終わりの始まりを僕は知らない
特に取り柄のないオレだが、泳ぐのは好きだ。嫌なことも身体を動かしていれば多少は気がまぎれるし、水に身体を預けるのは気持ちいい。
そして、ライバルたちとタイムを競いあい、しのぎを削ることも。
今年の『全国中学校水泳競技大会』の会場は、神奈川県にある横浜国際プールだった。
屋内温水プールのメインプールには大きな電光掲示板があり、四千もの観覧席が設えられている。けれど水の中では、観覧席にかけた客たちの割れんばかりの歓声もどこか遠くに聞こえた。
クロールをしながら、隣のコースをちらりと盗み見る。激しい水しぶきを上げて水をかく隣のコースの選手は、オレより頭一つ分前を泳いでいた。
速い。これが全国クラスか……。
力強く水を蹴り、スピードを上げる。向こうもラストスパートをかけてきた。ほぼ同時に壁をタッチして顔を上げる。
ゴーグルを押しあげる間ももどかしく横を向いたオレは、呼吸が整わないまま隣のコースの男に尋ねた。
「名前は?」
声がそろったことに驚いた。相手も同時に同じことを尋ねてきたのだ。
オレとそいつはその場で肩を震わせ、少しの間笑いあった。
「掛川翔唯だ。お前は?」
「古後。古後カナタ。お前、速いな」
イントネーションで古後が関西の人間だということはすぐに分かった。
プールから上がると、古後はゴーグルとキャップをはずし、犬のようにぶるりと頭を振って水気を飛ばす。その仕草と精悍な顔つき、それから大柄な体格のせいか、ボアハウンド犬を彷彿とさせる男だ。
オレは漆黒の髪をかきあげた古後をじっと見据える。負けず嫌いなオレだが、これまではっきりとしたライバルはいなかった。
まさか中学三年でこんな好敵手に巡り合えるとは、と、気分が高揚する。古後の晴れやかな表情から察するに、あいつも同じことを思っていそうだ。
「古後お前、こんなに速いなら間違いなく全国区だろ。でもお前と試合するのは初めてな気がするんだけどな」
「ああ……」
オレの質問に、古後は苦虫を噛みつぶしたような表情で答える。
「俺、あんまりついてへんねん。転勤族やし、大会の度に年の離れた妹が熱出したりして、両親は仕事やから代わりに看病させられたりとか、大会前にケガしたりとか」
「そういや幸薄そうな顔してんな」
「あー……気にしてるからいじるなや」
水中ではガンガン飛ばす割に、陸上ではあんまり気の強い方ではないらしい。オレが鼻で笑い飛ばすと、古後は鍛えぬかれた肩をがっくり落としてうなだれた。
なんとなく古後とは仲良くなれそうな気がした。あとで暇があったら携帯のアドレスでも訊くか。でもその前に……。
オレはプールの両側に設置されたスタンドを眺めた。
人がすし詰めになっていたって、この目は陽菜を見つけられる。下から三段目にかけていた陽菜と目が合うと、興奮気味の陽菜は細い腕を大きく上げて、もげそうなくらい手を振ってきた。口の動きで「ショウちゃん!」とオレの名を呼んでいるのが分かる。
オレは気恥ずかしく思いながらも、どこかくすぐったい気持ちに包まれて小さく手を振り返した。
そうだ。まずは陽菜に大会の感想を聞こう。オレの泳ぎを見て株が上がってたりしたらいいんだが……そんな都合いい展開はねえよなぁ。
大きい会場での大会と、ライバルに巡りあえたことに対する興奮はまだ冷めない。
予選を終えたオレはほくほくした気持ちのまま、一階にある更衣室でジャージに着がえる。すると、突然首の後ろにひやりと冷たい物を当てられた。
「つめって……! 叶!」
「お疲れ様っス! センパイ」
叶は人好きのする笑みを浮かべながら、オレにスポーツドリンクを差しだす。首へ当ててきた冷たい物の正体はこれらしい。
オレが礼を言ってペットボトルを受けとり、キャップを開けていると、ニヤニヤした叶の視線を横から感じた。
