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四つめ 侍女

松姫さま、16歳のお話です。


 奇妙様は、月はお好きでしょうか。



 私は、月を眺めることが幼き頃より好んでおりました。


 暗い闇夜の中でもほのかに、それでも確かに輝いている月に小さな憧憬を抱いておりました。



 つつじの屋敷から眺めていた、お月様。


 遥か遠く高遠の地から眺める、お月様。



 高遠の月は、幼き頃より見ていたつつじの月と何ら変わりませんでした。

 これほど私は変わってしまってしまいました。時というものは容赦なく残酷です。


 でも、その中でひとつ変わらない。月は何も変わらず満ち欠けを繰り返すだけ。それだけのことで、私はとても安心出来ました。


 全てがこれだけ変わってしまった中で何も変わらないものは、私の支えになっていたのです。


 故に私は、高遠でも良く部屋の縁側に出て月を眺めていました。


  

 これは私が十六。父上が死んで、五郎兄様にお世話になって、奇妙さまと別れてから五年のちのことです。






 私は月夜の下にて一枚の和紙を広げます。薄い桃色の桜が描かれている和紙は大変高価なもののようで、そこには三十一文字(みそひともじ)、求愛の和歌が書かれていました。


   君がため 百合の花さへ惜しくみる 山野に出でて覗く闇かな


「松姫さま、お呼びでしょうか?」


「良かった、お百合。待っていたのですよ」


 ちょうど、侍女のお百合が私の下へ来てくれました。私が何かを隠したように笑うので、お百合は不思議そうに首を傾げます。


「お百合への文をお預かりしたのです」


 私はその文を渡します。


「どちら様からでしょうか?」


「私は五郎兄様から預かりました。差し出されたのは兄様の小姓の方と聞いています」


 お百合はその文を軽く読んで「ふぅ」と息を吐くと


「駄目です」


 と言って突然その文を破ってしまいました。呆然とする私にお百合は明るく微笑みます。


「和歌が下手です。言葉遊びすらできぬ無知な男は、きっと大身しないでしょう。松姫さまも気をつけてくださいね♪」


 明るく笑うお百合に、私は「もったいない」と小言を言いました。


 五郎兄様からは良い人だと聞いているのに・・・


「第一、色恋沙汰に主君を巻き込むなど不条理です」


 と私の小言もお百合は最もな理由で払いのけて。私は苦笑するしかありませんでした。


 このやり取りをもう何度行ったことか。二十四のお百合は器量が良く、その上大人の艶やかさが現れて城下一の美女として有名でした。求愛の声が数多く、私もお百合の側にいてそれを垣間見ることがあるのですが、お百合はそれを全て断っているのです。


「ほら、私は見ての通り器量が良いではないですか。だからそう安売りはしないのですよ」


 とお百合は笑うのですが、奇妙さまと別れた私に気をつかっていることを、私は知っています。






 お百合はもう結婚してもおかしくない年頃。逆に相手がいないほうがおかしいのです。私はそれを、五郎兄様に相談していました。


「お百合に男を? お前は別に構わないのか?」


 五郎兄様は心配そうに私を見つめます。


「ええ、構いません。夫婦でいても私のお世話は出来ますし、私のためにお百合の人生を棒に振る訳にはいきません」


 お百合には、幸せになってもらいたいと強く思いました。


 まるで姉妹のようにずっと一緒に過ごして来ました。いつも私のためだけにたくさん笑って、泣いて・・・そんなお百合だから、今度は自分のために笑ってほしいのです。


 そんな思いの一心で、真っ直ぐ五郎兄様のお顔を見据えて、私は五郎兄様に訴えかけます。


「お百合には、ずっと私の婚約を応援してもらいました。次は、私がお百合を応援する番です」


 五郎兄様は変わらず心配そうな顔で「むぅ」と唸っておりました。


 けれどきっと私の気迫に押されたのでしょう。「わかった」と仰って


「お百合と合いそうな若い者を探して見合いを立てよう。だが、そこから先は当人同士の問題。わかっているな?」


 そう私に念を押した五郎兄様の瞳は、どこか優しい色が混じっているように見えました。すぐに私が自分で傷つかぬように心配してくれているのだと気付いて、私は少し申し訳ない気持ちになります。


 けれど、これは自分から望んでいることですから。私は、大丈夫です。


「肝に銘じております」


 そんな気持ちで、私は力強く頷きました。






 数日経ち、私の守番もりやくとして五郎兄様の家来の方が私達の側に仕えることになりました。


 名を麟虎(りんとら)様と申します。歳は二十三。顔立ちは凛々しく、槍の名手といいますが体格は強張っていない美青年です。戦馬鹿というわけでもなく和歌や漢語にも優れた才能がある非の付け所がない方でした。


