この燻りに名前をつけるなら
更新が遅れて申し訳ありません。
「ほんならその『ショウちゃん』て奴、今ごろ君を心配してるかもしれへんな」
「え……っ」
男の発言を受けて、陽菜の声が焦りの色をはらんだ。
「どうしよう……怒られちゃう。ショウちゃんってね、すっごい怒りんぼなの! お説教されたらやだなぁ……あ、今からショウちゃんのとこに行ったらばれないかな?」
「あかんて」
関西弁の男は優しく陽菜をいさめた。
「倒れたばっかりでまだ本調子じゃないやろ。『ショウちゃん』にメールして、迎えにきてもらえるまで大人しくしとき」
「んー……でも……」
小さい子供がむずかるように渋る陽菜。
「すでにバレてるっての」と小さく零し、オレは一つ嘆息してから、勢いよくカーテンを引いた。驚いた四つの目が、同時にこちらを向く。それが何だか不愉快だった。
「ショウちゃん!」
ベッドの背もたれから腰を浮かし、陽菜は前のめりになって言った。
隣のパイプ椅子にはやはり古後が腰かけていた。生乾きの黒髪は濡れていた時よりも無造作に跳ね、先ほどはかけていなかった黒縁眼鏡の下で、目を大きく見開いている。
「おま……っ。掛川……っつ!」
驚いた様子で立ち上がった古後は、勢いあまったのか、ベッド脇の小机に青いジャージに包まれた長い足をぶつけて悶絶した。
「っつうぅ……。そうか、さっきから篠宮さんが言ってた幼なじみの『ショウちゃん』いうんは、掛川のことか……」
「カナくん、大丈夫?」
陽菜は呻いたままの古後を気づかって尋ねる。オレは胸がスッと冷えていく心地がした。
――――カナ、くん?
陽菜の唇が形作った言葉を脳内でくり返す。古後カナタだから『カナくん』……か?
何だそれ。ますます面白くない。この短時間でいつの間にあだ名で呼ぶくらい仲良くなったんだよ。
俺はもやもやした気持ちを鎮めるために、首を横に振った。
陽菜は元々人なつっこい。後輩の叶のことだって「カノちゃん」と呼ぶくらいだし、別段気にするほどのことじゃないはずだ。
俺は手の甲で額をこすった。
でも……何だ? 何がこんなにイヤな気分にさせるんだ?
陽菜が倒れる前に気にかけてやれなかったことに対してイライラしてんなオレ……。それとも倒れたくせにへらへらしてる陽菜にイラついてんのか……。
オレが胸のうちで燻る苛立ちに自問自答していることなど露知らず、陽菜は「えーと」とオレと古後を交互に見てから首をひねった。
「ショウちゃんとカナくんは知り合いなの?」
「……さっきの試合で知り合った。オレの隣のコースで泳いでたのが古後だ」
オレはあごをしゃくって古後をさした。陽菜の目がらんらんと輝く。
「ほえ……じゃあ三コースで泳いでた速い人って」
「ああ、俺や」
古後が陽菜の言葉の続きを引き継いだ。そうするやいなや、陽菜はパンっと両手を合わせた。
「すっごーい! カナくん速いんだね! お魚さんみたいだね! ビューンって!」
童みたいに無邪気にはしゃぎながら、陽菜はクロールの真似をする。オレは陽菜の頭を軽くこづいた。
「こっのバカヒヨコ! お前には病人って自覚がねーのか!」
「病人じゃないよ! 病み上がり!」
「どっちにしろ悪いわトリ頭! 大人しくしてやがれ!」
オレが怒鳴りつけると、陽菜は餅のように頬を膨らませた。
「私トリ頭じゃないもん!」
「いーやトリ頭だね! ヒヨコだからトリ頭で十分だ」
「うー!」
いい反論が浮かばなかったのか、陽菜は懐かない獣のようにうなる。すると、静観していた古後がとうとう吹きだした。
「ぷ……っ。す、すまん。続けて」
謝りながらも、古後は笑いの発作に見舞われたのか、クスクス笑いを止めない。陽菜は完全にむくれた。
「カナくんまで私のことバカにしてー! ひどいよー!」
「い、いや微笑ましくて。なんやお邪魔そうやし俺そろそろ集合場所に戻らなアカンし、行くわ――――っと、あ、そうや。篠宮さん、すまんコレ……」
古後はジャージのポケットからおもむろに何かを取りだした。それを見た瞬間、陽菜の表情が青くなったかと思うと、絹を裂いたような悲鳴をあげた。
「ひあぁぁぁあっ。私の『ワルひよ』がぁぁぁぁぁっ」
古後のポケットから出てきたのは、オレが夏祭りの射的で陽菜に取ってやった『ワルひよ』のマスコットだった。だが、あの時は新品だった『ワルひよ』は、いまやチェーンが外れ、小さい腕がもげて中の綿がはみ出てしまっている。
一体どういうことかと目をむくオレとこの世の終わりのような表情を浮かべる陽菜へ、古後は説明した。
「覚えてへんか? さっき会場の廊下ですれ違った時に、俺のスポーツバックの金具と篠宮さんのカバンに付いてたマスコットが引っかかったんや。それを外してる最中に篠宮さんが倒れてもうたんやけど……」
