五つめ 暗雲
それは運命の、1582年の春。松姫さまが21歳のときでした。
高遠で過ごした歳月は、とても穏やかな日々でした。
のどかな高遠の風景と、ただ流れていく季節。それらを眺めながら感受性を育んだり、和歌の勉強も熱が入りました。
この高遠にはお百合も、五郎兄様も麟虎様もいらっしゃいます。
武田の姫ではなくなり、何も縛るものもなくただ一人の『松姫』として過ごす日々。それはとても自由で、楽しいものでした。
けれど、少し寂しかった。
高遠での日々は、奇妙様を忘れるために使うはずだった時間。存じてはいたのです。忘れようとも、忘れようとも、どれほど必死になったところで忘れられるはずがないことくらい。
そんな寂しさと、どうすることも出来ないもどかしさを抱えながら私は毎日を過ごしていました。
寂しくて、でも穏やかな日々がずっと続いていくものだと、私は根拠もなく信じておりました。
死ぬまで高遠で過ごして、私は年を取っていくのだと。
奇妙様。
貴方様が、私の前に現れるまでは。
高遠のお城に来てから気付くと十年の月日が経っていました。
あの時、家も何もかも失った私を五郎兄様は見捨てずに優しくしてくれたこと。私は今でも感謝しています。その恩義はきっと三日三晩語っても語り尽くせるものではないでしょう。
そんな二十一になった年の、冬の終わり。梅の花が満開の頃でした。
その日は冬とは思えないほどとても暖かい陽気で、日の光がとても気持ちの良い朝でした。自室の障子を開けて、お百合と二人、ぼんやりと青空を眺めていました。
ほのかに漂う梅の花の香りが、何とも芳しくて。
青空にぽつんと浮かぶ一欠片の雲を見つけて、私はふと口にしました。
「ん、『浮雲の』・・・」
「浮雲の・・・?」
早く歌を詠んで下さいっ!!と私に催促するような視線で、お百合は私に問いかけます。
「『浮雲の・・・末は風しか知らぬこと』」
「ほほぅ、珍しいですね松姫さま。含みを持たせた発句をつくるなんて。なら・・・」
お百合とたまに行う連歌遊びでした。私がつくった上の句に、お百合が楽しそうに想像力を搾らせながら下の句をつくります。
「『軽きに焦がれ 浮世より見ゆ』」
空に浮かんだ雲の流れ着く先は風しか知り得ないことだけど、その身軽さに憧れて私は地上から見上げている。
『浮く』という言葉一つで天と地、正反対の二つを言い表した技巧に凝った下の句です。
「さすがお百合、綺麗にまとめましたね」
私は本当に、お百合に感服していました。同じように和歌の勉強をしているのに、お百合のつくる歌は私から見てもとても綺麗で、素直に憧れてしまいます。
さすがは、『色恋のお百合』と思いました。
そんな、二人で空を見上げていたときです。
「っ?あれはなんでしょうか・・・煙・・・?」
お百合が、南の空を指差します。山の麓で、白く細く伸びる煙が見えます。それも、何本も。
「あれは、飯田のあたりでしょうか・・・山火事ですか・・・?」
それは、とても不気味で異様な光景でした。真っ青な青空に全く相応しくない煙の束が風にたなびいては滲んで、空を汚しているのです。
一体何が起こっているのでしょう。不安で心が掻き乱されるようでした。
「嫌な、感じがします・・・」
思わず私は、呟いてしまいました。
どうか、この不安が誠のものにならないようにと、心の中で小さく祈りながら。
・・・けれど、私は知らなかったのです。
この遠くでたなびく細い煙が空に溶け、暗雲となり、やがて日の光を私達から奪ってしまうことを。
「っ、なんですか・・・これは・・・」
次の日、城の大手門で私はその光景に唖然としてしまいました。
とても長い人の列。何百何千という民百姓が、こちらに向かってきているのです。十年もこの高遠の地に住んで、このようなことは初めてでした。
みな悲壮感漂う顔つきで、子供の手を引き、老人を労わり、家財道具一式を抱えて歩いていました。男の方は割合い少ないように思えて、むしろ女子供や老人が多いような気がしました。
