三つめ 初陣
「二つめ」から年月が経ち、松姫さま10歳のお話です。
奇妙様は、ご存知でしょうか。
私の文が、奇妙様に届かなくなった時のこと。奇妙様の返事を読むことが出来なくなった時のこと。
私と奇妙様の唯一の繋がりが、途切れてしまったときのこと。
きっと、奇妙様はご存知ないのでしょう。
同じように私も、あの時奇妙様に何があったのか、奇妙様がどんな心持ちだったのか、何も知りません。もう二度と、知り得ないことです。
ただ、ふと思う時があります。もし、あの夜が来なければ、ずっと奇妙様と文のやり取りが出来たのかもしれないと。奇妙様と結婚することが出来たのかもしれないと。
そのようなことを思っても詮無いとはわかっているのですが、それほど、あの夜を今でも恨んでおります。
私から奇妙様を、全てを奪ったあの夜の嵐を、私はこれからも忘れることが出来ないでしょう・・・
私は奇妙さまを好いています。
幼き頃に感じた恋心は十になっても枯れたりはせず、大きな木となり想いを募らせておりました。文を送れば送るほど、奇妙様のことが気になってしまいます。奇妙様のご返事の文を何度も読み返して、奇妙様のことを知れば知るほど、好きになってしまいます。
奇妙様との文のやり取りを三年続けても、四年続けても、全く飽きるということを知らなかったのです。やり取りを重ねれば重ねるほど、私は奇妙様に夢中になってしまいました。
お慕いしております・・・好きです・・・
いつか、その言葉を奇妙様に直接会って届ける日のことをずっと夢見ながら。
そんな頃に、私は五郎兄様の初陣の話を耳にしたのです。
「そういえば松姫さま、仁科さまの初陣の話はお聞きになられましたか?」
部屋でお百合と向かい合いながら貝合わせをしていると、ふとお百合が思い出したように私に話を振りました。
「初陣?五郎兄様が戦に参られるのですか?」
「そうですよ!!近日に出陣が決まって、仁科さまも一手の大将に抜擢されたとか!!」
「一手の大将!?それはすごいです!!」
初陣で兵を率いる立場になられるなんて、さすがは五郎兄様だと思いました。武芸に秀でた五郎兄様にきっと鎧兜の出で立ちはとてもお似合いだと思いますし、その姿を想像すると私も胸が高鳴ります。
此度の出陣は南西へ兵を進めるとのことでした。父上自ら腰を上げ、五郎兄様、諏訪の兄様も連れ添って二万にもなる大軍で、秋の中頃に発ってしまうと春になるまで帰れない長陣になるのだとか。
おなごである(しかもまだ幼い)私には、男の戦場の世界というのは全くわかりませんでしたが、五郎兄様が武士として活躍出来る機会に自分のことのように嬉しかったのです。
「やはり戦場に向かってこそ、男は格好良いものですよ!!松姫さま!!きっと仁科さまもとても凛々しいお姿だと思います!!」
そう言って意気揚々と『凛々しい男とは』と語り始めるお百合に、またお百合の色恋馬鹿が始まった・・・と私は呆れてしまいます。
けれど、内心私も少しうきうきしていました。私が出陣する訳ではないのですが、私にとっても戦に触れる機会はこれが初めてで、言うなれば私にとっても『初陣』なのです。
五郎兄様を応援しなければ。ちゃんと八幡様にお祈りして、五郎兄様の無事と大きな功名が立てられますようにと・・・
「出陣の日には、館の門の前できちんとお見送りしましょうね!!仁科さまに『頑張って下さい!!』とお声をかけるのですよ松姫さま!!」
「ええ!!勿論です!!」
お百合の言葉に私は強く頷きました。
出陣の日、私はお百合と菊姫と屋敷の門の前で出陣のお見送りを致しました。出陣式のため武田家中の武士が一同につつじのお屋敷に集まります。『赤備え』という紅い甲冑を身にまとった武士たちが何千何万と揃うのはとても壮観で、その人の多さに私も驚いてしまいます。
輿に乗った父上を先頭に『馬廻り』や『旗本』と呼ばれる親衛の方々、そして侍大将、物頭の軍勢が続きます。その中で、私は悠々と馬を進める五郎兄様を見つけました。真紅の新しい甲冑姿で、初めての戦にも臆した様子がない五郎兄様が、私にはとっても凛々しく見えたのです。きっと、奇妙様にも負けないくらい凛々しかったのですよ。
妬けましたか?
「五郎兄様っ!!頑張って下さい!!」
大きく手を振りながら、私は大声で五郎兄様にその言葉を伝えました。
五郎兄様は優しく微笑んで
「当たり前だ。松もみなが居ない間につつじのこと、任せるぞ」
いつものように五郎兄様は私の頭をわしわしと撫でてくれました。
私は大きく頷いて
「任せてください!!五郎兄様が大功を挙げられるように祈っております!!」
「菊姫も、姉上の言うことをよく聞くのだぞ」
「はい、兄様もお気をつけて下さい!!」
八つになった菊姫も、明るく受け答えます。
「では、行ってくる」
私と同じように五郎兄様は菊姫の頭も撫でると、優しく微笑み馬を進み始めました。背筋を伸ばした凛々しい武者姿の背中を、私は見つめながら
お気をつけて・・・
と祈り、思わず両手を胸の上で握り締めました。
ねぇ、奇妙様。
殿方が出陣なさるとき、どのような心境なのでしょうか。
私は、戦に出たこともなければ武士でも男でもありません。
なんと五郎兄様にお声をかければ、私は正解だったのでしょう?
