表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「あたしを甲子園に連れてって」なんて言えないか。

作者: 水瀬さら

「もしもおれが甲子園に行ったら……」

 練習が終わったグラウンドの端っこ。坊主頭の圭吾が、あたしのそばでそこまで言って、言葉をにごした。

「あ、やっぱ、それは無理だから……県大でベスト8、いやベスト16くらいに入ったら……」

「なにそれ。超情けない!」

 片づけていた野球用具を放り出し、あたしは圭吾の前に立つ。

「男だったら言ってみなさいよ! おれは絶対甲子園に行ってやる、くらいなことを!」

「ム、ムリに決まってんだろ。そんなの」

「はぁー、情けないヤツ」

 あたしはため息をついて、また片づけの続きをする。

「で、甲子園、じゃなくてベスト16まで行ったらなんなのよ?」

「え、いや、やっぱいいや。なんでもない」

 圭吾があたしから視線をはずして、持っていた帽子を深くかぶる。

「じゃ、またな、奈緒」

 あたしの前で回れ右をして、薄汚れた練習着姿の圭吾は、グラウンドの向こうへ去って行った。

「もう……圭吾のバカ」

 あたしはそんな圭吾の背中を見送って、深い深いため息をつく。


 あたしがマネージャーをしている公立高校の野球部で、背番号1を背負っている圭吾のことは、実は小学生の頃から知っていた。

 あたしはお兄ちゃんの影響で、地域の子ども会が運営している少年野球チームに入っていて、圭吾は別の小学校の野球チームにいた。

 細身で小柄だった圭吾はその頃からピッチャーで、コントロールはいいけど、あんまりパワーはなくて、強くもなく弱くもない、特に目立たない選手だった。

 だけどあたしは圭吾のことをよく知っていた。

 だって圭吾はいつも泣いていたから。

 自分がエラーをした時はもちろん、監督に大声で注意された時も、試合に勝った時も負けた時も、涙をぽろぽろこぼして。

 ――あいつ、また泣いてる。男のくせに。

 あたしはそんな圭吾のことが歯がゆくて、そばに駆け寄ってぶん殴ってやりたかったけど、そんなことはできなくて。

 仕方なく、いつも遠くから、圭吾の姿を見ているだけだった。


 中学に入ったら、同じ学校に圭吾がいた。

 あたしはテニス部に入っていて、校庭の半分で練習している野球部をいつも見ていた。

 いや、ちょっと違う。野球部にいる圭吾のことをいつも見ていた。

 先輩にしごかれて、顧問の先生に怒鳴られて、圭吾はまた泣いちゃうんじゃないかって。

 だけど中学の校庭で、圭吾が泣いている姿は見たことがなかった。

 砂埃の舞う中、練習着と顔を真っ黒に汚して、圭吾は黙々とボールを投げ続けていた。


「いよいよ明日から県大会が始まる。三年生にとっては最後の大会だ。気を引き締めていくように!」

 県大会初戦の前日、ミーティング中の圭吾の顔は、こわばっていた。

 ああ、やっぱり緊張してるな。最後の大会だから無理もないけど。

 だけどもっとさ、「やったるで!」って、気合入れた表情ができないのかなぁ?

