「あたしを甲子園に連れてって」なんて言えないか。
「もしもおれが甲子園に行ったら……」
練習が終わったグラウンドの端っこ。坊主頭の圭吾が、あたしのそばでそこまで言って、言葉をにごした。
「あ、やっぱ、それは無理だから……県大でベスト8、いやベスト16くらいに入ったら……」
「なにそれ。超情けない!」
片づけていた野球用具を放り出し、あたしは圭吾の前に立つ。
「男だったら言ってみなさいよ! おれは絶対甲子園に行ってやる、くらいなことを!」
「ム、ムリに決まってんだろ。そんなの」
「はぁー、情けないヤツ」
あたしはため息をついて、また片づけの続きをする。
「で、甲子園、じゃなくてベスト16まで行ったらなんなのよ?」
「え、いや、やっぱいいや。なんでもない」
圭吾があたしから視線をはずして、持っていた帽子を深くかぶる。
「じゃ、またな、奈緒」
あたしの前で回れ右をして、薄汚れた練習着姿の圭吾は、グラウンドの向こうへ去って行った。
「もう……圭吾のバカ」
あたしはそんな圭吾の背中を見送って、深い深いため息をつく。
あたしがマネージャーをしている公立高校の野球部で、背番号1を背負っている圭吾のことは、実は小学生の頃から知っていた。
あたしはお兄ちゃんの影響で、地域の子ども会が運営している少年野球チームに入っていて、圭吾は別の小学校の野球チームにいた。
細身で小柄だった圭吾はその頃からピッチャーで、コントロールはいいけど、あんまりパワーはなくて、強くもなく弱くもない、特に目立たない選手だった。
だけどあたしは圭吾のことをよく知っていた。
だって圭吾はいつも泣いていたから。
自分がエラーをした時はもちろん、監督に大声で注意された時も、試合に勝った時も負けた時も、涙をぽろぽろこぼして。
――あいつ、また泣いてる。男のくせに。
あたしはそんな圭吾のことが歯がゆくて、そばに駆け寄ってぶん殴ってやりたかったけど、そんなことはできなくて。
仕方なく、いつも遠くから、圭吾の姿を見ているだけだった。
中学に入ったら、同じ学校に圭吾がいた。
あたしはテニス部に入っていて、校庭の半分で練習している野球部をいつも見ていた。
いや、ちょっと違う。野球部にいる圭吾のことをいつも見ていた。
先輩にしごかれて、顧問の先生に怒鳴られて、圭吾はまた泣いちゃうんじゃないかって。
だけど中学の校庭で、圭吾が泣いている姿は見たことがなかった。
砂埃の舞う中、練習着と顔を真っ黒に汚して、圭吾は黙々とボールを投げ続けていた。
「いよいよ明日から県大会が始まる。三年生にとっては最後の大会だ。気を引き締めていくように!」
県大会初戦の前日、ミーティング中の圭吾の顔は、こわばっていた。
ああ、やっぱり緊張してるな。最後の大会だから無理もないけど。
だけどもっとさ、「やったるで!」って、気合入れた表情ができないのかなぁ?
あたしは小さくため息をついて、部室を出る圭吾の後を追いかける。
「圭吾!」
外は暗くなっていた。振り返った圭吾の向こうに、騒ぎながら歩いて行く仲間たちの姿が見える。
「なんか用?」
「なんか用じゃないよ。なにその情けない顔」
圭吾はあたしの前で、眉をひそめる。
「しょうがないだろ。明日のこと考えてたら、腹痛くなっちゃって」
「は? 今からそんなんで、明日投げられるの?」
「わかんない。でもおれがダメなら、飯塚がいるから何とかなるよ」
あたしは後ろから圭吾の坊主頭をぽかっと殴る。
「あんたねー。そんな情けないこと言っててどうすんのよ! おれに任せとけってどうして言えないの!」
「い、言えるわけないだろ。そんなこと」
こんなんでよく今まで、ピッチャーなんてできたよね。
試合前はお腹が痛くなるほど緊張して、自信のかけらもなくて、すぐ人任せにする。本当に情けない男。
そしてそんな男のことを、小学生の頃から見守っていたあたしは、本当にバカな女。
「もう、いい」
「え?」
ぼんやりとした暗がりの中、立ち止まったあたしに圭吾が振り向く。
「もういい。あんたなんか……もう知らないんだから」
うつむいてぎゅっと唇を噛みしめる。
「奈緒?」
「あんたなんか、明日負けちゃえばいいんだ!」
顔を上げてそう怒鳴って、目の前に立っている圭吾を押しのけるようにして駆け出した。
そうだ、負けちゃえばいいんだ。
そうすればあたしはもう、こんな圭吾の姿を見ていなくても済むんだから。
少し先を歩いていた仲間たちが、あたしのことを振り返って、不思議そうな顔をしている。
なにやってるんだろう、あたし。
みんなを追い越して走りながら考える。
なんであたしが――泣いてるんだろうって。
「奈緒ー。どうしたんだ? 電気もつけないで」
布団にもぐりこんでいたあたしの耳に、お兄ちゃんの声が聞こえる。
