七つめ 恋文
本日6月21日は本能寺の変が起きた日。この日に七つめのお話を投稿できるなんて・・・奇跡・・・
私はきっと、死ぬまでこの天正十年という年を忘れることはないでしょう。
私は今でもこの天正十年という年に心を置いたままで、どれほど年を重ねても私はあの頃に囚われたままでおります。
それほど、記憶から拭えない出来事があの頃には多すぎて。
様々なものを私は天正十年という年に失いました。
甲斐の国、姫という身分、家、高遠の地、家族・・・大切な人。失ったものを数え始めるときりがなくて。
国を捨て家を捨て、お百合と二人きりで生きていくことになるとはあの頃の私は夢にも思っておりませんでした。
でも、哀しいことばかりではなかった。
私は天正十年に、今一度奇妙様と関わることが出来ました。
この想いをもう一度伝えようとすることが出来ました。
ですから私は苦しいことも嬉しいこともまとめて飲み干して、自信を持って言うことが出来るのです。
再び奇妙様の歩む道に交わることが出来た天正十年を、私は決して忘れることはないでしょうと。
武田が滅んで、三月の時が絶ちました。
私は武蔵の国の八王子へと身を寄せて、北条に下った武田の遺臣の方々のお世話になりながら細々と暮らしておりました。
もはや姫でもないというのに、遺臣の方々は本当に私達に優しくしていただいて。萱葺きの家を私達のためにあてていただき、私はお百合と二人、その家で細々と暮らしておりました。
貧しくもありましたし、姫としての暮らししか知らなかった私にとっては慣れないことばかりでした。
お百合は私がこのような暮らしに耐えられるのかといつもはらはらしておりましたが、私は反対にその初めてのことに満ち溢れた八王子での暮らしがとても楽しかったのです。
初めての畑仕事。
初めての炊事。
昼間は懸命に働き、夜が更けるとわびさびな萱葺き屋根の真下で月を見ながらお百合と二人で歌詠み会。
そんな貧しくて、のどかで、素朴な毎日が私にとっては新鮮で輝いていたのです。
あのお方が、私達の前に現れるまでは。
こんこん、と戸を叩く音がしてお百合が「はい」と戸を開けに向かいました。
私はちょうど筆を手に歌をひねっていた最中で、どなたでしょうか・・・と思いながら筆を一旦置いて居住まいを正します。
村の方でしょうか・・・
心優しい八王子の人達は、よく畑で取れた野菜や山で採った山菜を私の下へ届けてくれるのです。
「突然の訪問、御免つかまつる」
けれど、戸を開けて現れた方は初めてお目に入れるお方でした。
年は私と同じくらいでしょうか・・・顔立ちが良く凛とした声がよく通る、そんな殿方でした。軽装で、立派な木綿の紋付を羽織ってらっしゃいます。
いったいどちらのお方でしょう・・・首をかしげた瞬間、紋付に描かれた家紋に目を奪われて。
「えっ・・・」
思わず声を出して驚いてしまいます。
信じられなくて、どうしてこんな所にこんなお方がいるのだと私はその気持ちを顔に出さずにはいられませんでした。
殿方の羽織に描かれた、木瓜紋。
「それがし織田家中侍大将、坂井越中守と申します。武田信玄公の御息女、松姫様とお見受け致しますが間違いなかろうか?」
織田の紋付を着た坂井様は、しっかりと私を見てそうお尋ねになられたのです。
私は、素直に怖いと思ってしまいました。
どうして今さら、織田の使者が私のところに参られるのか・・・
天下の織田家が身分も全て失った亡国の姫に何の用があるのか・・・
もしかすると織田は武田を滅ぼすだけでなく、一族みなを探し出して皆殺しにするつもりなのでしょうか・・・
坂井様を居間に上げ粗茶を用意しながら、不安でいっぱいな気持ちを私は隠せずにいました。
お百合も、心配そうに私の顔を伺っておりました。
けれど、お茶を用意して坂井様に差し出した時、目に入った木瓜紋に幼い頃のことがふと頭をよぎって・・・
奇妙様からいただいた文には、いつもこの紋が押されてあったこと。
そうです・・・このお方は、織田の人。
奇妙様の、ご家来・・・
私が夢見た、心の底から嫁ぎたかった家の人・・・
「此度は、我が主織田左近衛中将の使いとして参った次第。松姫様にとっては、織田奇妙丸様と言ったほうが馴染み深いでしょうが」
坂井様は受け取られたお茶を口にすると、すぐに居住まいを正して私に深々と平伏なさいます。
「主より、松姫様へ宛てた文をお預かりしております。どうか、お受け取り下さい」
「えっ・・・」
奇妙様からの、文・・・
心音が、どくどくと高鳴ります。
差し出される文に、私はますます動悸が激しくなるのを止めることが出来ませんでした。
まさか・・・何故ですか・・・
何故、今さら・・・今さら・・・文など寄越すのですか・・・
もう、終わった恋路だというのに・・・
奇妙様と交わった昔の文のやり取りを。
