二つめ 過去
人を好きになるということは、とても尊いものだと私は思います。
奇妙様を好きになったこと。この想い。それを初めて自覚したとき、私が見ていた風景は一変したのです。朝に空が晴れているだけで嬉しくなります。お気に入りの薄桃の打ち掛けを羽織りたくなって、それだけのことがやけに楽しくて。世の中が変わったように、私の周りは楽しいことで溢れかえっていくのです。
風の香りが変わったのだと、私は幼い頃にそう感じました。清々しく、ほんのり甘い。そんな心を躍らせるような良い香りの風が吹いているのだと。
笑わないで下さいよ。子供の、可愛い絵空事なのです。
本当に変わったのは、私だということはわかっています。
奇妙様のことが好きで、奇妙様を好きでいられる自分のことも好きになって。毎日が心躍る、楽しい。嬉しい。いつも私はそんな気持ちでした。
いつか結婚すれば、奇妙様とお会いできる。
その未来を想像すると、私は楽しくて楽しくて。
奇妙様にお会いできたら、どうしましょう・・・?
一緒に、楽しいことをたくさん・・・たくさん遊ぶのです。
お話したいことだって、山ほどあるのです。文だけでは書ききれないことが、たくさんあって、それも全て奇妙様にお話したいです。
そして、自分の口で直接お伝えしたいのです。
『松は、奇妙様をお慕いしております』と。
ある日、五郎兄様にお誘いを受けました。『家中の者から梨をたくさん貰い受けた。食べに来ないか』と。梨と聞いて私は思わず目を輝かせて、「行きます!!」と大きく頷いて、五郎兄様の部屋にお邪魔したのです。
「近頃の松は、誠に楽しそうな顔をしているな」
無我夢中に梨にかぶりつく私の顔を見て、五郎兄様は笑ってそう仰いました。私は急いで口の中の梨を飲み込んで
「そうですか?」
と首を傾げました。
「あぁ、前とは違って生き生きとしている。奇妙殿と何かあったのか?」
「はい!!何かあったのです!!」
奇妙様のことを聞かれて私は思わず嬉しくなって、にっこり笑って胸にしまったお守り袋を五郎兄様に差し出しました。
お守り袋の中に入っているのは奇妙様からいただいた、『全てを振っても松殿をお守り致します』と書かれた文。奇妙様からの、想いの証。私の最も大事なものです。私の全てといってもいいくらい。
お守り袋に入れて、肌身離さず持ち歩いているのです。
お守り袋を五郎兄様に見せびらかせながら、私は五郎兄様に事の顛末をお話しました。諏訪の兄様にお会いして言われた言葉。初めて知った真実。そして、不安になる私を奇妙様が励ましてくださったこと。
本当に、ただの惚気話ですよね。ですが、私は奇妙様のことを五郎兄様にお話しすることがとても楽しくて、五郎兄様も嬉しそうに聞いてくださるのでついつい長くお話してしまうのです。おなごはみな、そうなのですよ。
「松は本当に、奇妙殿のことばかりだな。随分奇妙殿と仲良くなったようで、微笑ましい気分だ。兄としては少し妬けるが」
奇妙様が・・・奇妙様が・・・を繰り返す私に、五郎兄様は呆れたように笑みを浮かべていました。
「五郎兄様も凛々しい殿方だと思いますけど、奇妙様もとっても素敵な人なのです!!それに比べて、諏訪の兄様は・・・酷い人です」
「諏訪の兄上のことは悪いように言うな。兄上はそんな人ではない。立派な方なんだ」
諌めるような声で、五郎兄様は言いました。
「えっ・・・五郎兄様は、諏訪の兄様のことが好きなのですか?」
「あぁ、尊敬している。主君としても、兄としても。諏訪の兄上のような武士でありたいと、常に思っている」
「どうしてですか・・・あんな、冷酷な人・・・」
「冷酷か?まぁ、確かに無口で不器用なお方だが・・・諏訪の兄上は領民のことも家来のことも常に考えておられる、優しいお方だと思うぞ」
優しい諏訪の兄様・・・想像も出来ませんでした。私が見ている諏訪の兄様はいつも目を尖らせた冷たい方で・・・優しい諏訪の兄様なんて、ありえないです。『大きな小鳥』くらい矛盾した言い方だと思いました。
「お優しい方ですか?どうして、諏訪の兄様はあのよういつも怖い顔をなさっているのです?」
前々からずっと気になっていました。私達の兄上じゃなくてむしろ鬼の子ではないかというくらい、諏訪の兄様は怖い顔をなさっています。
「太郎の兄上の件があったからだろうな・・・昔から諏訪の兄上は太郎の兄上にべったりだったそうだと聞くしな」
太郎の兄様・・・
噂では聞いたことがあります。私達の兄上には、『武田太郎義信』という長男がいて、元々父上の後を継ぐのは太郎の兄様だったのだと。私達が赤子の頃に、亡くなってしまって、代わりに諏訪の兄様が父上の後を継ぐことになったのだと。
