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二つめ 諏訪



 初めて奇妙様へ文を書いたあの日から、一年。私はいつも奇妙様との文通に心を躍らせていました。


 日々の時間の中でも、今日はこのことを奇妙様へお伝えしよう。奇妙様なら、どう思うのでしょう?そんなことを常に考えながら過ごしていたのです。


 連歌交じりのお遊びも、時折したためることもありました。


 私が



   雪どけに もう梅香る季節なり



と書くと、奇妙様は



  心なしにか 寒さも和らぎ



 私の歌に寄り添うような、優しい返しをいただきました。


 もうはたから見れば惚気話でしょうか? けれども、私は純粋に奇妙様との文通が楽しくて仕方ありませんでした。恋は露知らずとも、文が届くのをいつも楽しみにしていたのです。


 ですが、今思えばそれは無知ゆえの幸せだったのかもしれません。


 八つのときに、私は真実を知りました。


 奇妙様のこと、私のこと。そして、二人の婚約のこと。


 きっかけは、諏訪(すわ)の兄様でした・・・






 秋の甲斐の山々の素晴らしさを、ご存知でしょうか?本当に、本当に綺麗なのです。どれだけ言葉を書いても、その美しさを表せないのが悔しいほど、綺麗なのです。


 山が朱に染まり、黄金に光り、見渡す限りが橙の光景は、いつ見てもため息が出るのですよ。それに夕暮れや朝焼けの射光が加われば、それはもう・・・


 稲刈り後を、仏様が祝福なさって下さっていると、私はそう思います。


 つつじの館は、他のお城とは変わっていて、高い石垣も大きな水堀もありません。ただ、町の中央に私たちの住む御殿があるばかりです。


『人は城、人は石垣、人は堀』


 昔、父上が好んで口にした言葉でした。いざというとき、自らを守ってくれるのは親しい者であり、人との繋がりであると。大事なのは民百姓と同じ目線で生きていくことであり、大きなお城は必要ないのだと。


 父上がそのような方ですから、姫の私が町に出ても、町の人は快く私を受け入れてくださいます。


「姫様、外で遊ぶのですか?気をつけてくださいね!」


「暗くなる前に、お帰りにならないと駄目ですよ!」


 まるで町中がお百合になったように小言を言われると少しうんざりしますが、気兼ねなく声をかけられることが私は嬉しく、いつも大声で「行ってきます!」と応えていました。


 秋のつつじは年貢の納め時と重なって、さらに賑わいが増すのです。


 そんな町の中を、私はお百合と菊姫を連れ添って駆け出していました。


「ほらっ、早く栗拾いに行きましょう!」


 私が急かすと、菊姫は「栗拾い!栗拾い!」とはしゃぎながら付いて来て、その後ろをお百合が心配そうに付いて来ます。


 私は野山に栗を拾いに行くことを、楽しみにしておりました。


 子供のようだなんて笑わないでください。秋の山は栗以外にも柿、山葡萄、茸など美味しいものがたくさんあるのです。それらを採りに行って食膳を彩るのも、女子供の大事な仕事なのです。


 決して自分が栗を食べたいだけだなんて、そんなことはないのですよ。


 信じてくださいね。



 そうやって町の大路地を進んでいると、十数騎の馬がこちらに向かって進んでいる姿が見えました。


 諏訪の指物を刺して、屈強な武者を率いながら、道の真ん中を堂々と歩いています。


 指物を見た町の人は慌てて道を譲り、路肩にしゃがんで頭を下げては、武者たちが通り過ぎるのをじっと待っているのです。


 その、先頭で馬に乗った若武者を、私は存じておりました。


 諏訪四郎勝頼すわしろうかつより。年は二十二の、名門「諏訪」の家を継がれた私の腹違いの兄です。政略にも武略にも優れた、父上の後継者でした。


 私や菊姫、五郎兄様といっためかけの子とは違い、父上の寵愛を受けた諏訪の姫君から生まれた諏訪の兄様は、家中でも兄弟の中でも別格の人でした。生まれや後継者であること、そして寡黙な態度が合わさって、名前の四郎ではなく『諏訪の兄上』『諏訪の殿様』と呼ばれ、恐れられている方でした。