婚約が潰えて哀しい想いを味わったあの頃を。
昔のことが私の頭の中を駆け回ります。嬉しかったこと、つらかったこと。どちらも全て、奇妙様をお慕いしていたから感じたもので・・・
私は無心に、手紙に手を伸ばしていました。
奇妙様の文には二重の包みがされていて、包みの表には
恋文
と包みの中央に記されておりました。
その字は、童の頃から何度も何度もこの目に写しました。決して間違えることはないでしょう・・・
「っ・・・なんて、懐かしい・・・」
確かに、奇妙様の字でございました。
最初の包みを開けると
雪どけに もう梅香る季節なり
心なしにか 寒さ和らぎ
これは・・・
高遠から逃げ出す折に、奇妙様に宛てて送った歌・・・
あの文のお返事ということでしょうか・・・
そして、その包みも取ると、中に入っていた文にはただ、一言。
もう一度、貴方を妻として娶りたい
「そ、んな・・・どうして・・・」
どうしてですか奇妙様・・・すでに潰えた婚約なのに・・・
私はもう武田の姫ですらないのに・・・
奇妙様の妻などと、とうの昔に諦めていたのに・・・
どうして、そんなことを私に仰るのですか・・・
そんな、嬉しいことを・・・幸せなことを・・・
はらはらと涙が瞳から零れて。
涙が止まりませんでした。
七つのあのときのように。奇妙様から『お守り致します』と文を受け取り、恋心を初めて知ったあの夜のように。また、奇妙からの大事な文を濡らしてしまったのです。何年も望んでいた、大事な文だというのに。
「主は、今でも松姫様を好いておりまする。高遠での戦の折、主は松姫様に会うために近くの神社をしらみつぶしに探しておられたのです。『松殿の城を攻めたくはない』と最後までお悩みになられてもおりました」
本当、ですか・・・奇妙様はあの時、私のために・・・
「今も昔も、ずっと主は正室を置くことを断っているのです。『自分の妻となる人は、松殿だけだ』と、武田と手切れになってもずっと・・・ですから、どうか」
坂井様は、真摯な態度で頭を下げて
「織田の屋敷に来ていただけは下さいませんか」
「松姫さま!」
お百合が嬉しそうに歓喜の声を出します。
けれども私はお百合のことを気にする余裕もなくて、奇妙様の文に綴られた想いを受け止めるだけでいっぱいいっぱいで。
本当に涙が止まらなくて、童みたいに私は目を紅くして、顔をくしゃくしゃにして泣いて・・・
幼い頃からお百合に止められていたというのに。
目の前に、坂井様がいらっしゃるのに。
それでも、溢れるこの嬉しさを、幸せを、私は涙で表すことしか出来なくて。
「そんなこと・・・そんなことがあるなんて・・・」
今まで色々なことがあって、父上と別れて、兄様達と別れて、奇妙さまと別れて・・・それでも・・・
「こんな私で・・・いいのですか?」
やっと、奇妙様と会うことが出来る。
やっと、奇妙さまと結ばれる。
その日、坂井様はまたすぐに迎えに来ると言って、お帰りになられました。
次来るときまでに、屋敷に移る支度をしてほしいと。
私はすぐに村の遺臣達に相談して、奇妙様に嫁ぐ準備を始めました。
中には「妻子のある奇妙殿に嫁ぐべきではない」と言う方もいましたが、そんなこと、どうでもいいのです。
妾がいるにしろ、奇妙様が『妻として娶りたい』と言っていただけました。
ただ、それだけで私は有り余るほど嬉しいのです。
今までいくつもつらいことがあって、それでも、有り余るほど嬉しいのです。
ですから私は、奇妙様の下へ行くことに迷いはありませんでした。
この想いを、添い遂げられるのだから。
きっと、私は、それだけで幸せ者です。
奇妙様。
すぐに、貴方様の下へ向かいます。
ようやく、貴方様のお顔を拝見することが出来ます。
貴方様の声をお聞きすることが出来ます。
不思議な心地です。私は貴方様のお顔も声も存じ上げないのに、貴方様がどういうお方か全てわかっているのです。何度も、文を交し合っていたから。
きっと、奇妙様もそうでしょう?
貴方様と夫婦になることをずっと夢見ておりました。
綺麗な白無垢を着た私と、旦那様になる奇妙様と。それはそれは盛大で素敵な祝言で。
幼い頃から今までずっと憧れた、大きな夢です。
ですが、今はもっと大事な夢があるのです。
祝言よりも、白無垢よりも、大事なもの。
貴方様の前で、一番の笑みをお見せして。
「愛しております」とちゃんとお伝えすること。
それが今の私の夢でございます。
その数日のち、私に文が届きました。それは、奇妙様の訃報を知らせる文でした。
成就する想い。
敵となり、家も滅び、それでも途絶えることはなかった松姫さまと奇妙の恋路。
そしてとうとう、天正10年6月2日。その日が訪れます。
『恋文』、次のお話で最終話になります。
松姫さまの一生を追いかけたこのお話、その【行方】を綴ります。