 あたしは小さくため息をついて、部室を出る圭吾の後を追いかける。


「圭吾!」

 外は暗くなっていた。振り返った圭吾の向こうに、騒ぎながら歩いて行く仲間たちの姿が見える。

「なんか用?」

「なんか用じゃないよ。なにその情けない顔」

 圭吾はあたしの前で、眉をひそめる。

「しょうがないだろ。明日のこと考えてたら、腹痛くなっちゃって」

「は? 今からそんなんで、明日投げられるの?」

「わかんない。でもおれがダメなら、飯塚がいるから何とかなるよ」

 あたしは後ろから圭吾の坊主頭をぽかっと殴る。

「あんたねー。そんな情けないこと言っててどうすんのよ! おれに任せとけってどうして言えないの!」

「い、言えるわけないだろ。そんなこと」

 こんなんでよく今まで、ピッチャーなんてできたよね。

 試合前はお腹が痛くなるほど緊張して、自信のかけらもなくて、すぐ人任せにする。本当に情けない男。

 そしてそんな男のことを、小学生の頃から見守っていたあたしは、本当にバカな女。


「もう、いい」

「え?」

 ぼんやりとした暗がりの中、立ち止まったあたしに圭吾が振り向く。

「もういい。あんたなんか……もう知らないんだから」

 うつむいてぎゅっと唇を噛みしめる。

「奈緒?」

「あんたなんか、明日負けちゃえばいいんだ!」

 顔を上げてそう怒鳴って、目の前に立っている圭吾を押しのけるようにして駆け出した。

 そうだ、負けちゃえばいいんだ。

 そうすればあたしはもう、こんな圭吾の姿を見ていなくても済むんだから。

 少し先を歩いていた仲間たちが、あたしのことを振り返って、不思議そうな顔をしている。

 なにやってるんだろう、あたし。

 みんなを追い越して走りながら考える。

 なんであたしが――泣いてるんだろうって。


「奈緒ー。どうしたんだ? 電気もつけないで」

 布団にもぐりこんでいたあたしの耳に、お兄ちゃんの声が聞こえる。

 パチンとスイッチの音がして、部屋の中がパッと明るくなる。

「外に来てるぞ」

「……誰が?」

「圭吾が」

 あたしは布団から飛び起きて、カーテンをちょっとずらして外を見る。

 街灯のぼんやりとした灯りの下に立っている圭吾は、すごく弱々しく見えた。

「会いたくないって言って!」

「は? お前ら、ケンカでもしたのかぁ?」

 あたしと一緒で、小学生の頃から圭吾のことを知ってるお兄ちゃんが、にやにや笑いながら言う。

「ケンカとかじゃないの! あんな弱っちい男、大っ嫌いなの!」

「わかった、わかった。そう言っとくよ」

 あたしに背中を向けて、お兄ちゃんが部屋を出て行った。

 あたしはあわてて、もう一度窓の外を見る。

 玄関から出てきたお兄ちゃんが圭吾に何か言って、圭吾はそのまま何も言わずに帰って行った。


 次の日は晴天だった。

 だけどあたしの気分は、とてつもなく重い。

「奈緒、早く支度しなさい。今日は大事な試合なんでしょ?」

「わかってる」

 お母さんの声にせかされながらリビングを出る。すると二階から降りてきたお兄ちゃんとばったり会った。

「おう、今日の試合、頑張れよ」

 あたしはお兄ちゃんの顔をじっと見上げる。

「昨日……ほんとに言ったの?」

「え、何を?」

「圭吾に……ほんとに言ったの?」

「ああ、あれな。お前みたいな弱っちい男は大っ嫌いだ、って言っておいたぞ」

 はははっと笑ってお兄ちゃんが背中を向ける。あたしは深いため息をつく。

 昨日、負けちゃえばいいって言って別れたこと。その上、大嫌いなんて言っちゃったこと。

 ああ、今日圭吾に会ったら、どんな顔をしたらいいの?

 大嫌いって言うんだったら、せめて試合が終わってから言えばよかった。


 うつむいたまま家を出て、うつむいたまま歩いていたから、そこに圭吾が立っていたことに気がつかなかった。

「おはよ」

 声をかけられ顔を上げたら、目の前にユニフォーム姿の圭吾がいて、あたしは声も出なかった。

「あの、さ」

 圭吾がいつもみたいに、困ったような顔をする。だけど今日はあたしも困ってる。

 昨日あんなことを言ってしまって、やっぱり少し後悔していたから。

 そんなあたしの前で圭吾がつぶやいた。

「おれ……負けないから」

「え?」

 顔を上げて圭吾を見る。圭吾はあたしを見ないまま、もう一度言う。

「おれ、今日の試合負けないから」

「な、なんで急にそんなこと言うの?」

 わけわかんないよ。いつもの圭吾だったら、そんなこと言わないでしょ?

「ずっと言おうと思ってたことがあって……そんで昨日、奈緒が泣いてるの見て、やっぱり言わなくちゃって思って……」

「だ、だから、何を?」

 そう口に出しながら、胸がドキドキしていた。圭吾の向こう側に見える、梅雨の明けたばかりの空がやけに眩しい。

 少しの間黙り込んだ圭吾が、顔を上げてあたしのことを真っ直ぐ見た。

「おれ、奈緒のことが好きだ」

 圭吾の声があたしに届く。ずっとずっと、待ち続けていた圭吾の声が。

「だから言おうと思ってた。もしもおれが甲子園に行ったら……いや、ベスト16……じゃなくて、い、一回戦でも勝ったら……おれと付き合ってください、って」

 そこまで言うと、圭吾は帽子のつばで顔を隠した。両方の耳がすごく赤くなってる。あたしはそんな圭吾の前で呆然と立ってる。


「そ、それでも、おれのこと大嫌いなら……しょうがないけど……」

「わ、わかった。いいよ」

 うつむいてしまった圭吾が、またゆっくりと顔を上げる。

「一回戦でも勝ったら……あたし圭吾と付き合ってあげる!」

 ぽかんと口を開けて、圭吾があたしを見ている。

「だから勝ってよ。絶対。一回戦で……いいんだから」

 そう言いながらあたしは思う。あたし今、すごく情けないこと言ってない?

 こういう時は「あたしを甲子園に連れてって!」くらい言うべきじゃないの?

 だけどそんなプレッシャーかけたら、きっと圭吾は一球も投げられなくなる。

 ああ、なんてヘタレなあたしたち。

 そんなことを考えているあたしを見ながら、圭吾が言う。

「わかった。今日の試合は、絶対勝つ」

 見慣れた圭吾の顔が、あたしの前でふわりとゆるむ。

 ああ、そうか。あたしはこんなふうに笑う、圭吾の顔が見たかったんだ。


「その代わり負けたら、一生口きいてあげないからね!」

「え、ウソだろ?」

 あせった様子の圭吾の顔もかわいくて、あたしはまたつい意地悪を言う。

「一回勝つだけでいいんだよ。たった一回。甲子園に行くより全然簡単でしょ?」

「簡単とか言うなよ……なんか、腹痛くなってきた……おれ」

 お腹を抱える圭吾と並んで、グラウンドに向かう。

 小学校の校庭で、ボールを追いかけていた頃と同じように、あたしと圭吾の上に広がる空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] タッチの南ちゃんを連想しちゃいます。 面白かったです! 青春!
2023/08/21 22:55 退会済み
管理
[良い点] 主人公のキャラがいい。微妙な乙女心が良く描かれている。 [気になる点] ストーリーをもっと盛り上げて欲しかった。平板すぎる。物足りなさが残った。 [一言] 私も野球小説を投稿しています。「…
[一言] こんにちは。 甘酸っぱくて初々しくてすごくいいですね。青春だなあと思いました。 この雰囲気が好きです。
2014/08/02 13:11 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