 正直に申しますと、私は諏訪の兄様のことが苦手でした。私が妾の子ということもありますが、その高圧的な振る舞いが、あまり好きになれなかったのです。


 『人は城』と言われるつつじの町で、このように町の人に頭を下げさせている。まるでつつじを攻め取りに来た大将みたいではありませんか。


 私が顔をしかめると、菊姫は怯えるように私の背中に隠れ、お百合が不安そうに「松姫さまっ!」と声をかけます。


 やがて、騎馬の一団が私の目前まで迫って来ました。私たちだけ道を開けないものですから、馬の足が止まります。


「・・・松と、菊か」


 馬上から冷たい声が響きます。諏訪の兄様は背が高く、眼光も鋭くて、上から見下ろされると睨まれているように見えました。


 歴戦の武者とは一見思えないような華奢な身体つきと、端正なお顔をしていますが、真の激しい気性が瞳には滲み出ていました。


「諏訪の、兄様・・・お久しゅうございます・・・」


 菊姫は私の背中に隠れたまま、恐る恐る小声の挨拶を行いました。ですが、私は何も言わずじっと諏訪の兄様を見つめるだけです。


「す、諏訪さま!登城の邪魔をして申し訳ございません!松姫さまにはきちんと忠言なさいますので!」


 お百合は兄様の鋭い眼光に慌てて、何度も頭を下げていました。


 お百合は無理矢理私をどかそうとするのですが、私は諏訪の兄様に道を譲ることが気に食わなくて、兄様を見つめる視線を反らさずに、立ち続けていました。


 なんですか。父上の後継が決まっているからといって、偉そうに。


「・・・松、邪魔だ」


「私たちは、今から栗拾いに行くのです。邪魔だと言うなら、避けて通ればよいではないですか」


 なぜ、わざわざ諏訪の兄様に頭を下げなければならないのです。


 私たちは何も悪いことも、諏訪の兄様に対して自分を卑下するようなこともしていないのに。


「町の者も、どうして頭を下げて諏訪の兄様が通るまで待たなければいけないのですか」


 子供心の、怖さ知らずの、小さな反抗でした。


 それに対して、諏訪の兄様は顔色一つ変えませんでした。冷たい視線が、私の全身に刺さります。負けじと私も睨み返すのですが、本当は怖くて、でも視線を反らすと立っていられないような気がして。


 諏訪の兄様が、静かにまぶたを閉じました。そのまま呆れたようにため息をつくと、それからはまるで私などないように、馬の進め始めたのでした。


 一言だけ、一言だけ言葉を残して。


「武田の者でもないくせに、口を出すな」



 えっ・・・



 私は、諏訪の兄様がおっしゃったことが全く理解できませんでした。


 ただ、呆然としてしまって、動けない私の横を騎馬が次々と通り過ぎていきます。本当に、私がいなくなったみたいに。


 武田の者ではないとは、どういうことでしょう・・・


 私は、確かに武田の姫君です。武田信玄の娘です。


 なのに、予想もしなかった諏訪の兄様の言葉が、私の心に穴を空け、虚無感が広がるばかりでした。


 私は、武田信玄の娘です。


 絶対、父上の娘です。


 それは確かなのに、どうしてこんなにも不安なのでしょう。


 自信が無いような、そんな気持ちになるのでしょう・・・



 諏訪の兄様の一団が通り過ぎ、大路地で頭を下げていた人たちが歩き始めても、私はそのことが頭の隅々まで回り続け、動けないでいたのです。

武田勝頼兄さんが登場しました。

冷淡な異母兄弟として、当面は松姫さまの敵役となるお兄さんです。


後に家督を継いだ後、信長に負けて『弱い武将』扱いされる彼ですが、自分の中では結構高評価なんですよね、勝頼は。

ただ、当主(政治家)としての能力が低かっただけで(笑)。一軍を率いる武将としては、かなりの実力があったと思ってます。



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