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六つめ 黒髪

 少しずつ、悪い知らせや噂が新府城の中で聞こえるようになっていました。



 織田の大軍勢が、この新府を目指して進軍中である。

 東の北条が、甲斐征伐のために戦支度を始めている。

 木曽、穴山といった家中の豪族達が武田を裏切って織田についた。


 そんな暗い噂は日に日に大きくなり、毎日のように耳にするようになっていました。

 あの城が落ちた。この城も落ちた。

 そんな会話が聞こえるたびに私は高遠城のことを思い出してしまって、怖くて身体が震えそうで、それを必死になって押し堪えていました。



 新府城を包む暗い影。


 先の見えない・・・不安。


 疑心暗鬼になる城の者たち。



 まるで坂を転がるように、速度を上げながら

 武田は、諏訪の兄様は、追い詰められていくのでした。








 それは、城の大手門の前を通り過ぎようとした時でした。


「えっ・・・北の方様・・・?」


 一人佇んでいる北の方様をお見かけして、私は驚いて声も出ませんでした。

 当主の奥方が一人でこのような所に立ち竦んでいるのもおかしいと思ったのですが、何より、北の方様のお姿がとても痛々しく見えて。私は思わず北の方様の下へ駆け寄っていたのです。


 外は晴れているのに、北の方様はずぶ濡れで。白い襦袢を纏っただけのお姿で、その襦袢も肌に張り付いて、青白い肌色が透けて見えていました。普段は綺麗な黒髪も無残に乱れていて。


「どうなされたのですかっ、北の方様!?」


「松さま・・・?」


 暦の上では春とはいえ、まだ冷たい風が時折吹くような季節です。こんな姿のままでは、すぐに風邪を引いてしまいます。


 急いで身体を拭くものを持ってくるよう、側にいたお百合に言いつけて、私は自分の打掛を北の方様に被せたのでした。



 自分の前髪から落ちる雫も気にせずに、北の方様は私の顔を見て微笑んでは「大丈夫」と仰いました。


「そのお姿のどこが大丈夫なのですか!?一体、どうなされたのですか!?」


「八幡さまの下に行っていたの。願掛け、したいことがあって・・・」


「願掛け・・・もしかして、水垢離(みずごり)ですか?」


 水垢離・・・神仏に祈願するために寺社仏閣に赴いて、冷水を被り身を清めることによって成就を願う禊のことです。


 武家の妻が夫の無事と武運を願って水垢離を行うことが一般的で、それが貞女の嗜みとされていました。


「韮崎には武田の八幡宮があってね・・・よく八幡さまで四郎さまの御無事をお願いしているの」


 濡れた唇でそのように言葉を紡ぐ北の方様は、とても嬉しそうで。

 


 そこまでして、諏訪の兄様のことを・・・


 そこまで、お慕いして・・・



 私は北の方様の献身振りに、頭が下がる思いでした。


 でも、すぐに北の方様は大きなくしゃみをなされて


「・・・願掛けもいいですが、北の方様がお身体を壊されたら城のみなが心配なさいます」


「そうね、ごめんなさい。次から気をつけます」


 北の方様は可愛らしくはにかむのですが、その笑みはどこか儚げに私の瞳に映って、私の心をざわつかせました。


 どうして・・・北の方様はそこまでなさるのですか?


 どうして・・・北の方様は諏訪の兄上のためにそこまで尽くせるのですか?


