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六つめ 惜別



 夜が明けても轟々と燃え盛る新府のお城に背を向けて。


 私とお百合は源次郎様と共に山野をひたすら上り下りを繰り返して。



 敵に見つからないようあえて普段使われていないような山道を通り、何とか織田の軍勢から逃がそうと源次郎様は案内を買っていただいておりました。


 けれどその分、道の状態は悪いもので。


 ぬかるみ、また大きな石がむき出しの道を歩くだけでも大変で。


「あっ・・・!!」


 足がもつれて、つい転んでしまいます。


 私の足袋はすぐに破けてしまって、どこかで擦り剥いたのか血で滲んでおりました。


 そんな私に、お百合と源次郎様は心配そうに声をかけられて。


「松姫様、その足は・・・」


「大丈夫です、問題ありません。それよりも先を急ぎましょう。歩みを止めてはなりませぬ」


 私は気丈に振る舞い、ゆっくりと立ち上がりました。


 歩みは、決して止められない。


 進まなければ。東へ。東へ。








「お前は逃げろ」


 諏訪の兄様が、当主らしい威厳に満ちた声で私に仰った言葉。


 私は、背筋が伸びる思いで凛とその言葉を聞いておりました。


「これ以上お前が織田と戦う必要はない」


 逃げろ。


 この新府で過ごしている間も、いつかは諏訪の兄様からそう言われるのではないかと思っておりました。


 織田と戦になれば居候である私は邪魔にしかなりませんし、そして何より、諏訪の兄様は私と同じなのだと知っています。


 同じ、織田の者を愛した者同士。


 諏訪の兄様は、私に遠山の方様を重ねておられるから。


 きっと、諏訪の兄様ならそう仰ると。



 だから、私はうろたえずにどんと構えて


「それは、武田当主としての下知と受け取ってよろしいですか」


「ああ。御屋形としての命だ」


 初めて、諏訪の兄様とお心が通じ合った気が致しました。


 幼い頃よりいがみ合ってきたというのに、それはとても不思議な心持ちで。


 きっと、北の方様のお陰なのだと思います。


 その冷たい言葉に、どのような想いが込められているのか。


 私にも少し、わかったような気がして。


 ですから、その想いを受け取るために私は精一杯胸を張って微笑んで。


「かしこまりました。『四郎』兄様の、命のままに」


 悪戯心半分に私は兄様をお名前で呼ぶと、兄様は随分と驚いた顔をされました。


 そして何よりも、自然とお名前を呼べたことに私自身も驚いて。


 生まれて初めて、四郎兄様に笑顔をお見せしたことも。四郎兄様とお話してこんな穏やかな心持ちでいられることも。


 四郎兄様は、私の友が好いたお方ですから。


 私も、四郎兄様のことを信じていたいと思ったのです。


「織田のことを含めお前にはつらい思いをさせたこと、悪く思っている」


殊勝(しゅしょう)なお言葉は四郎兄様には似合いませぬ。私の事よりも、北の方様のことをよろしくお願い致します。私の、大切な友人なのです」


「あぁ、任せろ。松も、達者で暮らせ」


「四郎兄様も、ご武運をお祈りしております。北の方様もご健勝で」


 四郎兄様の側に控えている北の方様は突然ぐっと私の身体を抱きしめました。北の方様の髪から甘い香の匂いが漂ってきて。


 私も、北の方様を抱き返します。


「松さまと友になれて、わたしは幸せ者です。きっと松さまがいなければ私は四郎さまと想いを遂げることは出来なかった」


「私も、北の方様と過ごした時は誠に楽しいものでございました」


「また、松さまとお会いしたい。いつか、必ず」


「はい、必ず。その時はまた歌詠みに誘って下さい」


 戦の最中では難しいことだとはわかっています。


 けれど、いつかこの戦が終わった時。その時はまた・・・



 そんな、心がとろける様な願いを夢見て、私は新府城を後に致しました。









 奇妙様。


 人の縁とは、本当に不思議なものですね。新府での出来事で、私は強くそう思いました。