パチンとスイッチの音がして、部屋の中がパッと明るくなる。
「外に来てるぞ」
「……誰が?」
「圭吾が」
あたしは布団から飛び起きて、カーテンをちょっとずらして外を見る。
街灯のぼんやりとした灯りの下に立っている圭吾は、すごく弱々しく見えた。
「会いたくないって言って!」
「は? お前ら、ケンカでもしたのかぁ?」
あたしと一緒で、小学生の頃から圭吾のことを知ってるお兄ちゃんが、にやにや笑いながら言う。
「ケンカとかじゃないの! あんな弱っちい男、大っ嫌いなの!」
「わかった、わかった。そう言っとくよ」
あたしに背中を向けて、お兄ちゃんが部屋を出て行った。
あたしはあわてて、もう一度窓の外を見る。
玄関から出てきたお兄ちゃんが圭吾に何か言って、圭吾はそのまま何も言わずに帰って行った。
次の日は晴天だった。
だけどあたしの気分は、とてつもなく重い。
「奈緒、早く支度しなさい。今日は大事な試合なんでしょ?」
「わかってる」
お母さんの声にせかされながらリビングを出る。すると二階から降りてきたお兄ちゃんとばったり会った。
「おう、今日の試合、頑張れよ」
あたしはお兄ちゃんの顔をじっと見上げる。
「昨日……ほんとに言ったの?」
「え、何を?」
「圭吾に……ほんとに言ったの?」
「ああ、あれな。お前みたいな弱っちい男は大っ嫌いだ、って言っておいたぞ」
はははっと笑ってお兄ちゃんが背中を向ける。あたしは深いため息をつく。
昨日、負けちゃえばいいって言って別れたこと。その上、大嫌いなんて言っちゃったこと。
ああ、今日圭吾に会ったら、どんな顔をしたらいいの?
大嫌いって言うんだったら、せめて試合が終わってから言えばよかった。
うつむいたまま家を出て、うつむいたまま歩いていたから、そこに圭吾が立っていたことに気がつかなかった。
「おはよ」
声をかけられ顔を上げたら、目の前にユニフォーム姿の圭吾がいて、あたしは声も出なかった。
「あの、さ」
圭吾がいつもみたいに、困ったような顔をする。だけど今日はあたしも困ってる。
昨日あんなことを言ってしまって、やっぱり少し後悔していたから。
そんなあたしの前で圭吾がつぶやいた。
「おれ……負けないから」
「え?」
顔を上げて圭吾を見る。圭吾はあたしを見ないまま、もう一度言う。
「おれ、今日の試合負けないから」
「な、なんで急にそんなこと言うの?」
わけわかんないよ。いつもの圭吾だったら、そんなこと言わないでしょ?
「ずっと言おうと思ってたことがあって……そんで昨日、奈緒が泣いてるの見て、やっぱり言わなくちゃって思って……」
「だ、だから、何を?」
そう口に出しながら、胸がドキドキしていた。圭吾の向こう側に見える、梅雨の明けたばかりの空がやけに眩しい。
少しの間黙り込んだ圭吾が、顔を上げてあたしのことを真っ直ぐ見た。
「おれ、奈緒のことが好きだ」
圭吾の声があたしに届く。ずっとずっと、待ち続けていた圭吾の声が。
「だから言おうと思ってた。もしもおれが甲子園に行ったら……いや、ベスト16……じゃなくて、い、一回戦でも勝ったら……おれと付き合ってください、って」
そこまで言うと、圭吾は帽子のつばで顔を隠した。両方の耳がすごく赤くなってる。あたしはそんな圭吾の前で呆然と立ってる。
「そ、それでも、おれのこと大嫌いなら……しょうがないけど……」
「わ、わかった。いいよ」
うつむいてしまった圭吾が、またゆっくりと顔を上げる。
「一回戦でも勝ったら……あたし圭吾と付き合ってあげる!」
ぽかんと口を開けて、圭吾があたしを見ている。
「だから勝ってよ。絶対。一回戦で……いいんだから」
そう言いながらあたしは思う。あたし今、すごく情けないこと言ってない?
こういう時は「あたしを甲子園に連れてって!」くらい言うべきじゃないの?
だけどそんなプレッシャーかけたら、きっと圭吾は一球も投げられなくなる。
ああ、なんてヘタレなあたしたち。
そんなことを考えているあたしを見ながら、圭吾が言う。
「わかった。今日の試合は、絶対勝つ」
見慣れた圭吾の顔が、あたしの前でふわりとゆるむ。
ああ、そうか。あたしはこんなふうに笑う、圭吾の顔が見たかったんだ。
「その代わり負けたら、一生口きいてあげないからね!」
「え、ウソだろ?」
あせった様子の圭吾の顔もかわいくて、あたしはまたつい意地悪を言う。
「一回勝つだけでいいんだよ。たった一回。甲子園に行くより全然簡単でしょ?」
「簡単とか言うなよ……なんか、腹痛くなってきた……おれ」
お腹を抱える圭吾と並んで、グラウンドに向かう。
小学校の校庭で、ボールを追いかけていた頃と同じように、あたしと圭吾の上に広がる空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。