夏祭り(前編)
七月下旬の六時はまだ明るい。
まるで水中にいるような色に染まった住宅街をぐるりと見回し、オレは腕時計へ視線を落とした。
その動作を二回繰り返したところで、背後の家の玄関が開いたかと思うと、細長い明かりが漏れ、ついでからころと楽しげな下駄の音が聞こえてきた。
「おっせぇよヒヨコ」
「ごめんねショウちゃん! 着付けしてもらうのに時間かかっちゃって……」
出てきた陽菜は、白地に水色の朝顔と流水が描かれた浴衣を着ていた。差し色にグラデーションのかかった赤紫の帯をしめている。
いつもは両サイドで二つにくくっている髪も、今はすっきりと纏められ、高い位置でお団子になっていた。
あらわになった白い項が、色気とは無縁そうな陽菜を匂い立つほど扇情的に見せている。
「…………」
たっぷり三十秒、オレは言葉を忘れて陽菜に見入っていた。
穴があくほど陽菜を凝視するのを終えたのは、陽菜が怪訝そうにオレの眼前で手を振り、反応のないオレに声をかけたからだった。
「ショウちゃん? ショウちゃんってばー!」
「あ? ああ……ワリ、何だ?」
「もー! やっぱり聞いてなかったー! ふくふくのお団子! 可愛い?」
ふくふくって何だよお前。そのふんわりしたお団子頭のことか。
オレが呆れていることに気付いたのか、陽菜は頬をハムスターのように膨らませた。
「ショウちゃんってば! 可愛い!?」
「へーへー可愛いー可愛いーヒヨコちゃんは世界一可愛いですねー」
「心こもってないもん! ショウちゃんのバカ!」
ふてくされた陽菜は財布と携帯の入った巾着でオレを叩いてくる。
浴衣姿が儚げで、かぐや姫のように月に帰ってしまいそうな雰囲気を漂わせていても、陽菜はやっぱりオレのよく知る陽菜だと思うと少し安心した。
「乱暴な女は祭りに連れてかねーぞ」
「えっ!? やだやだ! だってお父さんもお母さんもショウちゃんが一緒だからお祭り行くの許してくれたんだよ! 一人だったら早く帰ってこなきゃダメって言われたもん!」
「ああん? 言っとくけどそんな長居しねぇぞ」
「ええっ。で、でもでも綿あめと林檎飴と、かき氷とベビーカステラとクレープは食べようねショウちゃん……っ!」
「清々しいくらいの食い気だな……。ほら、行くぞ」
オレは陽菜の白魚のような手を引く。
手のひらが肉球みたいにプニプニしていたガキの頃からずっと手を繋いできたというのに、何故か年を重ねるにつれて緊張が増していくのが不思議だった。
手のひらに陽菜の体温がうつるたび、胸を甘く締めつけられているような感覚になる。
オレが陽菜の手のひらを意識していると、突然パッと手を離された。
「…………っ」
一気に隙間風が吹いたような心地に襲われる。オレの動揺を知らない陽菜は、二歩ほど下がり、浴衣の袖を持ちあげ、くるりと回って見せた。
「ねーショウちゃん、じゃあ浴衣は? 可愛い?」
「……え」
「だめー?」
陽菜はがっくりと肩を落とし、目に見えて消沈した。オレは小さく苦笑を零す。
「……しょげんなよ、可愛いっての」
「……っ! やったぁ。よし、ショウちゃん、早くお祭り行こー!」
オレの一言で即座にご機嫌になった陽菜は、今度は自分からオレの手へ腕を伸ばし、手を繋いできた。下駄を騒がしく鳴らしながら走る陽菜を叱りながらも、オレは温もりが戻ってきたことにホッとした。
神社に辿りつくと、提灯に照らされた参道の両脇には屋台がずらりと並んでいた。
焼き鳥に林檎飴、焼そばにフランクフルト、クレープにチョコバナナ。他にも腹の虫を刺激するような店が並び、ソースの香ばしい香りが夜風に乗ってオレと陽菜の鼻腔を刺激した。
「結構人が多いな」
手を繋いでいないと人の波に流されそうだ。
はぐれた時は机やパイプ椅子が並べられた休憩所の簡易テントに集合することを決めてから、オレと陽菜は屋台を冷やかしに回る。
陽菜は早速イチゴ味のかき氷を食べたいと言ったが、それでは両手がふさがって手を繋げなくなると危惧したオレは、片手で食べられるチョコクレープを買ってやることで陽菜の気をそらした。
「んー! 美味しいー! しああせ!」
「呂律回ってねぇし……浴衣にチョコつけんなよ」
「大丈夫ー!」
陽菜は小さい口をもごもご動かしながら答える。オレはラムネをあおりながら、祭囃子に耳をすませた。
こんなんで陽菜が幸せになれるなら、来年も連れてきてやるか。その時にはもう少し距離が縮まってりゃいいんだが……。そうだな……例えば……。
オレはヨーヨーすくいの前でほうけている男や、いか焼きを口にくわえたまま立ちつくしている野郎を見やる。
頬を染めたあいつらの熱い視線の先にいるのは、とろりと幸せそうな笑みを浮かべた陽菜だった。
例えばあいつらに優越感たっぷりの笑みを投げかけて、陽菜の腰を抱いて人波に消えていけるくらいには、距離が縮まってりゃいいのに。
そう思ってたんだ。この距離は縮まることはあっても、離れることはないと信じてた。信じたかった。