五つめ 戦
仁科五郎盛信と織田奇妙
松姫さまを巡る2人の武将の戦いが始まる・・・
夜が次第に明けていくと、城の中も慌しくなりました。
兵卒の方が走り回り、己の持ち場に急ぐ様子。
鉄砲に薬莢を詰める方。
弓矢の手入れを始める方。
外で戦う殿方のために、たくさんの握り飯を用意する侍女たち。
そんな殺伐とした空気が、今から戦が始まることを物語っていました。
私とお百合は、戦えない老人や女子供と一緒に本丸の大広間に集まって、戦が始まるのを固唾を呑んで待っていました。
側では甲冑姿の五郎兄様が床机の上でずっしりと構え、ご家来衆に指示を出されていました。手には、父上から譲られた軍配が握られております。
私にとって、これが初めて目の当たりにする『戦』でした。
外を見れば、高遠の地を埋め尽くす敵の大軍勢。
私達を殺そうという餓えた獣のような視線が、遠くながらわかるぐらいに私達に突き刺さっていました。
今から、戦が始まる・・・
敵兵が、私達を殺そうと押し寄せてくる・・・
「大丈夫です、松姫さま。お百合がついていますから」
私の不安に気がついたのか、お百合はそっと私の手を握ってそう言いました。
その握られた手は、少し震えていて。自分も怖いはずなのに、私を安心させようとして。
『・・・約束します』
昨夜盗み見たお百合と麟虎様の約束を思い出して、胸がかっと熱くなりました。
お百合も、自らの内側で戦っているのだと・・・
「っ、別に怖気づいている訳ではありません・・・これは武者震いです」
お百合に対抗して私も精一杯強がった、そのとき。
「っ・・・!!」
ぶおぉっ!!という大きな貝の音。
がんっ!!がんっ!!と鈍い鐘の音が断続的に鳴り響いて、周りが騒然となりました。
「っ、始まった・・・!!」
五郎兄様が呟くと、その声はすぐ法螺貝の音に掻き消されます。
鳴り止まない鐘の音が、緊張した私の鼓動と重なって。
手汗が止まらなくて、お百合と二人、繋いだ手をぎゅっと握り合っていました。
とうとう織田の城攻めが始まったのだと、私は息を呑んだのです。
そのときの恐怖を、私は今でも忘れはしません。
鳴り止まない貝の音と、胸を打ちつけるような太鼓の音は、戦が激しくなるとますます大きくなっていって、私の不安を煽りました。
「うおぉぉっ!!」という敵兵の鬨の声。
どどどっ!!と鳴り響く軍馬の蹄の音。
鉄砲の音。それに伴って聞こえる味方の断末魔。
火薬の匂い、血の匂い・・・
初めて感じる『戦』というものはあまりに恐ろしくて、私は目をつぶって必死に恐怖を耐え忍んでいました。
胸に鉄砲音が響く度びくっと背中がうなって、それだけで死にそうで発狂してしまいそうで。
でもこれは、私の戦いでもあるのですから。
その一心で、じっと我慢しておりました。
戦が流れるにつれて、五郎兄様の下に戦況の知らせが次々と舞い込んでいきます。
「敵勢、総力をもって城に寄せて参っております!!現在、大手門にて食い止めておりますが我が方の被害も多数っ!!」
「一ノ門に敵が侵入!!山城組が応戦中!!」
「前葉組が壊滅です!!前葉甚助殿、討ち死に!!」
そんな悪い知らせを聞く度に、五郎兄様は悔しそうに拳を握ってじっと耐え忍んでいました。
今はただひたすら、ぐっと堪えるしか出来なくて。けれど、訪れる一瞬の勝機を見逃さないように、じっと本丸から戦況を見つめて。
そんな時でした。
「っ、来た・・・っ!!」
敵陣を眺める五郎兄様が、にやりと口元を歪めたのは。
「ご報告します!!藤沢川の別隊、敵本陣の横腹を突きましてございますっ!!」
麟虎様っ・・・!!
麟虎様が、敵に奇襲を仕掛けた・・・っ!!
「申し上げます!!敵の荷駄隊から煙がっ・・・火が上がっておりますっ!!」
「っ・・・!!」
その報告に、周りがざわめき立ちます。
お百合も、驚いたように両手を口に当てて。
五郎兄様が仰った通りに戦が流れていく・・・
もしかして、勝てるかもしれない・・・
そんなほのかな希望が、心の中で大きくなっていきます。
「お百合!!麟虎様がやりましたよ!!」
「はいっ!!松姫さま!!」
二人して、麟虎様のご活躍を喜んでいたとき
「・・・いや、おかしい」
蒼白した顔で、五郎兄様がぼそっと呟いたのでした。
その声に、喜んでいた者達は口を噤んで。しんと静まった本丸は、冷たい緊張感で包まれて。
五郎兄様はじっと外の戦況を凝視したまま、顔を動かしません。
「城への寄せ手に勢いがない・・・・・・まさか」
狼狽した五郎兄様は、だんっ!!と床机から立ち上がって
「我々の策が、見破られているのかっ!!」
えっ・・・・・
「ご報告しますっ!!城に寄せていた敵兵が次々と退いていきます!!」
「別隊、退路を断たれました!!敵勢の中で袋叩きにあっておりますっ!!」
袋叩きっ・・・!?
私は慌てて五郎兄様の隣に駆け寄り、外を眺めました。
それは、信じられないような光景でした。
赤備えの別隊千五百が、黒甲冑の織田勢に囲まれている様です。たかが千五百の小勢に、三万の大軍勢がよってたかって攻め寄せていました。
それはもはや正々堂々の戦いなどには見えなくて、一方的な虐殺のようなものでした。
赤備えの兵卒たちが次々と倒れていく様が遠くから見えます。
まるで虎の群れが一匹の鼠を襲っているような・・・
見る見るうちに別隊は織田勢に削り取られ・・・消え去っていくのでした。
「・・・・・・別隊、全滅。麟虎様・・・、お討ち死に」
落胆した声で、物見の兵は無情にもそう仰います。
誰も、何も言えませんでした。ただ暗い顔をして肩を落として、じっと足下を見つめることしか出来なくて・・・
わたしははっと気がついて、お百合の方を振り向きます。
「っ・・・!!」
お百合は呆然と、立ち尽くしていました。
顔をくしゃくしゃに歪めて、瞳は今にも零れそうに涙を溜め込んで。
けれど決して涙を零さないようにぐっと歯を食いしばって、お百合は前を見つめていました。私の顔をじっと。じっと。
『・・・約束します』
『例え何があっても、泣きません・・・』
昨夜の、約束。
麟虎様との最後の約束を、果たすため。
私のことを、守るため。
必死に涙を堪えるお百合に、そんなお百合の姿に、私は胸が苦しくて堪りませんでした。
あんなに、お百合は麟虎様を好いていたのに・・・
あんなに、麟虎様はお百合を大切に想っていたのに・・・
どうして、一途に想えば想うほど叶わなくなってしまうのですか・・・
こんなに、素敵なのに・・・
こんなに、純粋なのに・・・
全く報われないではないですか・・・っ!!
悔しくて、狂おしいほど悔しくて。
非情な現実に耐え忍ぶお百合の姿を、私はぎゅっと歯を噛み締めながら見つめていました。
こうして、織田との緒戦は大敗を喫したのです。