「殿の命により、松姫さまの守役となりました、麟虎と申します。以後、何なりとお申し付け下さい」


 麟虎様の声は低くても、まるで穏やかな川を流れるような透き通っていて、とても心地良いものでした。物腰も低く、とても優しそうな方です。お百合に合う殿方が見つかったと、内心ほっとしました。


 それから、私の苦心する日々が始まりました。武田信玄仕込みの策を練り、謀略を用いて二人を親しくさせようと奮闘します。


 三人で市を見物に行くと私は迷子になり、山菜摘みに野山に出かけては腹痛になり先に一人帰って、極力二人きりにさせようと頑張ったのです。



 その甲斐あって、お百合と麟虎様の仲はとても縮まりました。時々二人で歌を詠みに出掛け、夜の梅や五月雨の中の桜を詠んで帰ってきます。


 私はそのような二人がを見て、とても嬉しいのです。とても、とても嬉しいのです・・・


 なのに、この感情は何なのでしょう。胸の中に蜘蛛の巣でもかけられたような、この得体の知れない感情は。


 お百合が楽しそうで私も楽しいはずなのに、どこか、空しい・・・



 すぐにその理由は気付きました。


 きっと私は、麟虎様に奇妙様の影を重ねていたのです。


 奇妙さまのお顔は拝見したことはないのですが、そう直感できました。


 もう叶わぬ感情だと、当の昔に理解していたはずなのに。諦めていたはずなのに。


 全ては過去のことで終わったはずなのに。






 ある日、夜遅くにお百合が帰ってまいりました。


「遅くなって申し訳ございません」


 戻ってきてすぐさま私に謝るお百合に、私は微笑みます。


「別に構わないです。それよりも、楽しかったですか?」


 深夜の逢引きでした。背徳感がある楽しい時間だったはずです。


 ところが、私はお百合は少し寂しそうな顔を垣間見てしまいました。


 お百合はすぐに笑ったのですが、それでも、辛いことを押さえつけたような笑顔で。


「『好いている』と、言われました」


「それは、いい知らせではないですか!」


 言葉では喜んでますが、悲しそうなお百合を前に少し心配になっていました。


「すぐに、すまぬと謝られましたが」


 お百合はそう言って私に一枚の紙を差し出します。その無地の紙には、丁寧な字で和歌が書かれていました。


   愛しきと 済むならかぐやの姫も居ず 


「何ですか、これは・・・」


 思わず言葉が出ませんでした。これはどう解釈しても悲恋の歌です。

 

 これを麟虎様が・・・


 私がお百合に視線を向けると、お百合はゆっくりと頷きます。


 私は、どうして麟虎様がこのような歌を送ったのか、全くわかりませんでした。



 どうして・・・


 好いているのではありませんか・・・



 麟虎さまに話を聞こうと思いました。これでは、二人とも切ないままです。


 ところが私が無言のまま部屋を出ようとすると、お百合は私の肩を掴んでそれを止めたのでした。


「行かないで下さい!!」


「でも・・・これでは納得できません!!」


「全て、お百合のことを想ってのことなのです。それは、存じております。だから・・・」


 弱々しく、それでも何かを耐えるように微笑んで


「・・・お百合は大丈夫です」


 悔しい。とても、とても悔しいです。


 お百合に、こんな顔をさせるなんて。


 お百合に、悲しい思いをさせるなんて。



 こんなこと、決して納得することなんて出来なくて、私は思い切り叫んでいました。


「っ、大丈夫なはずがないではないですかっ!!」


 お百合の手を無理やり振りほどいて、私はそのまま夜の闇へと消えていきました。






 こんなものは、絶対におかしいです。間違っています。


 あのお百合があんな笑みを見せるから、私はそう思わざるを得ませんでした。


 お百合は今までさまざまな色恋を経験してきたおなごです。そんなお百合が、こんな下手な終わり方で納得出来るとは思えません。



 赦せぬことです。


 お百合と麟虎様に奇妙様を重ねていた私は、特にそう思いました。お百合のあの笑顔を見るとあの日・・・奇妙様と別れることになったあの時を思い出してしまいます。


 何も覚えていませんが唯一、泣けぬ私の代わりに流したお百合の涙が、今でも痛く私の胸に染みるのです。



 誰もいない夜陰の矢倉。そこに麟虎様は佇んでいらっしゃいました。松明に火はなく、足元すら暗闇で見えないほどです。月光がかろうじて灯りとなり、ぼんやりと麟虎様のお顔が見えます。