「太郎の兄様に、何があったのですか?」
「俺も詳しいことは知らないが・・・太郎の兄上は、今川の姫君を妻にしていたそうだ」
今川・・・前に五郎兄様に教えてもらいました。確か南の、駿河の国を治めるお殿様だったはずです。
「ところが父上は今川と戦をなさると決断されて、それに太郎の兄上が反発されたらしい。父上を取るか、妻の国を取るか。太郎の兄上は選択を迫られて・・・奥方様を取ったために命を縮められたのだと・・・」
そんな・・・可哀想な話だと、私は思いました。
国を取るか、好きな人を取るか・・・そんな選択を迫られるなんて、酷い話だと思いました。私は奇妙様も大事ですけど、つつじの町だって好きで・・・そんなの、選べる訳がないです。それを太郎兄様はお選びになったなんて、お会いしたこともない兄上だけれど素直に私は尊敬してしまいます。
国を捨ててまで好きな人を選べるなんて、なんて強い人なのだと。
「太郎の兄上のことが、諏訪の兄上の中に強く残っておられるのだろう。毅然とした態度でいなければ、父上の後継は務まらないと。武田の棟梁として、己の感情を殺していかねばならない時も多いだろう。諏訪の兄上の苦労も察して差し上げろ」
と、五郎兄様はおっしゃるのですが私はどうも得心することが出来なくて
「でも、諏訪の兄様はいつも私のことばかり睨んで・・・怖いです」
「きっと松に対しては・・・負い目があるのだろうな・・・遠山の方様のことを思い出されて」
「遠山の方様・・・?」
初めて聞く名前でした。
遠山の方様とは、誰なのでしょうか・・・?
「諏訪の兄上の奥方様だ。去年亡くなられた」
諏訪の兄様の、奥方様・・・去年亡くなられたなんて・・・
「初めて、知りました・・・でも、その遠山の方様と私に何の関わりがあるのですか・・・?」
「遠山の方様は、織田方の縁者だったんだ。織田殿の姪、奇妙殿とは従兄妹の関係だ」
「えっ・・・じゃあ、私と諏訪の兄様は同じ・・・」
同じ境遇ではありませんか・・・
「あぁ。諏訪の兄上と遠山の方様は、お前達と同じ武田と織田の同盟の証として御結婚なされたんだ。だが去年、難産の無理がたたって身罷られてしまって・・・代わりに新たな同盟の証として、お前と奇妙殿の婚約が決まったのだ」
私と奇妙様の前が、諏訪の兄様と遠山の方様だった・・・
遠山の方様が亡くなられたから、私と奇妙様が婚約することになったなんて・・・
「諏訪の兄上は、誠に遠山の方様を大事になされていた・・・親同士が決めた結婚とは思えないくらい、二人仲良さそうだったな」
ほんの少し、諏訪の兄様の気持ちがわかるような気がしました。
もし、奇妙様が亡くなられて、誰かが私達の代わりに結ばれるなんて、きっと私は素直に喜べないでしょう・・・その二人を見るたび、奇妙様のことを思い出して胸が苦しくなりそうです・・・
諏訪の兄様は、いつもそんな気分なのでしょうか・・・私と遠山の方様が重なって、目を反らしたくなるような気持ちで私を見ているのでしょうか・・・
「諏訪の兄上が松に素っ気ないのもそのためだろう。内心はきっと、松のことを心配しておられるさ」
諏訪の兄様はきっと、そのようなことは思ってないです・・・
私は内心そう思いながら(けれどそんなこと五郎兄様に対して言えなくて)ふくれて、また梨に噛りつきました。
優しく微笑みながら、いつものように五郎兄様は私の頭を撫でて下さいます。奇妙様のことを考えながら一生懸命手入れをした髪が、大きな指で掻き解かれてしまいます。けれどそれがとても心地よくて。
私は、諏訪の兄様のことを単純に冷酷で鬼のような怖い人だと思っていました。
けれど、諏訪の兄様には諏訪の兄様の過去があって、冷たい態度もそのせいなのだと初めて知りました。
やっぱり諏訪の兄様は苦手で好きになれないですけど・・・
少しくらい、優しくしてあげてもいいのかなぁと、私は思い直したのです。
諏訪勝頼の過去バナ回です。冷淡な御曹司も顔に出さないだけで内心はいろいろ考えることがあったのだろうと思います。
遠山の方のことはあまり資料が残ってなくてわからないことが多いのです。まず名前からわかりません(汗
美濃の遠山氏の娘ってことで一応「遠山の方」って表記をしてます。信長の養女で姪にあたる人物。勝頼と結婚して嫡男の信勝を産むのですが、すぐに亡くなってしまいます。
武田信玄が、信勝のことを溺愛していたり(実際の家督は勝頼じゃなくて信勝に!!って遺言で指名してたりしてますし)
そういうことを考えると、遠山の方は武田に嫁いでも信頼されるような聡明な人だったんじゃないかって、自分は思います。