 私は、ずっと貴方様とお会いしたかった。今でも、貴方様に会いたくて、逢いたくて、仕方ありません。


 婚約が解消されて、もう奇妙様とお会いすることは出来ないと思っていました。


 ところが今、貴方様は敵の大将としてこの甲斐におられる。


 奇妙様がいらっしゃるとわかっているのに、私は高遠でも、新府でも、貴方様から離れるように逃げてばかりです。



 奇妙様にお会いしたい。



 その気持ちは変わりません。今も、燻り続けております。


 けれど、もはや私自身は私だけのものではないのですから。


 お百合や、五郎兄様、菊姫、四郎兄様、北の方様、麟虎様・・・


 たくさんの方の想いの上に、私は生かされております。みな、私のために戦ってくれました。


 その想いに応えたいのです。無碍(むげ)になど出来るはずがないのです。



 だから、私も戦います。『生きる』ということから。


 最後まで、武田の姫として気高く。



 私の周りの、たくさんの大切な人のために。


 私自身のために。



 そして、奇妙様。


 貴方様のために。






 そのような決意を何度も何度も噛み締めながら、私は東へ歩み続けておりました。


 そして一刻ほど経った頃でしょうか。道が二手に分かれていて


「ここでお別れですね、源次郎様。上田にお戻りになるのでしょう?」


 私は柔らかな声で、源次郎様にお尋ねしました。


 「はい・・・」と源次郎様は弱々しくお答えになります。


「・・・それとも、四郎兄様の下へお戻りになりますか?」


 私が(さと)すようにお尋ねすると、源次郎様は大きく首を振りました。


「それだけは出来ませぬ。それがしは、松姫様の守役です。その役を捨てて戻ることなど、忠義に反します・・・」


 源次郎様も、迷っておられるのだと思いました。


 幼いながらも源次郎様は武士です。四郎兄様の下で戦って死にたいと思っておられることでしょう。


 でも、どうして四郎兄様が源次郎様を私に同行させたのか。


 その理由も源次郎様はわかりすぎるほどわかってらっしゃるから、迷ってらっしゃる。



 源次郎様は、立派な武士です。でも、まだまだ幼い。


 有望な勇士を殺したくない四郎兄様のお心が、実際に目の前でお悩みになっていらっしゃる源次郎様を見いて私にも伝わってきました。



 ですから、私は源次郎様に優しく微笑んで


「ありがとう、ございます」


 突然感謝の言葉を述べる私を、源次郎様は呆然と見つめておりました。


 そのような源次郎様のお姿が、どこか可愛らしくて。


「武田に尽くしてくれて、ありがとう。私達を守ってくれて、ありがとう」


 源次郎様は、私を守ってくれました。


 源次郎様が側に仕えていなければ、たった二人で新府に逃げてきた私達はどれほど心細かったでしょう。


 源次郎様がいてくれてどれほど頼もしかったか。


 きちんと、守役の務めを果たされたのです。


 だから、



「真田源次郎。武田の姫として、貴方に感謝の言葉を述べます」


 源次郎様、貴方様は武田にとって誠、忠義の士でございました。


 私が伝えたい言葉を笑みに乗せて、私はもう一度「ありがとう」と言いました。



 すっと源次郎様の頬に、涙の線が引かれます。


 それにはっと気づくと、源次郎様は慌てて頬を擦って


「・・・っ、松姫様。それがしと共に、上田にいらして下さい」


 えっ・・・


 凛とした表情で、源次郎様は確かにそう仰いました。


 淀みない視線でじっと私を見つめるものですから、その言葉も冗談のようには聞こえなくて。


「源次郎様・・・本気なのですか・・・」


 お百合も突然のことに驚いてつい言葉を挟んでしまって。


 私も、源次郎様からそのようなお言葉を告げられるなどと思っていなくて、心底驚いております。下手をすれば、求婚ともとれるそのお言葉を。



「恐れ多いこととはわかっております!!ですがっ・・・このまま松姫様を甲斐の山奥で見送るなんて・・・それがしが命に代えても一生松姫様をお守りします!!だからっ!!」


