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五つめ 逃亡


 逃げる前に、ひとつだけ望みがありました。


 幼い頃から、ずっと心の底で願っていること。

 私が最も望んで、最も叶わないこと。



奇妙様にお会いしたい―――



 今、すぐそこに奇妙様がいらっしゃる。


 きっと、これは最初で最後の機会でしょう。


 だから今だけは、自らの想いに正直になって構わないでしょうか・・・?




 私はすぐさま筆を取って、城のくるわを駆け出していました。


 この城の、一番高い矢倉に向かって。


「まっ、松姫様っ!!どうしてこのような所にっ!?」


 物見の兵は突然の私の来訪に驚いていました。


 思い切り走った私は息を切らせて、言葉を発することもおぼつかないぐらいでした。でも、物見の兵に喰いかかるように


「・・・っ、どうかお願いがございますっ!!この文を、矢に結んで敵の本陣に射てはくれませんか!!」


「敵に文をっ!?そのようなことは無理でございますっ!!殿の命もないのに、そのような勝手なことをして・・・露見すればどうなるかっ・・・」


 おどおどとうろたえる物見の兵に、私は次第に腹が立って、思わず怒鳴りつけてしまいました。


「知ったことではありませんっ!!文句を言う暇があるなら早くこれを奇妙様に撃ちなさい!!」


「いやしかし・・・」


「いいから撃ちなさいっ!!日が沈んでしまいますっ!!」


 私は無理やり、矢文を奇妙様がいる敵本陣に向けて撃たせました。


 その文には二首、和歌がしたためられていて。




雪どけに もう梅香る季節なり

        心なしにか 寒さ和らぎ



 二人の文のやり取りを、奇妙様は覚えておいででしょうか。




望むべき 小さきことも泡沫(うたかた)

         雉待ちぼうけ神の社に




 今宵、雉は神社にて待ちます。


 鳴かなければ撃たれないのはわかっているのです。


 でも、ここでずっと待っているから。貴方様がそこにいらっしゃることを知っているから。


 私はここにいるのですと、雉は鳴かずにはいられないのです。







 今宵は、真っ暗な新月の夜でした。闇夜に乗じて城から抜け出すのは都合が良くて。


 私とお百合は、高遠城近くの森の中にある古びた神社でじっと奇妙様を待っておりました。


「お百合、貴方にまで迷惑をかけましたね。謝ります」


 隣で共に奇妙様を待つお百合に、私は申し訳なさそうに謝ります。


 お百合は、私に優しく微笑んで


「何を仰いますか、水臭いですよ松姫さま。昔からお百合は、人の恋路を遮るような真似はしないでしょう?」


 軽口を叩くお百合に、私も微笑み返しました。少し元気を取り戻してくれたことが、嬉しくて。


 きっとお百合も私と同じで、麟虎様のために幸せになろうと一生懸命に前を向いているのでしょう。


 口にして聞いた訳ではないのですが、わかります。


「ありがとう、お百合」


 視界は一面漆黒で何も見えない中、何かが焼けた匂いがここまで臭ってきます。


 そんなとても怖くて胸がざわつく、不安を形にしたような世界の中。


 私がただ物思うは奇妙様、貴方のことなのです。




 貴方様が敵になろうと、私は貴方様を愛しく思います。父よりも、兄よりも。


 貴方様の手なら、この高遠城で殺されてもいいと思いました。




 貴方様が私から全てを奪ったなどとは思いません。


 私は、貴方様から数え切れぬほど素敵なものを頂きました。


 それは、私がどんなことをしようとも返し切れるものではないでしょう。


 貴方様には、心の底から感謝しています。



 松は、どんなことがあろうとも奇妙様をお慕い申し上げております。





「もう、時間がありませぬ。行きましょう」


 丑三つ時(午前二時)はとうに過ぎ、もうすぐ夜が明けるという中で、私はお百合にそう告げました。


 結局、奇妙様はいらっしゃいませんでした。


「でも、松姫さま・・・」


 それでよろしいのですか・・・?


 そんなお百合の気持ちが、その声から滲み出ていました。



 私は、暗闇が怖くて俯きそうになる顔をぐっと引き締めて、鋭く凛とした口調で


「このままでは敵に見つかってしまいます。五郎兄様を黄泉路で失望させるつもりですか?」


「それはそうですが・・・」


 お百合の腑に落ちない感情はわかります。けれど・・・



「これが、奇妙様のお返事なのです」



 私は歩き始めます。お百合も渋々、歩き始めました。


 もう一刻の猶予もありません。日が昇る前に、逃げなければ。




 これで、奇妙様への恋路も終わりました。


 きっと、これでいいのです。


 私は奇妙様へ近づこうとしたのですから、これ以上は詮無きこと。




 私は歩きながら大きく、空を仰ぎました。


 吸い込まれそうな漆黒に、点々と星が瞬いていて。


 私はそっと、言葉を紡ぎます。


「・・・巡り逢いて」



 巡り逢いて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな



 久方ぶりに巡り逢ったというのに、それが貴方かどうかすらわからないうちに貴方は去ってしまいました・・・


 まるで、すぐ雲に隠れてしまう夜半の月のように・・・


 紫式部の歌でした。それが、私の心情にとても合っていて。



 奇妙様。


 貴方様は、私にとっての月でした。


 あんなに大きく光り輝いているのに、決して手には届かない。


 すぐ霞み、雲に隠れてしまいます・・・



「今宵は新月です、松姫さま・・・」


 申し訳なさそうに、お百合はそう言います。だから私は、「そうですね」と答えて


「でも・・・見えないだけです」



 見えないだけで、月は必ずそこにある―――



 私はもう一度、夜空を大きく仰ぎました。


 真っ暗で、何も見えないけれど。


「月が・・・とっても綺麗ですね」






 それは後から聞いたことなのですが、五郎兄様は最後まで城に篭もって果敢に戦い、討ち死になされたそうです。享年二十六。とても早すぎる死でした。


 ですが、その戦いぶりは織田方からも賞賛されたらしく、

「仁科五郎盛信の比類なき働き、前代未聞の次第なり」と語り草となりました。


 五郎兄様の遺体は(首は織田方に届けられたのですが)、兄様を慕っていた高遠の領民が手厚く埋葬したそうです。


このお話で、一番書きたかったシーンです。

書きながら、切なすぎて泣きそうになってました・・・(泣


月の一文は、すごく気に入ってます。「月が綺麗ですね」は漱石なので、かなり早いんですけどね・・・(笑


これで、「高遠城編」がおしまいって感じです。

次は、「新府城編」って感じで考えてます。


高遠を逃げ出した松姫さまは、諏訪の兄様と再会を果たします。

冷徹な兄との衝突・・・冷たい仮面に隠された諏訪勝頼の想いを松姫さまの視点から紐解いていこうと思います。

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