 私は、出来ませんでした。どれほど奇妙様をお慕いしていると言ったところで、私は結局武田の連枝から外れることは出来なかったのです。



 もし、あの宵の神社のときに。


 ずっと、あの場所で待っていたら。織田の軍兵に捕まり、囚虜となって、命を落としてもそれでもなお奇妙様に近づこうとしていたら・・・


 きっと、北の方様ならそうなさる。


 そこに、私は北の方様に大きな敗北感を感じておりました。


 生きなければならぬと、私は思っておりました。五郎兄様の、麟虎様の、高遠のみなの想いに応えなければ。この命は絶対に落とせない、と。


 それが間違いだとは、今でも思うておりまぬ。


 でもそれはただ、私が奇妙様よりも自分の命を選んだということに過ぎなくて。



 あぁ。私は北の方様のようになりたい。



 この方のように、強く奇妙様のことを想っていたい。と、私は心の底から思ったのです。


 そして、どうか北の方様の願いが成就しますようにと。私も、八幡様にお願いに行こうと思ったのでした。







 奇妙様は、神仏への信心は深いお方なのでしょうか。


 幼いころはあんなに文のやり取りをしたというに、そういえば信心のお話が上がったことはありませんでしたね。


 私は、神様が嫌いです。


 もし、僧の説法通りに神仏というものがいて、この世の理を全て決めているというのなら、これほど残酷なことはないと思います。


 武田が落ち目に合うことも、私が奇妙様と引き裂かれてしまったことも、神仏が定めたことだというのなら、私は神を恨みます。


 私たちが、一体なにをしたというのでしょう。


 ただ好いたお方にお会いしたいという、そのようなことも認めない神なんて、なんて心の小さい神なのでしょう。



 神仏は何を見ていなさるのか。



 あんなに北の方様が願掛けをなさっておられたのに、八幡様は手を差し伸べてくれないのか。


 燃え上がる新府城を見つめながら、私は途方に暮れる思いで八幡様を恨みました。



 かんかんかんっ、とけたたましい鐘の声。


 夜更けに突然鳴った鐘と障子を赤く染める外の光景に、私もお百合も飛び起きます。


「何事ですかっ」


 私とお百合は急いで内掛けを羽織って障子を開けると、その光景に私は目を見張って動けなくなりました。


 二の丸のほうでしょうか、闇夜でもわかるほど高く大きく上がる黒煙と、真っ赤な炎。


 その緋色は戦の後の高遠城にも似ていて、私は思わず吐き気を催してしまいます。


「松姫さまっ、大丈夫ですか!? すぐに逃げないと!!」


「大丈夫です。少し気分が悪くなっただけです」


 私がお百合に強がっていると、北の方様が源次郎様を連れ立って私の下へ駆けつけてくれました。


「松姫さま、お怪我はありませんか!!」


「私もお百合も怪我などはありません。ですが、これは一体・・・」


「話は後にしましょう。とりあえず逃げなければ。源次郎は他の者を探し出して先導しなさい。ひとまず大手門に向かうようにと」


「かしこまりました、北の方様」


 北の方様は城主の奥方らしく凛とした立ち居振る舞いで、私の手を強く握りながら源次郎様や他の武者の方にてきぱきと指示を出されていました。


 何事かと状況もつかめずに震える私を元気付けるように。



 ・・・やはり、北の方様は諏訪の兄上の奥方なんですね。


 ・・・私より二つも若いはずなのに。



 何も出来ない自分が悔しくて、私は北の方様にまた小さな嫉妬を感じていました。








 北の方様の迅速な指示のお陰か、燃える城から逃げ遅れた者はおらず、女子供に至るまで全員大手門まで非難しておりました。急な火災であるのにも関わらず死傷者が出なかったことは、本当奇跡のようなことだと思いました。


 紅く揺らめく、火の粉。ごうごうと音を立てて。


 闇夜に強く煌くその様を、私達はただ呆然と見つめて。ただ、立ち尽くして。


 誰しも、これから訪れる未来の不安に言葉も発することが出来ませんでした。


 堅牢な城郭は今、無残にも火を上げて。



 もう、目の前には織田の大軍勢が迫ってきておりました。火をどうにか消し止められたとしても、新府のお城が負った深手はとても大きくて。きっと、戦に耐えることなど出来ないでしょう。