疲れたように。苦しそうに。泣き崩れながら歩いている方もいました。
「・・・飯田村の百姓達だ。先日、飯田の城が敵に攻め落とされたと聞いている」
私の隣で、五郎兄様が深刻そうに仰いました。
「もしかして、あの煙が・・・」
飯田の村が焼かれてしまって、この人たちは・・・
ぎゅっと、胸が苦しくなります。村を、住んでいた家を焼かれ路頭に迷った飯田の方々の心情を思うと・・・
「とにかく、この者たちを受け入れる態勢を整えねばな。このままにはしておけぬ」
困ったように腕を組みながら、五郎兄様はそう呟きました。
高遠だって、決して大きな町やお城ではありません。けれど五郎兄様は城主として、助けを求めて身一つで逃げ出してきた飯田の方々を見捨てるようなことは出来ないでしょう。
心優しい五郎兄様ですから、なおのこと。
苦しいお立場だと、私も思います。
「はい・・・ですが、不安です・・・飯田が攻められたということは、ここにも敵勢が押し寄せてくるかもしれません・・・」
戦になる。
私は十年前のあの嵐の夜を思い出していました。戦のせいで、奇妙様との婚約は潰えてしまった。
あの戦は私から奇妙様を、父上を、姫としての誇りを。全てを奪っていったのです。
また同じようなことが起こるのかと思うと、私は思わず不安を口にしていました。
すると五郎兄様は優しく微笑んで、私の髪をそっと撫でるのです。
「心配するな。わしがついている。松のことは最後まで守るさ」
幼い頃から変わらない、五郎兄様の温かい手。いつもこの大きな手に撫でられて、私は安堵を覚えていました。
今になっても、変わらない。優しく、頼りになる五郎兄様がいて下さるから、きっと大丈夫。
五郎兄様の手は、そんな気持ちにさせてくれます。
「とにかく敵がわからなければ話にならない。今、麟虎を物見に遣わせたからそれを待ってからだな」
すると少しして、麟虎様が馬に乗って私達の方に駆け寄ってきて
「殿っ!!ただ今飯田から戻ってまいりました・・・っ!!松姫さまもいらっしゃるのですか・・・」
急いで馬から降りて五郎兄様にご報告なさろうとする麟虎様でしたが、私がいることに気付くと急に口を噤み始めます。
一体、どうしたというのでしょう・・・?
「どうした、麟虎?言え」
「いや、ですが松姫さまの前では・・・」
「私には構わなくて大丈夫です。どうぞ仰ってください」
「・・・っ、わかりました。敵の軍勢、飯田城を落としてゆっくりとこの高遠に向けて軍を進めております。敵の旗は、織田の木瓜紋。その数、およそ三万・・・」
「っ、織田・・・!!」
私は思わず口を出して、息も出来ないほど驚いていました。
敵は、織田・・・奇妙様の、家・・・
頭の中ではわかっていました。十年前のあの時から、織田は武田の敵国だと。
けれど本当なら織田は、私が嫁ぐはずだった家。
こうやって、殺し合いになってしまうなんて・・・
「三万、か・・・」
五郎兄様も、苦虫を噛み潰したように呟きます。
高遠の軍勢は、どれほど多く見積もってもきっと三千ほどしか戦える者はおりません。
その、十倍の敵勢・・・
かつて嫁ぐはずだった敵国。
圧倒的な数の軍勢。
どうしてこうして悪い知らせは重なっていくのでしょうか。
「あともう一つ。松姫さまの前で申し上げる訳には・・・」
「構いません。申して下さい、麟虎様」
未だ躊躇う麟虎様に、私は意を決して申しました。
「わかりました。では、敵の総大将は・・・」
それは、予想にもしない名前でした。
この十年、必死に忘れようとした名前です。
まさか、またこんな形で関わることになるなんて。
「敵の総大将は、織田奇妙丸です」
十年の時が過ぎて私は、もう一度その名前と向き合うことになるのでした。
とうとう始まった、甲州征伐。
武田を滅ぼそうとする奇妙の軍勢に、松姫さまは・・・
この物語一番の盛り上がり、運命の1582年が始まります。