余りめ 尼僧
奇妙様。
貴方様がいなくなっても、歲月は過ぎ去っていきます。
朝が来て、夜が更け、また朝になる。
それは、無残なほどに変わらない。誰が死のうと、世がどのように変わろうと、何人たりとも犯すことはできやしない。
まるで、人の世の無力さを表しているようで。
奇妙様が生きていようとお亡くなりになろうと、時の流れは微塵も揺るがない。
まるで端から、『織田奇妙丸』というお方はこの世に存在していなかったのだと、そう神仏から言われているようで。
だって、私は奇妙様とお会いしたことがありません。
そのお顔も、お声も、何一つ存じ上げないのです。
けれど。
確かに、私の手元には奇妙様から頂いた文があるのです。
好いたお方から賜った、言葉があるのです。
家を出て、国を追われ、流浪の身になってでも手放さなかった奇妙様から頂いた文。
もう一度、貴方を妻として娶りたい
奇妙様から、頂いた言葉。
紛れもないものが、ここにあるから。
私は、奇妙様がこの世にいたのだと今でも強く実感出来るのです。
今でも奇妙様のことを、強く、強く、お慕い出来るのです。
何年経とうとも、微塵も揺るがずに貴方様を“恋”をしているのです。
私たちが八王子に流れ着いて、居を構えて、八年もの時が流れていました。
奇妙様がお亡くなりになられてから、もう八年も経つのですよ。
もう私も、すっかり三十路になってしまって。
奇妙様の一周忌を待って、私とお百合は髪を剃り仏門へと入りました。お世話になったのは、『心源院』という古くからこの八王子の地に根付いている由緒あるお寺です。
父の、兄様たちの、そして奇妙様の菩提をどうか、自らの手で弔いたい。
私はようやく、そのような考えを持つことが出来るようになっていました。
私は、尼になるのです。
八王子の地に根を張り、終の住処とし。
いつかは自らの寺を持ち、奇妙様の供養に生きるのです……
そう思うと、初めての尼修行にも精進することが出来ました。
この私の精進に繋がるものが、その先に見えるものが、好いたお方の冥福だと思うことが出来たから。
奇妙様は存じないのかもしれません。
恋を知ったおなごは、殿方が思うよりもずっと強いものなのですよ。
初めの頃は、お百合はずっと尼修行に愚痴を零しておりました。
けれど、私は意外と仏門の暮らしにめげることもなくて。むしろ愚痴を零すお百合を叱責する側に回るほどで。
私は生まれてこの方、武家の暮らししか送ったことがありません。甲斐を落ち延びて、民百姓と同じように日銭の暮らし……ましてや仏門の修行など、私には耐えられないのではないか。
お百合はいつもその点を心配しておりました。
けれど。
確かに姫としての暮らししか知らない私には、無知なところがたくさんあります。
それでも、何とかここまで暮らしを繋ぐことが出来ている。
そして、それを楽しく感じているのです。
私はもしかすると、姫よりもこちらの方が性に合っているのかもしれません。
その日も、変わらぬ尼修行が始まります。
日が顔を出す前に起きて、顔を洗います。
朝餉の前に本堂でお経を一読して、飯を炊こうと竈に向かうと思い立ち上がると
「……お百合?」
振り返ると、お百合がじっと立っておりました。
私の経読を、ずっと立ち聞いていたのでしょうか……?
