六つめ 妹姫
「どういうことですか!?」
源次郎様からそれをお聞きしたとき、私は叫ばずにはいられませんでした。
菊姫が、越後に嫁いだ・・・
越後の上杉といえば、父上の代から武田と戦い続けている敵国ではないですか・・・
「三年前のことです。織田との戦に本腰を入れるため、我々武田は上杉との小競り合いを続けることが出来なくなりました。そのため、諏訪のお屋形様は上杉と和議を結ぶことをお決めになられて・・・その証として菊姫様は上杉景勝殿の下へ嫁がれたのです」
「菊姫を、売ったというのですか・・・」
私は繭を寄せて、源次郎様を睨みつけていました。
和睦を結ぶためだけに、敵国に菊姫を嫁がせた・・・
諏訪の兄様は、何を考えているのですか・・・
菊姫を大事に思われてなかったのですか・・・
「売ったなんて・・・四郎さまはそんなつもりじゃ・・・」
「同じではないですかっ!!」
諏訪の兄様を庇おうとする北の方様に、私は思わず怒鳴ってしまいました。
それくらい腹が立って、腹が立って仕方なかったのです。
「諏訪の兄様のところへ参ります!!」
「えっ、あっ・・・松姫さま!!待ってください!!」
お百合の静止も聞かず私は部屋を飛び出しました。
城の廊下を駆け抜けて、どこに行ったのかもわからない諏訪の兄様を探します。
お百合ら三人も、慌てて私に付いてきていました。
菊姫は、私の大事な妹です。
五郎兄様がいなくなって、もう同腹の兄妹は菊姫しか残っていなくて。
わたしはもう、これ以上家族を失う痛みを味わいたくない・・・
味わいたくないのに・・・
「っ、諏訪の兄様っ!!」
少し走ると、とある部屋に入ろうとする諏訪の兄様を見つけて、私はその部屋に押し掛けていました。部屋の奥には、昔少しだけ拝見した諏訪の兄様も鎧兜が飾ってありました。きっとここは、諏訪の兄様の自室なのでしょう。
突然の私の来訪に諏訪の兄様は驚いた顔をして、けれど低い声で
「何だ」
と、それだけを仰いました。
私は憤りだけが心の中に埋め尽くされていて、無我夢中で訳がわからないまま、諏訪の兄様に食って掛かっていました。
「菊姫を上杉に嫁がせたとはどういうことですか」
「それが何だ」
冷え冷えとした声で、諏訪の兄様は私の問いに軽くそう答えたのです。まるで、『どうしてそんなくだらないことで声を荒げている』とでもいうように。
その態度に、私は頭に血が上って。とても赦せなくて。
「どうしてそんなことをしたのですかっ!!上杉は長年の間武田とは敵の間柄なのですよ!!」
何度も、何度も、武田と上杉は戦を交わしていました。
越後には、親しい者を武田の兵に殺された人たちがたくさんいる。
武田を恨んでいる者がきっとたくさんいる。
例え和議を結んだといっても、そう簡単に変われるものではないではないですか・・・
そんな家に、菊姫を一人送るなんて・・・
「諏訪の兄様は、菊姫の心境がわからなかったのですかっ!!」
家を離れ、敵国に嫁ぐ姫がどれほど心細い思いをしているのか。
たった一人で敵の城に身を寄せるその不安を。
幼い頃、私は奇妙様と婚約して織田の人質となりました。
武田の家から外されたという事実だけが私の心に深く傷をつけて、当時の私は大きな不安を抱えていました。
遠い尾張に嫁ぐことが、知らない家に嫁ぐことが、とても怖かったのです。
もし、お百合が私を抱きしめてくれなければ・・・
もし、奇妙様が『お守り致します』と文を綴ってくれなければ・・・
私は、到底耐えられなかったでしょう。
そんな思いは、私だけで十分なのに・・・
「違います」
声が聞こえて振り向くと、そこには北の方様が立っておられていました。
お百合と源次郎様を伴って、哀しそうな表情で私と諏訪の兄様を見つめておられました。
「四郎さまは、菊さまのことを思ってご結婚を・・・」
「結婚なんて、口先だけの綺麗事ではないですかっ!!本当は、上杉との仲にけじめをつけるため体のいい人質にされただけでしょう!!」
「・・・・・・っ」
北の方様は、何も仰いませんでした。
きっと、御自身の中にも思うところがあったのだと思います。
北の方様も、武田への人質として諏訪の兄様に嫁いできたのでしょう。
この殺伐とした世で、私達のような姫君はきっとそのような生き方しか出来ない・・・
それが、私にとっても無性に悔しくて、悔しくて。
だからこそ、菊姫のことはどうしても納得出来ないのです。
何も言わずに、北の方様は両手に拳を握ってじっと震えてらっしゃいました。
そして、唇を噛み締めて
「っ、違う・・・違うの・・・」
私の顔をじっと見つめて、そのように、口にしたのです。
北の方様の瞳は潤んでいて、声は震えていて。けれど真摯に訴えかけるように、力強く。