「ヒヨコの体重につられて、『ワルひよ』が破けちまったのか」
オレが納得して呟く。
陽菜は今にも屋上から身を投げそうなくらい悲愴な表情を浮かべたままだった。両方の頬に当てた手の爪が、柔らかい肉に食いこんでいる。
口を開いたかと思えば、出てきたのは「ワルひよが……」という床に伏せった患者のように弱弱しい声だけだった。
「しゃあねーだろヒヨコ。こんなん縫いあわせれば何とか……ならねえな、お前の裁縫壊滅的だし」
ヒヨコは、料理は上手いが裁縫は大の苦手だ。エプロンを縫う授業ではなぜか隣でミシンを使っていた女生徒のスカートをエプロンに縫いつけるし、オレのカッターシャツのボタンを縫いつけると意気込んで針でオレの手首をぶっさしたこともあるくらいだ。
オレはその時の傷あとを撫でながら、他の方法を考える。
「じゃあおばさんか、オレの母さんに頼んで縫いつけてもらうとか……」
言いかけて、やめる。
陽菜の裁縫が壊滅的なのは母親ゆずりだと以前うちの母親から聞いたことがあったのを思い出したからだ。そう言った母親も裁縫をしている姿を見かけたことがないから間違いなく下手なんだろう。そしてオレも人のことが言えないくらいに下手だ。
あれ……ダメじゃね?
オレの表情が曇ったことで大体察したのだろう。陽菜は半べそをかいた。
「ワルひよがー……」
「ああもう、泣くなよ。ワルひよなんてまたオレが取ってやらぁ」
オレは陽菜の赤くなった鼻をつまみながら言う。陽菜はこもった声で「でもぉ」とぐずった。
「あの、よかったら」
古後が遠慮がちに口を開いた。
「オレが直そか? そのマスコット。裁縫とか、わりと得意やねん」
…………。
オレと陽菜は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で古後を見つめる。古後は言ったあとで、少し照れくさそうに顔を赤らめた。
「……は」
この熊みたいな男が……人のことは言えないがムダに図体のでかいこの男が……裁縫? えーと……。
「はああっ!? なんだよお前そのなりでちまちま人形の洋服縫ってたりすんのか?」
「な……っ人形の服はたまにしか縫わへん!」
小バカにするオレに向かって、真っ赤になりながら古後が反論する。その内容がおかしくてオレはまた笑った。
「マジで縫ってんのかよお前ー! オトメンか! オトメンなのか!?」
「ば、バカにすんな! 年の離れた妹がよく人形の服破るから、それ縫うたるだけや!」
「そ、それは優しいお兄ちゃんだなぁオイ!」
笑いの発作が収まらないオレは古後を指さして笑う。古後はますます赤面して「ああ……だから言いたくなかったんや」とぼやいた。
オレが笑いすぎて盛りあがった目尻の涙を拭っていると、陽菜が小さく呟いた。
「いいの? カナくん」
「え……?」
「ホントに縫ってくれるの? ワルひよ。直る?」
陽菜はベッドから滑り落ちそうなくらい前のめりになって言う。人形のようなまつ毛に囲まれた瞳はいたって真剣だった。
「……あ、ああ。直せるで。ホテルに置いてる荷物にソーイングセット入れてるから、今日の夜に直して、明日には渡せると思う……」
古後がそう言った瞬間、明かりが灯ったように陽菜の表情がパッと明るくなった。耳を垂らしていた犬が、主人が帰ってきたことで飛び上がり喜ぶ時の様子にも似ている。オレはこの陽菜の表情がすごく好きだ。好きだけど……。
……何だか、面白くない。
ジャージの上から胸の辺りを押さえる。ひと泳ぎしてサッパリしたあとなのにムカムカした。
陽菜の笑顔を引きだしたのが、オレじゃなくて古後だから面白くないのか……。
「ありがとうー! カナくん! 神様! 大仏様! 良い人! ありがとー! お願いしてもいい?」
波立ったオレの胸の内なんて知りもしないんだろう。陽菜は無邪気に笑って喜ぶ。古後はひらひらと手を振った。
「いやいや、気にせんでええて。妹が『たまひよ』に夢中でグッズ壊れたらしょげてるのよく見るから、篠宮さん見てたら妹見てるみたいでほっとかれへんねん。自慢じゃないけど、直すのはお手のものやから安心して」
「ありがとー! あ、じゃあメアド教えてもらってもいい? 明日受けとりに行く時連絡する!」
陽菜は枕元に置いていた携帯を開き、古後と連絡先の交換を始める。それにももやもやしてしまって、オレは仏頂面になった。
アドレス交換って……そんな必要あんのかよ。あらかじめ落ち合う時間を決めてれば済む話だろうが。
そうは思うものの、古後に嫉妬していると思われたくなかったオレは不満を胸の中で噛み殺した。