「おはよう、お百合」
「おはようございます、松姫さま」
お百合は眼をこすりながら、私に挨拶をしてくれました。
仏門に入ってからも、私のことを『松姫』と呼びます。
もう、姫などではないのに……ここは、世俗から解脱した場所。以前の身分など不必要なだけで。
この寺には、坊主と尼しかいないのです。みなが寝食を共にして、日々の修行に精進する場。そんな姫呼ばわりされては、角が立ってしまうではありませんか……
前にそのように注意すると
「私はもう何十年も、『松姫さま』とお呼びしてお慕い尽くしているのです。そんな、今更変えることなどできません!!」
などと、逆に言い切られてしまい。
私は相変わらず、口でお百合には勝てないようです……
「お腹が空きましたか、お百合?」
私は冗談交じりに問いかけます。
「待って、今から飯を炊くので。炊場に向かうところなのです」
寺の中には、私たち以外にも和尚様や尼坊主が多くいらっしゃいます。日々みなで同じ屋根の下で暮らしていく中で、炊事洗濯は当番を分けてみなでこなしているのです。
今朝は、私が朝餉を用意する当番でありました。
こんな朝早くから私の下に顔を出すなんて、よっぽどお腹が好いているのかしらお百合は……
そのようなことを思いながら、私はお百合に近づくと。
……お百合の顔は、なんだか曇っていて。
「松姫さま。知らせが、参りました」
重々しく、お百合は口を開きます。
「豊臣の軍勢が、箱根に入ったそうです」
……っ、そうですか、とうとう……
それは、近い時期に舞い込んでくる知らせだと、存じてはいたのですが。
「八王子も、戦になります」
八年ごしにまた、私たちの前に戦乱の影が揺らめいていたのです。
奇妙様がいなくなってから、世はがらりと変わってしまいました。
謀反を企て、奇妙様を討った惟任日向守。
時勢は惟任日向守に傾くかと、思われていました。
けれど、その惟任日向守ですら、世の流れには全くと言っていいほどに抗えずに。
天下に号令をかけようとした矢先、惟任日向守は畿内での戦に敗れ討ち倒されてしまいます。
惟任を討ち果たしたのは、『羽柴筑前』なる男。
織田方の、ご家来衆の一人であらせられました。
惟任との弔い合戦にて奇妙様の敵をとった羽柴様は、すぐさま織田の後継者として、天下に頭角を現していきました。
残された家臣同士で起こった織田家の政争に勝利を果たし、織田の遺領も全てその手中に抑え。
世の流れは、紛れもなく羽柴様へと傾いておりました。
五年ほど前に、羽柴様は天子様より『豊臣』の姓を賜り、関白とならせられました。
天子様に成り代わり、この日ノ本を支配する役職。
惟任日向守を滅ぼし、わずか三年。
名実ともに、天下人へとならせられたのでした。
今や関白様の支配下は織田の遺領のみならず畿内、中国、四国、九州までも、豊臣の軍門に降ったらしく。
かつて父、信玄公がしのぎを削った越後の上杉、三河の徳川も、今や豊臣家のご家来です。
畿内よりほど遠い、この八王子の片田舎にて、私はそのような世の情勢を風のうわさで聞いておりました。
日ノ本の隅々まで、関白様のご威光届かぬ場所はないと。
この八王子を含めた、北条の治める関東の地を除いては。
北条と豊臣が戦となり、この関東に豊臣の大軍勢が攻めてくるとは、前々から噂が流れておりました。
天下を手中に収めた関白様が関東を、北条を、残しておくはずがない。
日ノ本中の武者が、この関東に押し寄せてくる……
ここ一年ほどは、そのような緊迫した雰囲気がこの八王子にも流れておりました。
八王子にも、『八王子城』という北条方の支城があります。
この地も、戦に巻き込まれるのではないか。と……
豊臣との戦にて、北条方が取った策は籠城でした。
関東には、難攻不落と名を馳せた北条本家の居城、『小田原城』と各地に堅牢な支城があります。
大量の兵糧と共に一年でも二年でも城に籠もり、敵が兵糧不足で疲弊するまで戦を長引かせる……堅牢なお城をご領地に持った北条は、そのような籠城戦がお得意でございます。
かつてはかの上杉謙信公も、そして我が父・信玄入道も、北条の籠城策に手を焼き兵を退いた過去があります。
此度の戦もそのようにして乗り切るのだと、北条に仕えるお侍様方は実に忙しそうに籠城の支度をしておりました。
私たちは、浮世を解脱した身。
寺院は、世の争いに一切関与しないことが、倣いとされています。
北条、豊臣、どちらにも与する意思はないこと。どちらの軍勢にも協力せず、ただ死者の祈祷にこの身を尽くすだけの、無力な寺院なのだと。
