣くものです』といつも五月蝿いお百合が、大声で泣いていたのです。何も出来ないことが誠に悔しそうに、『ごめんなさい』を繰り返して。


 私の膝上に顔を伏せて、乱れるように泣いてくれたのです。私は泣けぬというのに。



 そんなお百合の姿が、今でも私の心に深く残っております。


 何も感じぬまま、私の膝で泣いているお百合を見つめていたことを。





 でも、その後、この日はどう夜を迎えたのか、今の私は覚えていません。

婚約が潰えてしまいました・・・(泣


武田の姫としての誇り。

そして大好きな婚約者。


一度に全てを失った松姫さまの気持ちってどういうものだったんでしょうね・・・

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