五つめ 決意
奇妙様。
貴方様が織田の大軍勢を率いて高遠に攻め寄せたこと。
武田の領地を侵略したこと。
奇妙様は一体どう思ってらっしゃったのでしょう?
今でも少し、ほんの少しだけ恨んでおります。
こうなってしまったことを。その宿命を。
存じてはおります。
乱世であるがゆえ、敵味方に分かれてしまうことは珍しいことでもありませんし、そのことをうじうじ言っても詮無いことくらい。
きっと奇妙様も、私が高遠に住んでいることなど知る由もなかったことでしょう。
けれど、私は悲しかったです。
一度でも愛した殿方に、軍勢を差し向けられることに。
今でもほのかに心に残った想い人に、命を取られてしまうことに。
せっかく忘れようとしていたのに。今になってその名前は聞きたくなかった。
だって、
敵将の貴方様に、きっと私は今でも恋焦がれてしまうから。
武田に連なる者として、憎むべき、殺してしまうべき貴方様を愛してしまうから。
それほど今でも私の心の中は奇妙様でいっぱいで、十年経とうと離れ離れになろうと変わるようなものではありませんでした。
今、目の前の敵勢の中に、奇妙様がいる。
手の届くところに、会いに行くことが出来る距離に、奇妙様がいらっしゃる。
その事実は私の心をとてもざわつかせて、落ち着く気配もありません。
けれど、私は武田の人間。
会いに行ったところで織田の手の者に殺されてしまうだけでしょう。
ですから敵の大将が奇妙様だと知らされたとき、私はこの感情をぐっと押し殺して、奇妙様のことを憎もうと決めました。
奇妙様は、敵方の大将なのですから。
私の命と、この高遠を奪おうとする憎むべき敵なのですから。
五郎兄様のお部屋に呼ばれたとき、私はそうお伝えしようと思ったのです。
五郎兄様の部屋に一人呼ばれたとき、私はどのような用件なのかはうすうす気付いておりました。
「・・・、本心を言おう」
五郎兄様の広いお部屋に、私と五郎兄様の二人っきり。強張った表情と鋭い眼光で、五郎兄様はじっと私を見つめていました。一寸たりとも、目を反らさずに。
私も、五郎兄様に臆さないようにと、じっと見つめ返していました。
「お前を、奇妙殿と戦わせたくはない。お前はお百合と城から・・・」
やはり・・・五郎兄様はそう仰ると思っていました。私のことを、心配してくださると。
でも・・・
「嫌ですっ!!逃げませぬ!!」
私は五郎兄様が言い終わらぬうちに、強く、強く叫びました。
「・・・・・・松、自分が口にしていることがどういうことかはわかっているのか」
冷え冷えとした低い声で、五郎兄様が私に尋ねます。
私は重く、「はい」と答えました。
逃げないということは、この高遠で死ぬということ。
敵勢は、三万。私達高遠の兵は、三千。
きっと、篭城戦になったとしても私達に勝ち目はないでしょう。
五郎兄様の難しいお立場を、私は存じておりました。
この高遠城は私達の故郷である甲斐の国の玄関口というべき場所に建っています。
勝てないからといってここで兵を退いてしまうと、甲斐への侵入を許してしまうことになる。
私達の故郷が、敵に蹂躙されてしまいます。
ですから負けるとわかっていても、五郎兄様は退くことが出来ないのです。
この高遠城を、諏訪の兄様から託されているから。
「私も武家の女です。武田信玄の娘です。五郎兄様がこの城を枕に討ち死になさると申すなら、地獄までついていきます」
「だが松・・・」
「私は、幼いころ五郎兄様より教えられました。武家の姫君は恥ずかしいことを決してしてはいけないのだと。逃げることは、恥ずかしいことだと思います。故に、私は逃げたりはしません」
畳み掛けるように、私はその決意を口にしました。
五郎兄様に有無も言わさず、喰い掛かるような勢いで。
私は、向き合います。
戦います。
戦と。
現実と。
この想いと。
奇妙様と。
それが私が、敵味方に分かれてしまった奇妙様に対する
唯一の誠実だと思うから。
私の決意と告白に、五郎兄様は何も仰ってはくれませんでした。
ただ黙って頬杖をつきながら、じっと考え事をしています。
すると、部屋の外からお百合の声が聞こえました。
「仁科さま。よろしいでしょうか?」
「どうした?」
「織田の使者の方が、参られております」
「・・・わかった。今すぐ向かう」
五郎兄様はぐっと立ち上がると、私に近づいて、突然不器用に私の頭を撫でました。
くしゃくしゃな髪のままじっと五郎兄様のお顔を見上げていると、五郎兄様はただ一言、「すまない」と仰って。
「奇妙殿の、首を取る」
それだけを言い残して、部屋から出て行かれました。
五郎兄様は、三千の兵で三万の織田勢に対して宣戦布告をなさいました。
大量の金子を持って服属を願い出た織田の外交僧の鼻を削いで、丁重にお帰ししたと聞きます。
きっと、五郎兄様は堪え切れなかったのでしょう。
高遠の地を荒らし、ましてや金で隷属を図ろうとする織田を。
婚約者であった私を見限り、見捨て、今になって命まで奪おうとする奇妙様を。
武士として、兄として、赦せなかったのだと思います。
奇妙と戦うことを決意した松姫さま・・・
戦に出るのは武士だけじゃない。武家の姫君の覚悟って、どんなものだったのでしょうね・・・