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六つめ 新府

 私とお百合は、東に向かってただひたすら歩き続けました。



 そのときの心細さは、今でも覚えています。


 十年前、つつじから高遠に移るとき、輿に乗りながら五郎兄様の一団と共に通った道。


 今はお百合と二人きり、自らの足で歩く道。



 不安で、怖くて、仕方ありませんでした。いっそのこと、足を止めてしまえたらどれほど楽なんだろうと、何度も頭をよぎります。


 でも、それは赦されませんでした。急がないと、織田の追っ手がやってくる。ましてや夜更けの山道など、どこで賊が襲ってもおかしくないのです。


 私は笠を深く被って、震える身体にぐっと力を入れて、お百合の手を引きながら歩き続けました。



 生きなければ。


 五郎兄様のために、生きなければ。



 ただそれだけを、頭の中でずっと繰り返しながら。







「これが、お城・・・」


 2日歩き続けてそのお城に辿り着いたとき、私は思わず唖然としてしまいました。


 隣のお百合も、初めて見るその大きさに言葉が出ないようでした。



 人の力で開くとは思えない、その大きな大手門。


 城壁はとても厚そうで、高くそびえてお城の周りを囲んでいます。


 さらに、とても深い水掘と空堀。


 まさしく、難攻不落の『砦』のようで。



 つつじと高遠の間にある、韮崎の地。


 諏訪の兄様が織田との戦のために昨年建てたお城。



『新府城』



 甲斐の国の、新しい都です―――



 その大きな大手門に近づきながら、私はなんだか寂しい気持ちになりました。


 かつて父上がご存命だった頃、私達の住んでいたつつじにはこのように民と武家を分かつような城壁も、堀も、何もありませんでした。



『人は城 人は石垣 人は堀』



 それが父上の信条で、本当に己を守ってくれるのは大きな砦ではなく人との信頼関係なのだと、大事なのは民百姓と同じ目線で生きていくことだと、父上は仰っていました。


 ですから私達武家の者も民と身近に接し、それが甲斐の国の良い所だと思っていたのに・・・



 全部、戦で変わってしまったのですね・・・



「寂しいです」


 そう呟いたとき、大手門の前に一人の殿方が立っていることに気がつきました。


 年は私より下のようで、元服したばかりでしょうか、綺麗に整ったまげが特徴的なお侍でした。腰に脇差を差し、じっとこちらを見つめています。


「誰でしょう、あの者は・・・?松姫さまは、ご存知ですか?」


「いえ・・・私も初めてお目にかかる方だと思うのだけど・・・」


 昔、どこかでお会いしたのでしょうか・・・?


 もしかして、私が忘れているだけ・・・?


 お百合と二人首を傾げながら大手門の前に辿り着いたとき、その若武者は私達に声をかけて参りました。


「松姫様でございますね?お待ちしておりました。それがし、信州上田の真田源次郎と申します。松姫様がこの新府にいらっしゃると聞き、諏訪のお屋形様より松姫様の守役を仰せつかっております」


「源次郎様・・・?」


 若武者は礼儀正しくはつらつとした声の挨拶に私はさらに戸惑います。


「きっと初めてお会いすると思うのですが・・・どうして私を松姫だと・・・?」


「っ、それは・・・」


 気になって思わずお聞きすると、源次郎様は少し恥ずかしそうにうつむいて


「・・・菊姫様に、とても似てらっしゃったので・・・きっとそうなのだと・・・」


「菊姫・・・」


「前までは、菊姫様の守役を仰せつかっていたのです」


 その名前に、私はとても懐かしく感じました。


 十年前に別れたまま、一度も会えなかった妹。



 そうでした・・・菊姫は、諏訪の兄様の下へ引き取られたのでした。


 ですからきっと、この城にいる。



 無性に菊姫に会いたい気持ちに駆られます。


 あの甘えん坊な妹は、立派な姫君になったのでしょうか・・・


「菊姫様から松姫様のことを山ほど聞かされておりました。自分にはとても大人びて美しいお姉様がいるのだと。とても素敵なお姉様なのだと、それは自分のことのように楽しそうに・・・」


「菊姫が、そんなことを・・・」


 恥ずかしい、と思わず顔が熱くなります。


 あの子、私のいないところでそんなことを人に話しているなんて・・・


「菊姫様があそこまで仰る松姫様とはどのようなお方なのだろうと、色々思い巡らしておりました・・・でも、これほどお綺麗な姫様だとは思いもしなかったので正直緊張しているのですが・・・」


