後悔に気配はない
まず初めに、オレは同情されるような出来た人間じゃない。それだけは伝えておく。
投げだした四肢を水に預ける。
風船にもたれているような浮遊感を味わえるこの時が好きだ。ちゃぷちゃぷと囁きあっているような水の音も、仰向けになった視界に時折入ってくる水しぶきも好ましい。
此処は通っている中学校の屋内プールだが、抜けるような青空の下ならもっと気持ちいいだろうな、と腕で水をかきながら思った。
「あー……」
極楽極楽。
声変わりを終えたテノールで年に似合わぬ台詞を吐いていると、頭上に影がかかった。オレは首をもたげ、影の主を探す。
視界に入りこんできたのは、プールサイドで腰に手を当て仁王立ちしている幼なじみだった。
指定の夏用制服を着用した陽菜は、濡れないように白ソックスだけ脱いでオレを見下ろしている。下から眺めると、あのちんちくりんだった陽菜とは思えないほどすらりと伸びた白い足が壮観だった。
そしてその先にある、短いスカートから遠慮がちに覗く薄いピンクも……は? ピンク?
陽菜のパンツを視認したオレは、目つきが悪いと定評のある切れ長の目をカッと見開き、「ふがぶっ」という不甲斐ない声を漏らして沈んだ。
「ショウちゃん!?」と陽菜のとり乱した声が聞こえたが、困惑しているのはオレの方だ。
小学生の頃は一緒に風呂だって入ったし、陽菜がよく転ぶせいで色気の欠片もないクマさんパンツなら両手で数えきれないほど見たことがあるが……なるほど中学生になると妙に色気づくものだ。
いつの間にか黒いレースがあしらわれたピンクのパンツをはき始めただなんて、陽菜は大人になろうとしているんだな。
オレはしみじみしながら、しっかりと陽菜のパンツを網膜に焼きつけ、ついでに頬の熱も冷やしてから、水面に顔を出した。
「もー……部活終わったからって水泳キャップ外してプカプカ浮かんでるからだよー……」
どうやら陽菜はオレが足をつったと勘違いしているらしい。
プールの縁ぎりぎりでしゃがんだ陽菜は、こちらへと手を伸ばし、塩素にやられて脱色したオレの短い前髪をといた。
「大丈夫?」
「こうるせえなぁ……何だよ、水泳部に顔出すなんて珍しい。調理部は終わったのか?」
「うん。だから一緒に帰ろうと思って迎えにきたの。あ、あとねあとね、お願いがある!」
頭をひょこひょこさせてお願いするところは相変わらずヒヨコみたいだ。次の動きを待っていると、陽菜はスカートのポケットから折りたたまれたチラシを取りだし、オレの眼前で広げて見せた。
「じゃーん! あのね、近所の神社でね、今日夏祭りがあるらしいの。ショウちゃん、一緒に行こう?」
「夏祭りぃ……?」
オレが巻き舌気味に訊き返すと、陽菜は小さい頭を何度も振って頷く。黒真珠のような瞳が期待で輝いていた。
くそう……。オレがその瞳に弱いことに気付いてないからタチわりぃ……。そんな目で見られたら何だって叶えてやりたくなるに決まってるだろうが。
「えー……たりぃなあ」
「ダメ? ダメでもお願い。ねっ。ショウちゃんお願いー」
「ヒヨコのお願いは一日に何回もあるじゃねえか……つか、お前身体よわっちぃのに人ごみ行っても大丈夫なのかよ」
陽菜は仕草が騒がしい割に身体は丈夫じゃない。朝礼中に貧血で倒れることもしょっちゅうだ。それを懸念して言うと、陽菜は輝くような笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ! だってショウちゃんがいるもん!」
「…………」
「ね? ショウちゃん。……ショウちゃん?」
「――――六時に家の前に集合な」
オレがいるから大丈夫とか、こいつはオレを信頼しすぎだろう。くそ、可愛い。
そう思いながらもオレはわざとらしく溜息を零し、渋々といった感じで言った。
陽菜の表情がパッと華やぐ。
「やったー! ショウちゃん、ありがとー! 大好き!」
「す……っ!? ば、ばっかじゃねーの!? 中学生にもなって幼なじみ相手に好きとか子供っぽいこと言ってんじゃねーよ! ああもう、プール上がるから外で待ってろ! 日陰で待ってろよな!」
「はーい」
陽菜は弾んだ声で返事をすると、スキップしそうな勢いで屋内プールから出ていった。その後ろ姿を眺めながら頬の火照りをさますオレ。
すると、後ろからばしゃりと水をかけられた。
「センパーイ、見せつけないで下さいよー」
「ああん? 別に何もしてねぇだろうが、叶」
水をかけてきた犯人である、軟派な部活の後輩を睨みつけながらオレは低い声ですごんだ。
一つ年下の叶はおびえた様子もなく、ゴーグルの痕がくっきりついた顔をオレへ向けて言った。
「してるじゃないスか。あんっなに可愛い幼なじみさんをこんな所に連れこんだりしてー!」
「別に連れこんでねぇよ。ヒヨコの奴が勝手にきただけだろ」
「あー! また自慢ッスか? いいなぁ校内一の美少女が幼なじみ……うちの学校の男子はみーんなセンパイのこと羨んでマスよ?」
ゆるやかにウェーブのかかった天然パーマの髪をキャップの中にしまい直しながら、叶は続けて言う。
「掛川センパイさえいなかったら、陽菜センパイに堂々と告白出来るのにーって」
掛川はオレの名字だ。オレは叶の不穏な発言を聞き、鼻の頭に皺をよせた。
陽菜に告白? 他の野郎が? やめろよ虫唾が走る。
だが同時に、オレと陽菜は周りから『そういう関係』だと思われているのだと思うと気分は悪くなかった。
しかし……。
「でもいいんスか?」
てすりを上ってプールを後にしようとするオレの背中へ、叶が声をかける。
「あんだよ」
「いや、だって。センパイって他校の水泳部の女の子と付きあってなかったですっけ? 幼なじみとはいえ陽菜センパイとお祭りに行ったりしたら、彼女さん妬くんじゃありません?」
「あー……大丈夫だろ」
歯切れ悪くオレは答えた。
そう、オレは陽菜以外の女と付きあってる。水泳の大会で知りあって、しばらくメールしてたら告白されたから、数日後にオーケーした。
決してイケメンとは言えないオレだが、水泳をしているお陰で腹筋は六つに割れているし、がたいも良いから、そういう体型が好きな女にだけは需要があるらしい。
で、なんで陽菜が好きなのに別の女と付きあうのかって?
簡単だ。男っつうのは、好きな女とじゃなくてもヤれる。いや、オレは童貞だけど。
つまり、そこそこ可愛い女に告白されたら悪い気はしないし、キスとかエッチとか、性への興味もあるから付きあったわけだ。
最近は周りとも女とどこまで進んでるのか報告しあっては内々で男の地位のランク付けをしたりするから、遅れをとらないように何となく付きあって何となくキスまでは済ませた。オレは女と違って、初めては好きな人じゃなきゃ嫌って気持ちはないから。
でも。
「もう別れるから問題ねぇよ」
陽菜とのことに支障が出るようなら、地位も、他の女もいらねえや。
――――なあ。利己的でどうしようもないクズだから、オレは陽菜に選ばれなかったんだろうか?
流れていく時の中で、大事な未来が変わる要因の出来事が起こる時、それが必ずしも劇的なことだとは限らない。
そのことをまだ知らなかったオレは、夏祭りに行くことを安請け合いしたことを、この先後悔することになる。そう、一つ目の後悔だ。