 言葉に迷いながらたどたどしく、ですが強く、源次郎様は自分のお心を口にしておりました。


 とても一生懸命に。そのお姿が、とても愛らしくて。私の心を強く揺さぶって。



 精一杯の、一世一代の告白です。それも、仕えるべき姫に。


 それが、どれほどの覚悟がいることか。どれほどの決意があることか。


 それでも、口にせずにはいられないほど源次郎様の中には激情が溢れているのでしょう。



 ですから私もきちんと、本気で受け止めないといけないと決意したのです。


「ごめんなさい」


 凛とした声で、源次郎様にきちんと伝わるよう私ははっきりとした声で言いました。


「好いているお方がいるのです」


 それ以上は、私は何も申しませんでした。


 ですが、私の胸の内はきっとわかっていただけたはずです。



 源次郎様の申し出は本当に、本当に嬉しかったのです。


 身一つで流浪の身になってしまった私に、そのような言葉をかけていただけることが、とても幸福なことだとわかっております。



 それでも、私は・・・



 奇妙様のことを想い忍ばずにはいられない。


 どうしてもこの心情に、嘘をつくことは出来なかったのです。



 例えお会いすることが出来なくとも。この想いが叶う日が来なくとも。


 せめて、奇妙様の想いに殉じていたい・・・




「・・・それがしは、強い武者になります」


 (こぶし)をにぎり、源次郎様は悔しそうに呟きました。


「日の本で一番の武者になりますっ!!いつか、必ず!!松姫様をお守りすることが出来るほどの、武士にっ!!」


 真っ直ぐ私から目を反らさずに、源次郎様は大きな声でそう仰いました。その視線や言葉から感じる熱量が、とても大きくて。


 若武者らしい力強い宣言に、私は何だか嬉しい気持ちになりました。



 やはり、源次郎様はとても有望なお方です。


 私が、その邪魔をしてはいけない。



「その日を、楽しみにしております」


 いつか訪れる、源次郎様が日の本一の武士になった日を。


 その時にきっと、またお会い出来たら・・・


 私は源次郎様に一礼をして振り返ると、また歩き始めました。源次郎様には決して振り返らずに。


 お百合が後ろからついてくる足音が聞こえます。でも、源次郎様の足音は聞こえませんでした。



 ・・・お別れです、源次郎様。



 きっと、源次郎様は私の姿が見えなくなるまで見送って下さっていることでしょう。


 ですから私も、凛と背を伸ばしてお応えしないと。



 この惜別が、いつかの幸福に続くと信じて。







 その後甲斐の国がどうなったのかは、国を出た私はあまり詳しく存じ上げません。


 ただ、武田が滅びて四郎兄様がお亡くなりになったことは人伝いの噂で耳に致しました。


 岩村城へ向かう最中、ご家来の裏切りにより天目山に追い込まれ、織田との最後の戦の後に自害されたと。



 そのお話をお聞きした時はもちろん哀しかったのですが、私は不思議と泣き崩れるようなことはありませんでした。



 四郎兄様は最期まで武田の家のために戦い、果てられたのだと感じることが出来たからだと思います。その愚直で真っ直ぐな生き様が、四郎兄様らしいと思いました。


 そして何よりも、死ぬ最期まで四郎兄様の側には北の方様がいらっしゃったとお聞きしたから。


 北の方様は、生涯をかけて四郎兄様を愛し、その愛に殉じられたのだと。


 そのことが、哀しみを打ち消すほど素敵で。



   黒髪の乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる玉の露の緒



 北の方様は死ぬ間際にこの歌を詠まれたそうです。



 髪が乱れるように果てしなく世も乱れ、貴方を想う私の命も露のように儚く消えてしまうのです。


 素直に受け止めれば、北の方様の絶望感に私まで押し潰されそうな哀しい歌だと思います。 


 けれど、私は知っています。『黒髪』は恋心の象徴、そして『黒髪の乱れ』は情事を示していること。


 ですから私は、この歌に込められた北の方様の本当の心情に嬉しくなったのです。









   黒髪の乱れたる世ぞ 果てしなき想いに消ゆる玉の露の緒




 『貴方さまと想いを遂げられたこの世界で、この命が消えるほど果てしなく貴方さまを想っております』

『黒髪の・・・』の北条夫人の歌の新解釈は、独自の解釈です(汗

でも、そういう意味もあったら嬉しいな・・・と。



『新府』編は、これでおしまいになります。

四郎勝頼、北の方様、源次郎と別れた松姫さまは、さらに東の地へ・・・


最後は、舞台を八王子に移して。最終章、『信松院』編です。

いよいよラスト。ゴールまでもうすぐ。


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