「なんだよ。変なクスリでも盛ってねぇだろうなコラ」
「心外ッスよ! それよりセンパーイ。見ましたよー? 陽菜センパイ応援に来てましたね! 観覧席から手振ってて可愛かったなー。羨ましいッスよホント! 彼女と別れたと思ったら、とうとう陽菜センパイと付きあいだしたんスか? そこんとこ詳しく教えて下さいよー」
「うるっせぇなあ。ちげーよ。水泳の大会がどんなもんか見てみたかったんだってよ」
オレは叶に向かって煙たそうに言う。叶は食いさがった。
「それはきっと掛川センパイの試合が見たかったんスよ! いいなーラブラブ! 初体験の感想は主に陽菜センパイのプロポーションについて事細かく教えて下さいね! あとはどんな声で鳴……っぶ!」
「発言がゲスいんだよお前は!」
けしからんことを言った叶の顔面にスポーツドリンクをかける。それでもけろっとしている叶を無視し、着がえ終わったオレは陽菜と合流しようとベンチから立ちあがる。その時、後輩の一人が慌てた様子で更衣室に入ってきた。
「掛川先輩! もしかして会場に篠宮先輩って応援に来たりしてますか!?」
またしても陽菜の名前が出たことに、オレのまなじりが険しくなる。
「来てるけど、お前らまでヒヨコの話題か……いい加減に……」
うろたえた様子の後輩を見て、オレは「いい加減にしろ」と言い終える前に口をつぐんだ。
「……ヒヨコがどうかしたのか?」
「さっきそこの通路で、篠宮先輩に似た人が倒れたんですよ。その人が他校のジャージ着た奴に医務室に運ばれていって……って、先輩!?」
話を聞き終える前に、オレは更衣室から転がるように飛び出した。嫌な予感に背中を押される。
くそっ。陽菜はこの前の夏祭りでもふらついてたのに、何で油断してたんだオレ。舌打ちしたい気分だ。陽菜が倒れる前にもっと気にかけてやればよかった。
呑気そうに歩いている他校の奴らを押しのけ、廊下を走る。後ろから憤慨する声が追いかけてきたが、振り向かなかった。
そして更衣室と同じ一階にある医務室の前までくると、乱暴にドアを開けようとして――――ふと手を止めた。
「…………」
落ちつけ。もしかしたら陽菜以外にも体調不良で休んでいる人がいるかもしれない。うるさく入っては迷惑だろう。オレは荒くなった息を整えながらそう考える。
気が落ちついたところでそっとドアを開けると、中から弾むような笑い声が聞こえてきた。
このカナリアのような声は陽菜のものだ。よかった。思ったより元気そうじゃねぇか。
細く安堵の溜息を吐く。そこで「うん?」と小首を傾げた。
陽菜の奴、誰と話してんだ……?
どうして焦っているのにそうしたのかは分からない。分からないが、オレは気配を殺して、陽菜が横になっているだろうベッドへ近寄った。
ベッドの周りはカーテンが引かれて仕切られていた。カーテンに映った二人分の影の片方が熊のように大きいことと、漏れ聞こえてくる声が低いことで、陽菜と話している相手が男だと分かる。
そういえば、他校の奴に運ばれてたって後輩が言ってたな……。
独占欲が強いオレの心で、小さな嫉妬が煙をあげる。陽菜の身体に誰かが触れるだけで面白くないと思ってしまうオレは、どれだけ陽菜に執着しているんだろう。
どうやら室内にいるのはオレと陽菜と、陽菜を運んだ男だけらしい。オレがいることに気づかない二人は、会話に花を咲かせていた。
「そうなの! ショウちゃんの応援でここまで来たんだー! あ、ショウちゃんっていうのは私の幼なじみでね、おっきくて、泳ぐのが上手なんだよ」
「そうなんか」
大きい影の持ち主がゆったりとした声で言う。オレは本日二度目の関西弁に瞠目した。
全国大会だから関西から来ている奴は沢山いるに違いない。けど……。
古後……か?
聞こえてきた声は、先ほど対戦を終えたライバルの声に似ていた。