立て札を立て、山門を開き、心源院の者は中立の姿勢をとって戦に臨んでおりました。
心源院は古くからこの八王子に根付く名刹です。
北条も、豊臣も、門を開き中立を表明した仏門の坊主尼僧に、とやかく口を出すようなことはないでしょう。この寺に軍勢を差し向けたり、略奪に攻め寄せたり、そのような神仏恐れぬ愚かな行いはきっと取らないはずです。
豊臣の軍勢が来る前に籠城の支度を終わらせてしまおうと、八王子城には次々と在地の武者や百姓が、城の中へと入っていきます。
戦の前の重苦しく慌ただしい雰囲気がこの八王子を飲み込む中で、この心源院だけがどこか蚊帳の外、ただただ静かな時だけが流れておりました。
六月、ついに豊臣の軍勢がこの八王子の地に足を踏み入れました。
豊臣配下の前田勢、上杉勢を主としたその軍勢は、ゆうに万を越す大軍……噂では、一万五千もの兵を引き連れたとも言われ、まさに『天下の軍』に恥じない圧倒的な兵力で、すぐさま陣を敷き八王子城を取り囲んだのです。
対する、八王子に籠もる者達は……私の見立てでは、きっと三千ほど。
その、なんだかどこかで聞いたような数。
まるで、高遠での戦を彷彿とさせるようで……
あの時も万を越す奇妙様の大軍に、五郎兄様は三千の兵力で立ち向かったのです。
思い出したくもない。
けれど忘れてはならない、あの戦。
今でもあの戦場での夕日の赤を、血の赤を、はっきりと思い出します。
思い出すだけで身体が震えるほど、今でも怖い……
胸がざわつくことに、私はひっそりと耐え忍んで。
幸いなことに、此度私はあの城の中にいる訳ではないのですから。
武者に斬り殺されることに、怯える必要はないのですから。
だから、せめて。
尼僧として、この戦で死んだ御霊を私達がしっかりと供養して差し上げなければ……
もう私は、ただ怯え逃げるだけの無力な武家の姫ではないのですから。
そのような想いを胸に抱えながら、戦の様子を固唾を呑んで見守っていると。
「っ、大変です松姫さまっ!!」
その日は、なんだかお寺の中が騒がしくて。
お百合を捕まえて問いただしてみると、お百合は血相を変えてまくし立てるように答えます。
「豊臣の軍勢が、この寺に攻めてきたのですっ!!」
えっ……!?
寝耳に水の話でした。
山門を開き、この心源院は中立の立場を表明したというのに。
これでこの寺に兵を差し向けられることはないと、安堵していたというのに。
どういう、ことなのですか……っ!?
「まことのっ、話なのですかお百合っ!?」
「はいっ、この寺の周りを、百人ほどの武者が囲んでいるようで……その中には、桐の紋の旗指し物が……っ!!」
桐の紋は、確かに豊臣家の家紋でございました。
すでに兵に寺を囲まれている。ということは、もう逃げることすらきっと出来ません。
寺の中には、年老いた坊主やか弱い尼僧しかおりません。豊臣の武者に攻め寄せられても、何ひとつ抗う術すら持っていない寺です。
……っ、どう……しましょう……っ!!
文字通り八方塞がりな状況に何ひとつ良い案も思い浮かばなかった、その時でした。
「お頼み申すっ!!」
寺の外から、豊臣の武者が大声で叫んだのです。
その、予想だにしない名と共に。
「松姫様は、おられるかっ!?」
……えっ?
……私?
何故か呼ばれた自らの名に、私は訳がわかりませんでした。
隣では、私と同じようにお百合もきょとんと首を傾げていて。
どうして豊臣の武者が、私の名を……?
豊臣には、私の知古もいなければ縁もないのに……?
私は不思議に思いながらも、お百合と共に山門に向かいました。
豊臣の軍勢の前に姿を見せるのは少し怖かったのですが、何故か向こうは松姫がこの寺にいることを存じ上げているようだったので。
姿を見せずに相手の機嫌を損ね、他の坊主尼僧に迷惑をかける訳にはいきません。
そう覚悟を決め、山門に姿を現してみると、
「……っ、松姫様!!」
想像もつかなかった御方が、そこにはいらしたのです。
私も、お百合も驚いて声も出ませんでした。まさか、本当にまたお会い出来るだなんて……
私達を見つけて、相手方がはっと明るい笑顔をこちらに向けます。私も、お百合も、同じように強張っていた顔が緩んで……
背も伸び、身体つきも変わり、もう立派な武士の風体の……でも、全く変わらないそのお顔。その面影。
「お久しゅうございます松姫様っ!!」
かつて我が武田の家に、そして私に、忠義を尽くしてくださったその御方。
「……っ、源次郎様っ!!」
信州上田の真田源次郎様が、そこにいらしたのです。