 少し照れながら頬を赤くして、源次郎様はそう仰いました。



 その姿に、私は可愛いと思ってしまいました。


 脇差を差し髷を整え元服したとはいえ、まだ十四、五の子供で。六つも上のおなごと話すことも慣れていなくて。


 けれど一生懸命背伸びして武士であろうと頑張っている様が、とても可愛く映ります。


「それがし、松姫様の守役を任されとても光栄に思います!!身命を賭して勤め上げる所存、どうかよろしくお願い致します!!」


 そんな源次郎様の懸命さに、私は口元を緩めて優しく微笑みかけては、そっと頭を下げました。


「こちらこそ、よろしく願い致します。お百合共々お世話になります、源次郎様」






 それから私たちは源次郎様に連れられて、お城の大広間に参りました。


「真田源次郎でございます。松姫様をお連れ致しました」


 源次郎様が障子の前で床に膝を着いて慇懃いんぎんにそう申すと、そっと障子が開かれました。


 高遠城の倍はある、とても広い大広間。その一番奥の上座に、諏訪の兄様は座っておられました。


「入れ」


 低く大きい諏訪の兄様の声が大広間の外まで響いて、私達三人は言われた通り大広間に足を踏み入れました。


 何歩歩いても、諏訪の兄様の下へなかなか辿り着かないほど、広い部屋でした。そんな広い部屋なのに、大広間にいる方は入り口の障子にたたずんでいる武者がお二方、諏訪の兄様、そして兄様の右側に見知らぬ姫君が座っていらっしゃいました。


 私は歩きながら、その姫君が気になって仕方がありませんでした。


 私と同年齢ぐらいの、端麗な顔つきの美しい方でした。羽織っておられる薄紫の打掛が大変良く似合っていて、朗らかな笑みを浮かべては興味深そうに私のことをじっと見つめておられます。


 とても、綺麗なお方・・・



 そんなことを思っていると、私は諏訪の兄様の前まで辿り着いていました。


 私は、諏訪の兄様に対して深く頭を下げます。


「お久しゅうございます、諏訪の兄様」


 そう、礼儀正しく挨拶をしたのです。でも・・・


「・・・・・・」


 えっ・・・?


「・・・源次郎、ご苦労だったな」


「はっ、ありがたきお言葉でございます」


 諏訪の兄様は短く、源次郎様に対してお褒めのお言葉を仰いました。



 まるで、私の挨拶は聞こえなかったように。


 まるで、私のことなどはなからいないとでもいうように。



 っ、なるほど・・・十年経っても変わらないという訳ですか・・・



 諏訪の兄様の態度に私は強い羞恥心を感じました。


 悔しくて、肩が震えて、拝顔の許可も得ずに思わずばっと顔を上げてしまいました。


「諏訪の兄様・・・」


 十年ぶりに、諏訪の兄様のお顔を拝見しました。


 そのお顔に、私は驚いて言葉が出ませんでした。十年前と変わらず・・・いや、本当に諏訪の兄様だけ時が止まってしまっていると思うくらい、若々しく端正な顔つきのままだったのです。


 もう三十路もとうに過ぎているはずなのに、年を取ったことすら感じさせない精悍な顔つきで、私をじっと睨みつけていました。


 元々怖い方だったのですが、十年前よりも一層強い威圧感を私は感じておりました。それは諏訪の御曹司ではなく武田宗家の当主として十年もの間甲斐の国を動かしてきた、その重みのように感じられました。



 そのようにじっと私を睨みつけると、諏訪の兄様はふと隣にいる薄紫の姫君に視線を向けて


「・・・松のことは、お前に任せる」


「承知仕りました」


「源次郎は引き続き松の守役を命じる」


「はっ、かしこまりました」


 そうやって淡々と指示を出すと、諏訪の兄様はおもむろに立ち上がって何も言わないまま背を向け大広間を出て行こうとなさいます。


 私は諏訪の兄様を引きとめようと慌てて


「諏訪の兄様っ!!そのっ・・・五郎兄様は・・・」


「知っている」


 私が言い切らないまま、諏訪の兄様は短くそう答えます。


 そして振り向かないまま


「五郎には、残念なことをした」


 とだけ言い残して、大広間を出て行かれました。


 残念な、こと・・・


 その言葉が胸に引っ掛かって、どうにも飲み込めませんでした。


 五郎兄様は甲斐のために、諏訪の兄様のために命を捨てて戦ったのに・・・


 諏訪の兄様は、それをどのように感じているのでしょうか・・・




 諏訪の兄様が退室なさった後、大広間は私とお百合、源次郎様、そして上座には薄紫の姫君だけが残されて、妙な沈黙が部屋を覆っていました。


 これからどうなるのでしょう・・・


 ふとそう思ったとき、薄紫の姫君がおもむろに立ち上がると私に近づいて


「気を悪くしないで下さい。きっと四郎さまも、松さまに会えて嬉しいと思うの。ただ、少し不器用な人だから」


「えっ、あっ・・・その・・・」


 親しみを込めて話しかけて下さる姫君に、私はつい慌ててしまいます。


 そんな私の様子を見かねて、源次郎様が後ろから耳打ちして下さったのですが・・・


「北の方様でございます」


 ・・・・・・えっ?


 北の方様・・・・?



 その源次郎様の言葉に、私は耳を疑いました。



 北の方って・・・あの北の方?


 当主の御正室を呼ぶときの・・・


 つまり・・・諏訪の兄様の・・・奥方様っ!?



