二つめ 真実
それから、次の日も、またその次の日も、諏訪の兄様の言葉が頭から離れることはありませんでした。
朝に目を覚ましてすぐ、食事の最中も、そのことばかり考えてしまいます。歌の勉強なんてとても頭に入らなくて、お百合に叱られてばかりです。
『武田の者でもないくせに、口を出すな』
どうして諏訪の兄様は、あんなことを言ったのでしょうか・・・
私が武田の者ではないとは、どういう意味・・・
私は、武田の姫。武田信玄の娘。ずっと、そう思っていました。
もしかして、それが間違っているというのですか・・・
ずっと私は、思い違いをしてたというのですか・・・
「・・・私は、誰ですか?」
ふと、呟いてしまいます。きっと、考えても考えても答えなど出ない問い。
自分が何者か疑ってしまうことが、こんなに不安なものなんだと私はこの時初めて知りました。怖い・・・私を信じることが出来ない私が、とても怖いのです。
奇妙様・・・奇妙様は私より四つも大人ですから、きっとそのような不安は乗り越えてしまったのかもしれませんね。
私は、弱いです・・・だから、私は奇妙様に文でお尋ねしたのです。
私はときどき、自分が何者かわからなくなります。
奇妙様は、ご存知ですか。
私は・・・誰ですか?
すると、奇妙様はこう文を返してくれましたね。
松殿は、それがしの妻となる姫君です。
武田の家を離れ、織田の家の者になるのだと聞いております。
えっ・・・
寝耳に水の話でした。私が織田の家の者になるなんて、一言も聞いていません。
でも、そのことを奇妙様は知っていた・・・
そのようなことを思うなんて、馬鹿ですよね。まだまだ子供だったと思います。
でも、私はまだ『結婚』の意味も『嫁ぐ』ということも、理解していませんでした。
ただ、独りぼっちになったみたいに、大きな寂寞感の中で途方に暮れる気持ちだったのです。
「お百合・・・寂しいです」
その日の夜は、お百合の寝床に忍び込みました。いつもは一人で眠るのも平気だというのに、その日だけは一人で眠ることが怖くて。
「松姫さま・・・?どうなされたのですか・・・?」
薄暗い部屋の中、お百合が心配そうな声で尋ねました。私は黙ったまま、お百合の寝具に潜り込んで、ぎゅっと抱きしめます。
「松姫さま・・・」
お百合は私の頭をそっと撫でてくれます。
「・・・私はもう、武田の姫ではないのですか」
枯れるような声で私はお百合に尋ねました。
けれど、お百合は肯定も否定もせず、ただじっと黙ってしまいました。そして、一言
「知って、しまったのですね・・・」
悲しそうに呟くお百合の声が聞こえました。
「どういう、こと・・・お百合も、何か知っているのですか?」
「それを、お答えすることは・・・できません」
「どうしてですか?」
「わたくしは御屋形さま、信玄公から固く口を閉ざすよう言いつけられました。それは、松姫さまが悲しまぬようにと思うたからです。事実は刀のように鋭きものです。それを突きつけられる覚悟がありますか?」
こんな怖くて冷たいお百合の声を聞くのは初めてでした。私は少し臆したのですが、それでも、やっぱり本当のことが知りたくて
「・・・知りたいです。何も知らないのは不安で・・・寂しいです」
弱々しく私が答えると、お百合はまた優しく私の頭を撫でて、先ほどと変わって穏やかな声で、ぽつりぽつりと話してくれました。
「松姫さまは大きくなられると、奇妙さまと夫婦の契りを結んで織田に嫁ぐことになります。何故かわかりますか?」
「どうしてですか・・・」
「人質です。武田と織田が同盟を結ぶために、その証に松姫さまを人質として織田に渡すのです。いわば、御屋形さまは織田に松姫さまを売った・・・」
父上が、私を売った・・・
「また織田方も、同じく我々にに奇妙さまを売ったのです」
「っ、どうして、そのようなことを・・・」
「それがおなごの生き方です。国と国を結ぶために人質として送られる。どの大名家でも当たり前に行うことです」
私は、父上に捨てられたということ・・・
「故に、松姫さまはもう織田の人間です。私たちにとっては、『隣国の嫡男奇妙の妻、松姫を預かる』という形になっております」
全てに裏切られたような気持ちがしました。周り全てが信じられなくなり、今朝私に頭を下げた兵卒も、庭を飛び横切った雀も、みな私をあざ笑っているように思えました。
知らず知らずのうちに涙が流れてきます。お百合から告げられた事実は、十も満たない者にとっては重すぎたのです。
私は、父上に捨てられた・・・ただそのことだけで頭がいっぱいで、とても悲しい気持ちになって、涙を止めることができなくなりました。
ただ、お百合が私を抱いて
「どうか、お泣きになってください。松姫さまはお一人ではありません。お百合が胸を貸しますから・・・でも、いつかは奇妙さまの胸で・・・」
お百合の嗚咽が耳元で聞こえ、彼女の涙が私の肌を滑り落ちていきます。
薄暗い部屋の中、おなご2人で延々と泣き続けたのでした。
私は涙を拭き取った後、奇妙様へ文を書きました。
奇妙様からの文にて初めて知らされました。
真実を知ってから、人には言えずながら不安になります。
奇妙様は、こんな私を支えてくださいますか?
私の周りには、お百合を除いては頼るべき人などいませんでした。誰の前でも泣いてはいけない。大名の娘として凛と立っていなさい。・・・でも、私は幼くて泣けぬのはつらいことです・・・ただ、奇妙様なら私を察してくれると思い手紙を書いたのです。
奇妙様の返事は、短く。
それがしは、全てを振っても松殿をお守り致します。
この文が、この一文がどれほど私を救ってくれたでしょうか・・・真夜中に私は一人でこの文を読みながら、奇妙様からの文を幾度も幾度も涙で濡らしてしまいました。こんなに、こんなに大事な文だというのに
行灯の灯りをすぐにつけ、私は筆を取りました。
松は、奇妙さまを愛しています。
ただそれだけを文にしたためます。
まだ幼きことと笑うかもしれませんが、私は奇妙様を好いていたのです。死ぬまでお慕い申し上げたいと思いました。
私はこのとき知ったのです。これが恋ということを。
幼い友情の中から、
その恋心を自覚し始めて・・・