「麟虎様ですか」


「松姫様・・・」


 薄暗いなか、気まずそうに微笑む麟虎様が見えました。その笑みは、お百合と同じつらいものを押さえつけているような歪んだ笑みでした。


「何故ですか麟虎様」


 私は麟虎様に近づきながら尋ねました。


「何故ですか・・・誠にお百合を好いておられるのではないのですか!!」


 愚問です。今の悲しそうな麟虎様を見ればわかります。お百合を心の底から大切にしているということを。


「好いていながら、何故ですか!! それでは理に適いませぬ!!」


 強く責める私に、麟虎様は優しい声で答えます。


「松姫様は、『好く』ということがどれほど詮無きことか、存じておられるのではありませんか?」


「っ、それは・・・」


 言い返すことが出来ませんでした。


 確かに私は、存じておりました。奇妙様のことをこれほどお慕いしていたのに切れてしまったこの縁を。『好き』という想いはとても弱くてちっぽけなものだと身を持って知っておりました。


 その事実に反するほど、私は強くはありません。


「百合殿とは全て話し合ったと思っております。互いの想いも、その障壁も。その上で、二人で決めたことなのです」


「ですから何故!!」


「百合殿は、松姫様を置いてはいけませぬ。松姫様がこれほど苦しい思いをなされているのに自分だけ結ばれて幸せになろうなど、あの方には出来ません。そのようなことをしようものなら、百合殿は罪悪感で狂ってしまわれる・・・」


 そんな・・・全ては私なのですか・・・


 私が、二人の恋路の障害になっている・・・



 私はただ、呆然としておりました。


『そこから先は当人同士の問題。わかっているな?』


 五郎兄様の忠告は、こういうことだったのですね。


 もうすでに破ってしまいましたが、その意味を私はようやく知ったのです。二人の恋路に干渉すれば傷つくのは私だということを、五郎兄様は心配しておられたのです。


「私は誠に、百合殿を好いております。ですが、今は待ちます。松姫様と百合殿が傷つかぬように。松姫様が奇妙殿と幸せになられる日まで」


 麟虎さまは優しく私を包むよう笑ってくれました。


 それがとても嬉しくて、とても切なくて。


「ですが・・・もうそんな夢は泡に消えました・・・」


「それでも構いませぬ」



   愛しきと 済むならかぐやの姫も居ず



 酷いです、麟虎様・・・


 そんな歌を詠われては・・・そんなことを言われては・・・私は耐え切れなくなるではありませんか。奇妙様への想いは、押し込んで消してしまおうとしていたのに・・・


「申し訳ございませぬ」


 私は謝って、麟虎さまの胸に顔を隠しました。泣いている顔を誰にも見られたくはなくて。


「ここはお百合のものでしょうが・・・今だけ私に貸して下さい」


 麟虎さまは何も言いませんでした。


『それがしは、全てを振っても松殿をお守り致しまする』


 幼き頃、奇妙様より頂いた手紙。それが、どれほど嬉しかったか。どれほど支えになったのか。どれほどの言葉を尽くしても、言い表せるものではありません。


 私はまぶたの裏で、奇妙様に抱かれているような気がしました。それが、とても安心するのです。


「奇妙様・・・」


「・・・いかがしましたか、松殿」


 優しい声が聞こえました。


 それは麟虎様が私のために演じてくれたのでしょうが、私は夢の中、本当に奇妙様に話し掛けられているのです。


 それが、とても嬉しくて幸せで。ずっと願っていたことが、今叶っているのですから。


「松は、奇妙様を愛しています・・・」


 寝言のように、私は幸せそうに小さく呟きました。






 その夜の後、麟虎さまが侍大将に出世することが決まりました。麟虎さまは優秀なので当然のことなのでしょうが、陰で自分が嘆願したとお百合は舌を出して微笑みました。


 麟虎さまは侍大将として兵卒を指揮する立場になったので、それからは中々会うことはできませんでした。ただ、時々見かけては私やお百合に微笑みかけてくれました。





 人の恋路とは無情なものだと、今ならそう思います。


 謀略や私欲が渦巻いて、たかが人を愛するということがとても難しいものになって。


 なのに、そこまで混沌とした中で何故人は無益の愛情を奉仕することが出来るのでしょうか。私も、お百合も、麟虎様も・・・


 どれほど頭を絞っても、答えなど出ませんでした。


 きっとそれは、人の身では解せないものなのでしょう。そのようなことを考えるのは詮無きことで、私はただ奇妙様を想えばいいのだと、今はただそれだけを信じております。


侍女のお百合回です。

相手役の麟虎も、オリジナルキャラクターです。


お百合の恋を眺めながら松姫さまは

忘れようにも忘れられない、心の中に住み着いた最愛と向き合って。

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