「えっ・・・ええっ!!」


 私は思わずはしたない声を出ししてしまうくらい驚いて、訳がわからなくなってしまいました。


 そんな唖然とした私の表情に、北の方様は可笑しそうにくすくすと笑ってらっしゃいます。


「えっ・・・失礼ですが、お年は?」


「今年で十九になります」


 私より、年下・・・


 驚いたのは私だけではないようで、お百合も信じられないとでもいうような顔をして北の方様を見つめておりました。


「諏訪さまは、確かもう三十路も過ぎてらっしゃいましたよね・・・なのに、こんなお若い奥方様をめとるなんて・・・」


 私も、お百合と同じく本当に驚きました。


 私よりも年下の奥方様を娶るなんて・・・



 それに・・・


 諏訪の兄様には、遠山の方様が・・・


「そんなかしこまらないでください。確かに私は四郎さまの正室だけど、武田の家ではまだまだ新参ですし」


 目の前の方が諏訪の兄様の御正室だと知って私もお百合も慌てて居直ろうとするのですが、そんな私達の様子に北の方様はくだけた口調で「もっと楽にいきましょう」と微笑みます。



 私より、大人っぽいです・・・


 北の方様は、御正室としての風格も出てますし・・・


 年上なのに私、負けています・・・



 そんな女としての敗北感を感じつつも、私は北の方様の気さくな態度に惹かれていました。



 兄も、高遠の地も捨ててお百合と二人の逃避行。


 誰も知り合いがいない、唯一存じている諏訪の兄様は冷たくて、とても心細い気持ちでいっぱいでした。


 頭の裏側では、地獄のような高遠での戦がまだ焼きついていて、つい思い出してしまいます。思い出すと、哀しくて泣きそうになってしまいます。


 けれど、頑張らなければと。寂しくても、一人で立っていなければいけないのだと・・・


「年も近いのだから、そんな強張らずに・・・私は、『友』のような関係で松さまと過ごしたいと思っているのです」


 友・・・


 にっこりと笑って差し出される北の方様の手が、私にとってはとても嬉しいものでした。


 全てを失ってもまだ、得られるものが残っているのですね・・・


「私もです、北の方様」


 私も力いっぱいの笑みを返して、北の方様の手をぎゅっと握り返しました。


「よかった」


 北の方様は嬉しそうに口になさいます。


「けれど・・・改めて松さまのお顔を見ると、本当菊さまに似てらっしゃいますよね。源次郎、驚いたでしょう」


「はい・・・本当、松姫様と菊姫様は驚くほど似てらっしゃいます」


 似てる・・・?私と菊姫が・・・?


「そうなのですか・・・?私と菊姫は十のとき別れたっきりだったので、そんなに似てるとは思わなかったのですけど。お百合、私達って似てましたか?」


「どうでしょうか・・・確かにわらべの頃だったので、そんな似てる思ったことはなかったとは思いますが・・・」


 そうです、菊姫と最後に会ったのはまだ幼かったころ。


 あれから大きくなって、そんな私に似たようなおなごになっているのでしょうか・・・


「久々に菊姫と会いたいです。菊姫はどこですか?この城にいるのですよね?」


 そう口にして源次郎様にお聞きすると、源次郎様は驚いた顔をなされていました。


 えっ・・・私、何かおかしなことを口にしましたか・・・?


「案内していただけませんか、源次郎様?」


 再度源次郎様にお願いするのですが、源次郎様は困った顔をされたまま、何か言いにくそうに口を噤んで何も答えてくれませんでした。


 北の方様も、その顔に憂いを浮かべてらっしゃって、視線を足下に降ろして暗い表情をなさっています。


「どうしたの、ですか・・・?」


 お二人が暗い顔をなさるので、私まで不安になってまいります。


 そしてそんな気持ちでただじっと源次郎様を見つめて待っていると、源次郎様がその重い口をそっと開かれたのでした。


「・・・・・・菊姫様は、いらっしゃいません」


 えっ・・・


「越後の上杉へ、お嫁ぎになられました」

新章です。新キャラ登場です。


一人目は武田勝頼の継室。通称『北条夫人』。

相模の北条氏から勝頼に嫁ぎ、そのまま勝頼と運命を共にする幸薄なお姫さまですよね・・・そして何よりも名前がわからないっていうのがまた・・・

『恋文』の世界の中では『北の方様』と呼ばせてます。


もう一人は、信州上田の源次郎・・・かの有名な真田幸村です。

後に大阪の陣で大活躍する彼ですが、幼少期の資料がほとんど残されてないんですよね・・・

ですが、父・昌幸や兄・信幸に新府にいた記述が在ること、それに後々上杉や豊臣の人質生活を送ることから、きっと武田時代もそういった人質兼小姓みたいな立場だったのかなぁ・・・という妄想です(笑)


新たに登場した二人、そして諏訪勝頼を交えて

新章『新府編』頑張って書いていきたいと思います。

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