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三つめ 散花



 奇妙様は、椿の花はお好きでしょうか。


 お武家様の中では、椿は嫌われる方が多いとお聞きします。花が落ちる様が、まるで首を取られるようで縁起が悪いと・・・


 幼い頃、夢中で椿を育てたことがありました。毎日水をやり、大切にしていたことがあります。本当に大切で、文にも記していたでしょう?奇妙様もご存知のはずです。



 ある日、育てていた椿の花が私の目の前で落ちてしまいました。それまで何の変わりもなかった花が、急に首もとからぽっくりと。突然のことに唖然としたことを覚えております。


 奇妙様との婚約がなくなったとき、まさに私は椿のようでした。突然花が落ちたように、私の瞳に映る風景はその彩りを失ってしまいました。


 私はずっと、奇妙様と結ばれることを夢見ておりました。私の周りも、織田に嫁ぐことが私の役割だと思っておられたはずです。それが姫として生まれた私の、武田信玄の娘である私の務めだと、自分自身でも自覚しておりました。


 ですから、奇妙様との婚約がなくなったとき、私は私自身の全てを否定されたことと同じだったのです。嫁ぐことが出来なかった姫に、何の価値もありません。


 まだその葉が青々と茂っていようとも、花の落ちた椿には誰も見向きもしないのです・・・





 父上の葬儀が終わり、私は五郎兄様と一緒に高遠たかとおのお城に移ることになりました。


 高遠のお城は甲斐の西にあるとても重要な守りの要ともいうべきお城で、元々は諏訪の兄様のお城だったものを兄様が家督を継ぐことになり、五郎兄様に任されたそうです。


 それほど、諏訪の兄様が五郎兄様を信頼している証拠だとお百合から聞かされておりました。



 葬儀の間も、高遠に移る準備をしていても、私は変わらず魂が抜けたように何も考えられなくなっていました。


 前までは何気なく笑うことが出来たのに、今では上手く笑みを浮かべることができなくなりました。笑わなければ・・・笑っていなければ、周りのみなを心配させてしまう・・・そう思えば思うほど、顔が強張って。


 ふと俯くと、奇妙様のことが思い出されて泣きそうになります。奇妙様からいただいた文の一言一言が頭の中で聞こえてきて。



 あぁ、奇妙様はこんなに私にとって大切だったのだと。



 私の大部分を奇妙様が占めていたのだと、改めて噛み締めるのです。


 でも、それももう遅いですよね・・・


 そんな、後悔の中、自分の部屋で身支度をしていた時です。


「っ、お姉様・・・」


 そっと、障子が開けられます。


 そこにいたのは、菊姫でした。私の顔色を伺いながら、「入ってもいいですか・・・?」と私に尋ねます。


「どうぞ。今、支度が終わったところだから」


「つつじから出て行かれるのですよね、お聞きしました・・・」


 菊姫は私の目の前に座って、寂しそうにそう言いました。


 あぁ・・・そうですよね・・・


 菊姫の悲しそうな顔を見て、私は気が付きました。私が高遠に移るということは、菊姫とも離れ離れになってしまうのだと。ずっと奇妙様のことだけで頭がいっぱいで、そのことまで思いつかなかったのです。

 

「五郎兄様が高遠へお移りになさるのですから、私もついていかないと」


「でもっ、お姉様は奇妙様との婚約がなくなってとても苦しい思いをなさっているのに・・・さらにつつじの屋敷からも出て行かれるなんて・・・」


 私を、心配しているのですね・・・


 菊姫のその言葉がとても私には嬉しく感じました。ですがその反面、とても情けないと思いました。奇妙様のことで、私より幼い菊姫にまで心配させている。気を使わせてしまっている。


 私は、そんなに憔悴していたのだと・・・



 私は、心配をかけさせまいと笑みを作りました。不器用で、いびつに歪んだ笑みだったのですけど、精一杯に強がって。


「詮無いことなのです。これ以上五郎兄様にご迷惑はかけられません」


 どうしようもないことなのです。それは私自身が一番わかっていました。


 だって、


「それに」


「私は、もう武田の姫でも織田の姫でもないのですから・・・」


「っ、そんなこと、言わないでください・・・」


 私が自虐的にそう口にすると、菊姫は悲しそうに否定しました。


 でも、実際そうなのですよ。


 武田の姫でなくなった私はもう、つつじには居られない。


 それが、現実でした。


「そんな心配そうな顔をしないで。私は大丈夫、五郎兄様もいらっしゃるのだし、それにきっと、これで良かった」


「どういう、ことですか・・・?」


「つつじに居ればきっと、いつまでも奇妙様のことを引きずってしまうから・・・新しい場所で一から始めればいつかは、奇妙様のことを忘れることが出来ると思う」


 奇妙様のことを、忘れる。


 何も考えずに口にした言葉でした。でも、『あぁ、そうなんだ』とも思って。



 忘れないと。


 奇妙様のことも、今までやり取りした文のことも。全て。


 私に、許婚などいなかったのだと。


 私は、奇妙様の婚約者ではないのだから。




 それは、小さな決意でした。


 とても苦しい、自分の中との戦い。


 忘れることなど出来ないと、痛いほど知っているのに・・・


 でも、忘れないと・・・


 すっと頬を雫が流れていきます。


「お姉様っ!?大丈夫ですか!?」


 急に私が泣き出すので菊姫が慌てるのですが、目の前にいる菊姫の顔もわからないくらい、私の視界は滲んで、ぼやけて。


「お慕いしております・・・」


 素直な心が、涙と一緒に零れていきます。


「お慕いしております、奇妙様・・・」


 とても。とっても。なんと表していいのかわからないほど、奇妙様のことを好いております。


 でも、


「今日で、終わりに致します」


 奇妙様のことを、忘れます。


「お姉様・・・」


 私はぎゅっと菊姫の身体を抱きしめました。


「・・・離れても菊姫のことを、これくらい思っていますから」


 精一杯の力で菊姫を抱きしめます。


 菊姫も、強い力で抱きしめ返してくれます。


「私も、これぐらいお姉様のことを好いています・・・離れても、菊はお姉様の味方です・・・武田の姫じゃなくなっても、菊はお姉様の妹です・・・」


 抱きしめる菊姫の身体はとても温かかったことを覚えています。


 その温もりが、私にとってはとても嬉しかったのです。


 全てを失っても、奇妙様を失っても、私はまだ一人ではないと実感出来て。




 私は、これから旅立たなければいけません。


 奇妙様を忘れるという、とても険しい旅路です。


 それが、とても怖かったのです。


 けど、私には、菊姫がいる。


 お百合も、五郎兄様もいらっしゃいます。


 ですから、私はまだ頑張ることが出来るのだと、胸の奥で小さく思えて。



「さようなら、菊姫・・・」

ここまでが『躑躅ヶ崎館編』って感じで

次の四つめから舞台が「つつじ」から「高遠」に変わります。


最愛の奇妙を失った松姫さまがこれからどのような運命を辿っていくのか(まぁ、史実通りなのですが)

のんびりと書き進めていきたいと思います。

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