 もはや、戦にもならない。


 居場所もない。


 闇夜の何も見えない中で、私達はただ途方に暮れるしかなくて。



 燃え盛る新府のお城を、じっと眺めることしか出来ませんでした。


 私も、北の方様も、そして諏訪の兄様も。


「・・・風魔の仕業だ」


 燃え盛る火の手から目を反らさずに、諏訪の兄様は仰られました。


「風魔というのは・・・」


「北条が抱えている忍のことです」


 私が訪ねると、北の方様はまるで自分が悪いとでもいうように、申し訳なさそうに答えてくれました。その声は震えていて。北の方様のお顔は闇夜でもわかるほど青ざめていて。


 北条の、忍・・・この火事は、北条がやったということですか・・・


 北の方様の、実家が・・・


「そんな、酷い・・・この城には、北の方様がいらっしゃるではないですか・・・自らの妹がいる城に、火をかけるなんて・・・」


「風魔の間者をさきほど捕らえた。もう、疑いようがない」


 淡々と、諏訪の兄様は仰られました。そして、大きくため息をついて。


 そんな諏訪の兄様の背に、北の方様は深々と頭を下げられます。


「四郎さま・・・本当に申し訳ございませんでした・・・」


 どうして北の方様が謝られるのですか・・・


 悪いのは、全て北条ではないですか・・・


 最も苦しい思いをなされているのは、北の方様ではないですか・・・



 言いたいことはたくさんありました。けれど私は、その痛々しいお姿を黙って見ている事しか出来ませんでした。諏訪の兄様と北の方様の、夫婦の間に私が口を出せる訳もなくて。




「余計なことを考えるな」


 諏訪の兄様は、振り向きもせずぶっきらぼうに仰いました。


「お前は北条の者ではない。俺の女だ」


「四郎、さま・・・」


 本当、ぶっきらぼうで。いつものように諏訪の兄様は淡々とした冷たい口調でした。


 ですが、その内に秘めた想いを垣間見た気がして。



 ・・・そうでした。


 諏訪の兄様は、幼き頃からそういうお方です。


 冷淡で、いつも自分のお心を誰にも見せないお方。


 武田の跡取りとして、当主として、自らの弱みを隠そうとなさいます。


 それが私の目からは冷たく見え、北の方様には不安に映るのでしょう。


 でも、そのお心はきっと・・・



 五郎兄様は昔、諏訪の兄様のことを『優しいお方』だと申しておりました。



「ありがとう、ございます・・・」


 ぽろり。ぽろり。北の方様は大粒の涙を零されて。


「そう、ですね・・・私が、馬鹿でした・・・私は、四郎さまの正室なのに・・・」


 瞳に涙を溜め込んで、北の方様は満面の笑みを浮かべて諏訪の兄様に微笑みかけます。その笑顔が、とても可愛らしくて。


 胸が痛くなるほど、北の方様の嬉しさが伝わってまいります。


 私にも届く、その喜び。好いたお方に『好いている』と言われたときの、幸福感。



 本当に、北の方様は幸せそうで。



 ただ、その言葉を諏訪の兄様に言ってほしかっただけで。


 ただ、愛した殿方と並んでいたかっただけで。



 夫婦ならば当たり前のことなのに、どうしてそれはこんなに綺麗な情景に映るのでしょうか。


 想いが通じ合うということは、それほどまでに綺麗なものなのでしょうか。


 諏訪の兄様と北の方様を通して、私はその答えをこの目で見ている気が致します。


 私と奇妙様との恋路は、それは残酷なものでした。


 けれど、色恋は残酷なものだけではきっとない。


 幸せな色恋も、ちゃんとこの世にはある。



 そう思えただけで、私は嬉しい気持ちでいっぱいになります。



「新府の城がこうなってしまった以上、ここで織田を迎え撃つことは出来なくなった。ひとまず、岩櫃か岩殿まで退き体勢を立て直す。お前は俺について俺の側にいろ」


「・・・はい、どこまでも。四郎さまについて参ります」


 闇夜に陽炎が揺らめくなかで、嬉しそうに微笑んだ北の方様はとても美しく、気高く。


 私はきっと、その愛らしさを忘れることはないでしょう。


長い間、本当に長い間おまたせしました。

ようやく、書けました・・・続きが。松姫さまの人生を辿るこの物語の・・・


この調子で、ラストまで一生懸命頑張ります!!


今回は、「黒髪」四郎勝頼と北の方さまのお話です。

この二人は立場も違う、年も離れている・・・でも、最後まで添い遂げたということは本当に愛し合っていたんだなぁと。


本当は、新府城は破棄してから炎上したのですが、ストーリー上炎上したから破棄して的な展開にしてます。

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