膨らむ不安
「ほな、俺ホンマにそろそろ戻るわ」
陽菜とアドレスを交換し終えると、古後が言った。
「またな。掛川、篠宮さん。あー……掛川」
「何だよ」
古後は別に何も悪くないのに、オレはつっけんどんな返事をしてしまう。
「余計なお世話かもしれんけど、篠宮さん、お前の試合見るんホンマに楽しかったみたいやから、倒れたことあんまり怒らんといてやってな」
「…………」
そんなの知ってる。陽菜が直にオレへ大会を観に行きたいと頼んできたんだ、だからお前に言われるまでもなく知ってる、承知してる。そもそも、オレの方が陽菜のことを知ってるのに、なんでお前にそんなこと言われなきゃなんねえんだよ。
「それはヒヨコの反省次第だな」
オレはむっつりとした表情で答える。
対して陽菜はというと満面の笑みで
「カナくん! 助けてくれたことも、ワルひよのことも、本当にありがとね! またね!」
と言って、熊のように大きな古後の手をぎゅっと握りしめた。
「……っ」
今日一番胸がざわついた。
陽菜は天然でたらしなところがあるから、普段から他人へのボディタッチが多い。そんな懐っこい部分がたまらなく可愛いといつもなら思うのに、今は誰にでも愛想を振りまくところが疎ましく感じられた。
古後はほんの少し頬を染めながら「ええて」と言った。
「篠宮さんて、小動物みたいで可愛ぇな」
去り際にひっそりとそう零し、古後は医務室のドアを開けて出ていく。その際にまた足を引っかけたのが、陽菜に手を握られて動揺したんじゃないかと勘ぐってしまい、オレは自分の器が小さいことに嫌気がさした。
オレ、古後のこと警戒しすぎだろ……水泳のライバルだから……?
それとも……。
「か、可愛いだって……!」
紅潮した頬を両手で押さえながら陽菜が言った。
「ショウちゃん、聞いた? カナくん、私のこと可愛いって……!」
「マスコット的な意味での可愛いだろ。オレだってお前によく言ってやってんじゃねえか」
だからそんなに照れてんじゃねえよ。赤くなってんなよ。
「もー! ショウちゃんの言う『可愛い』とカナくんが言ってくれた『可愛い』は違うのー!」
普段から全校生徒に散々可愛いと言われていることに気付いていない陽菜は、ベッドシーツをばんばん叩きながら怒る。だが、オレの横顔を見てふと手を止めた。
「ショウちゃん……怒ってる? 倒れたこと」
陽菜はオレの機嫌の変化に鋭い。その割には怒りの理由をさっぱり理解していないので、オレの眉間は険しくなるばかりだった。
「もう怒ってねーけど……ヒヨコお前、明日の決勝は応援にくるなよ」
「え……え? 何でー!?」
「何でもクソもあるか! 当たり前だろ! また倒れたらどうすんだ!」
「倒れないもんー! ……ふえっ」
大声を出して目眩がしたのか、倒れこみそうになった陽菜を支える。オレは強い口調で言った。
「ほら見ろ。明日は家で大人しくしてろ」
「でも、カナくんから『ワルひよ』受け取らなきゃ……!」
「古後のアドレス教えろ。マスコットはあいつからオレが受け取っておいてやる」
「そんな人任せなこと出来な……」
「陽菜」
陽菜は怯えたように細い肩を震わせた。普段陽菜のことを「ヒヨコ」と呼ぶオレが怒った時だけ「陽菜」と呼ぶことを、陽菜はよく知っているからだ。
「ワガママも大概にしろ。水泳部の後輩たちも今ごろ心配してる」
陽菜はまだ何か言いたそうに口を開いたが、怖気づいたように唇を噛み、瞳を潤ませた。
「……歩けるようになったら戻るぞ、いいな」
陽菜はせめてもの抵抗のように、ベッドの上で膝を抱えた。
「陽菜」
「……分かったもん! ショウちゃんのバカ! 意地悪! 過保護!」
「意地悪って何だよ。心配してやってんだろーが」
心配しているなんて、なんて都合のいい言葉だろうと思った。たしかに陽菜の体調の心配はしている。でも本当はそれ以上に、陽菜をもう一度古後と会わせるのを避けたいんだ。
ふてくされた陽菜が歩けるまで回復してから、オレは陽菜とともに、会場前で待っていた水泳部の奴らと合流した。その間も、いつもなら隣を歩いている陽菜はオレの八メートル以上後ろを俯き加減で歩いていた。
叶はよそよそしいオレと陽菜の態度に何を思ったのか
「センパーイ! 戻ってくるの遅かったじゃないッスかー! もしかしてあれですか、陽菜センパイと終えちゃった感じッスか!」
「終えたって何をだよ」
「決まってんじゃないッスか! ベッドがある医務室でヤることっていったら一つしかないでしょ! 初体験終えちゃったから二人ともなんか気恥ずかしくて目合わさないんでしょ? あーいいなーそんで陽菜センパイの身体はどう……ぐひっ」
「だからどうしてお前はそうゲスいんだよ!」
オレはちゃらついた叶の顔面に一発お見舞いした。叶は高い鼻を押さえ口でふがふが息を吸いながら
「じゃあ何で遅かったんスかー!」
と不服そうに零した。
こうなると靴の裏に貼りついたガムのように粘着質な叶はなかなか引かない。オレはしぶしぶ叶に医務室での出来事を話した。話し終えると、叶は珍しく神妙な顔つきで唸った。
「うーん……ま、心配いらないんじゃないッスかね!」
オレは叶に相談した自分がバカだったと猛省した。こいつが真面目な表情を一分でも保っていられるわけがない。しかし、叶には叶なりの考えがあるようだった。
「だーって、掛川センパイの隣には陽菜センパイが、陽菜センパイの隣には掛川センパイがいるのは当然の理なんスもん。それをぽっと出てきた奴が裂けるわけなんかないですって」
「……そうか?」
「そうッスよ! センパイ、気ぃ回しすぎッスよー!」
叶は安心させるようにオレの背をバンと叩く。オレは叶の能天気さに少し救われた気分になりながら陽菜の方を振り返った。
ちょうどこちらを見ていた陽菜は、オレと目が合うとばつが悪そうに車道の方へ視線を反らす。それにチクリと胸が痛んだ。
大丈夫、大丈夫だ……。叶も当然の理って言ってたじゃねえか。オレの隣には陽菜が、陽菜の隣にはオレがいることは、当たり前で、これからも揺るぎようのない事実なんだ。