「四郎さまは、とても心優しい方です・・・本当に、菊さまのことを大事に思われていたのですっ!!」
必死に訴える北の方様に、私は目が離せませんでした。
不器用に、ただひたすら諏訪の兄様を弁護する言葉を紡いでばかり。
ですがその言葉ひとつひとつを受け取るたび、私はずしんとその重みを感じていました。
内に秘めた熱情が煮えたぎっているようで。どうしてもわかってほしいという感情がとても伝わってきて。
北の方様は、こんなに熱いお方なんですね・・・
それほど、諏訪の兄様を好いておられるのですね・・・
「信じてくださいっ、私の好いたお方を!!お願いだから、信じてっ!!」
「落ち着け。頭に血が上り過ぎだ」
「ですがっ、四郎さまを悪く言われて黙っていることなんて出来ませんっ!!」
「俺は別に構わん。人前で声を荒げるなど、はしたない真似をするな」
「っ・・・申し訳ございません」
諏訪の兄様に叱られてしゅんとなされている北の方様が、とても可愛らしく見えて。落ち込んでる様に、ほんの少し嬉しそうな表情が見え隠れしていて、私は不思議な気持ちでそれを見ていました。
先ほどの言葉といい、本当に北の方様は諏訪の兄様を信頼なされているのだと、端から見ても十分すぎるほどわかって。
そんな北の方様に、私の毒牙はすっかり抜かれてしまったのです。
あぁ、この人は本当に諏訪の兄様のことが好きで好きで堪らないのだと。
「あれを松に見せろ」
北の方様にそれだけを告げて、諏訪の兄様は部屋を出て行かれました。
北の方様は「はい」とだけ答えて、迷わずに部屋の引き出しから一枚の懐紙をとりだすと、そっと私の手のひらの上に乗せました。
懐紙は綺麗に折り畳まれていて、表に細い線で『松之姉上様』と記されていました。
「輿入れの日に、菊さまからお預かりしたものです。『自分はもう甲斐の国へは戻れないかもしれないけれど、もし機会があるならこれを自分のお姉様に渡してほしい』と」
菊姫からの、文・・・
「どうぞ、お読み下さい」
私は手渡された文を広げ、じっとそこに綴られた文字を噛み締めるように見つめます。
「・・・四郎さまは、本当に菊さまの身を案じて上杉に嫁がせたのです・・・織田との大戦に、菊さまを巻き込まないように。自分にもしものことがあっても、大国の上杉なら菊さまを必ず守ってくれるだろうと・・・」
「本当に、諏訪の兄様は菊姫のために・・・」
食い入るように読んで、もう一度読み直して、それでも満足できなくて。何度も何度もその文に目を通しました。
何度も心の中で読み上げながら、そこに綴られている菊姫の想いをひとつずつ、ひとつずつすくい上げるように受け止めて。
「菊姫・・・」
知らず知らずのうちに、涙がすっと頬を流れていました。
なのに、頬は緩んで。笑顔が零れて。
私は泣きながら笑ってる可笑しな表情で。
誰にも聞こえない小さな声で、私は呟いたのです。
「ありがとう・・・」
菊姫の文の冒頭には丁寧な仮名文字で「おねえさまへ」と書かれていました。
――――
久方ぶりだというのに、このような文だけの御無礼、お赦し下さい。
お姉様がこの文をお読みになっているころにはきっと、私は甲斐にいないものだと思います。明日、越後へ出立致します。
私のことは、ご心配なさらないで下さい。私の夫となる上杉景勝様は、寡黙な方ですが誠実でお優しくて武勇にも秀でた方だと諏訪の兄様からお聞きしました。菊のことを大事にして下さると、諏訪の兄様とお約束なさって下さったそうです。
きっと素敵な伴侶だと、これ以上ない恵まれた縁だと菊は思います。そして、この縁談をまとめてくれた諏訪の兄様を信じています。
ですから、菊は大丈夫です。
必ず、越後で幸せになっていると思います。
お姉様とお別れする前、二人抱き合ったときのことを今でも覚えております。
奇妙様との婚約が消え、涙に暮れるお姉様になんて声をかけていいかわからなかったこと。
ただお姉様を抱きしめることしかできない。その涙を止めて差し上げられない、自分が不甲斐無くて悔しい想いをしました。
私は、笑っておられるお姉様が好きでした。幸せそうな表情で、奇妙様のことを語ってくださるお姉さまが好きでした。
菊は、お姉様のために上杉に嫁ぎます。
お姉様の分まで幸せになります。
お姉様の悔しさも、哀しみも、全て吹き飛ばすくらい。
ですから、どうか菊のことで心乱さないで下さい。
どうか、いつまでも笑っていて下さい。
同腹の姉妹でありながら
己の想い人と添い遂げられなかった松姫さまと
意に沿わぬ相手と結婚した菊姫。
比べてみると、なんか考えさせられますよね・・・
菊姫は上杉に嫁いだ後も亡国の姫君としてつらい思いをしたことでしょうし・・・
番外として、ぜひ菊姫のお話も書きたいなぁとは思ってます。