その正解が、私にはわかりませんでした。
けれど、奇妙様はご存知なのでしょう?
いつか、出陣のお見送りをする相手が五郎兄様ではなく、奇妙様に「行ってらっしゃいませ」と言える日が来るのでしょう。同じように、馬上から奇妙様に髪を撫でてもらえる時が来るのでしょう。
奥方として。
奇妙様とご結婚して。
次々と私達の前を通り過ぎる兵卒たちを眺めながら、私は思わずそんな将来を夢想しておりました。
すると、
「松姫さま、諏訪さまです・・・」
お百合がそっと私に耳打ちして、私は列の中に諏訪の兄様がいるのを見つけました。
屈強そうな馬を悠然と歩かせて、諏訪の指物をなびかせています。諏訪の兄様が率いる兵には歩卒などいなくて、何百騎という騎兵を従えていました。『武田の騎馬隊』最強の、精鋭部隊です。そしてそれを率いているのが、諏訪の兄様だったのです。
諏訪の兄様の騎馬隊は寸分の狂いもなく整列し、圧倒的な迫力で行軍をしておりました。
隣ではその迫力に菊姫が不安そうに私の裾を掴みます。
私も怖くて堪りませんでした。諏訪の兄様は苦手で、出来れば声をかけたくなどなかったのですが、でも・・・
前に五郎兄様に教えてもらったことをふと思い出して。
私が、遠山の方様だったなら・・・
諏訪の兄様が、私の前を通り過ぎようとしたとき
「お気をつけて、諏訪の兄様」
自分でも驚くほど、するりとその言葉が口から出ていました。
お百合も菊姫も驚いた表情で私を見つめています。
けれど、一番驚いているのは私で、どうして諏訪の兄様に声をおかけしてしまったのかと唖然として、
けれど一度口にしてしまった以上引っ込みもつかなくなってそのまま勢いで
「ご武運をお祈りしております」
諏訪の兄様は、馬を止めてくれませんでした。私の声は聞こえていたはずなのに、振り向かず、顔色一つ変えず。
でも、一言
「松も、励め」
私は呆然としてまま、諏訪の兄様の背中をじっと見つめていました。まさか、諏訪の兄様からお声をかけられるなどとは思ってもいなかったのです。
初めて、諏訪の兄様と対等に言葉を交わせた・・・
相変わらず諏訪の兄様のことは嫌いですが、その一言で何かが変わったような気がしました。
ほんの少しだけ、わだかまりが溶けていったような・・・
それから寒い冬を越し、春が西からやってきました。
今でも忘れられません。晩春の夜のことです。その日はずっと雨が降り、夜が更けるに連れて風も強くなりました。季節外れの、大きな嵐でした。
ごーっという雨風の音が強くて、障子がずっと揺れていました。時折稲妻が鳴り響いて、その稲光りに私の恐怖はどんどん増していきます。
思わずお百合の胸に顔を埋めて、ぎゅっとお百合を抱きしめました。
「ひゃっ!!雷は怖いです・・・」
「大丈夫ですよ松姫さま。私が付いていますから」
私があまりに雷に怖がるので、お百合は可笑しそうに笑いながら力強く笑いました。
けれど、実際に外は雷鳴も雨音も鳴り止まなくて。お百合の言葉も気休めにしか聞こえません。
がたんっ!!と不意に屋敷の屋根が揺れる音が響きます。
奇妙様っ!!―――
いざ死ぬと思ったとき、頭の中をよぎったのは奇妙様のことでした。
奇妙さまはご無事なのでしょうか?
お願いです。奇妙さま助けてください!!と、
奇妙さまのことを考えるばかりでした。死が増していく中、奇妙さまを想い何としても生きていたいと思ったのです。
奇妙様と離れ離れになりたくない。
死にたくない。
私は、奇妙様にお会いしたい、と。
次の日、いつも届いていた奇妙様からの文が届きませんでした。昨晩の嵐で文に何かがあったのだろうと私は楽観して、再度奇妙様に文を送りました。
ところが、
次の日も、
次の日も、
七日経っても
半月経っても、
奇妙様のお返事は私の手元にに届きませんでした。
あの嵐で、奇妙様の身に何かあったのでしょうか?
幾度も幾度も私から文を送りながら、奇妙様の身を案じつづけていると、その知らせは、突然やってきたのです。
武田信玄が、
父上が、亡くなったと。
武田信玄の上洛戦です。
上洛戦を武田側から描くのって結構珍しい気が・・・あんまり見たことないですよね。
そしてこの上洛戦を機に、松姫さまの運命が、そして武田兄妹たちの運命が少しずつ狂い始めてくるのです。