プロローグ
――――全てが君へと繋がるのなら、悪くはないよ。
「ねえ、ショウちゃん。私ね、告白されちゃった」
低い位置で二つに結んだ髪を揺らしながら、陽菜は照れくさそうに言った。
あいつの白くて細い腕には自分の部屋から持ちこんだヒヨコの抱きぐるみが収まっていて、此処はオレの部屋で。
部活帰りにオレの狭い部屋で幼なじみの陽菜とくつろぐのも、少し開いた窓から差しこむ西日が陽菜の栗色の髪を照らすのもいつものことで。
母さんが娘のように可愛がっている陽菜のために入れたオレンジジュースが汗をかいている光景も、オレが青いベッドシーツの海に寝そべって雑誌片手に陽菜の話に耳を傾けることも、この先ずっと変わらないと思っていたのに。
「付き合うことになったんだぁ」
どんな喧騒の中でだって一瞬で聞き分けることができたはずの、あいつの鈴を転がしたような声が遠い。
まるで重石をつけられて海の底へと沈んでいくようだ。水面の輝きがどんなものだったのか忘れるくらい、目の前が暗くなっていくような感覚。
全身をひやりとした腕で撫でられたような心地がした。
延々と同じレールの上を走れるはずなんてないのに、何故かオレは幼なじみといつまでも一緒にいられるという幻想を信じて疑わなかった。
この先も陽菜の一番近くにいるのは自分だっていう妙な自信があった。
いや、いつかは二人とも死ぬし、離れる日がくるとはぼんやり思っていたけど、まさかこんな唐突に終わりがくるなんて。
二人を裂くものが、あるなんて。
初めて陽菜に出会ったのは、オレが小学校に上がる年のことだった。
隣の家に引っ越してきた陽菜は、母親に連れられてオレの家へ挨拶にきていた。
玄関先で母さんと話に花を咲かせる陽菜の母親。その背中に隠れるようにして、陽菜はこちらの様子をきょろきょろとうかがっていた。
彼女のくるくる回る瞳と仕草がヒヨコに似ているな、と思って眺めていると、ばっちりと目が合ってしまった。
その瞬間、陽菜の満月みたいに大きな目が見開かれた。そうかと思うと、陽菜はオレを指さして興奮気味に言った。
「たまひよだ!」
「え……ああ……おう」
陽菜が指さしたのはオレの首にかけられたタオルだった。
スイミングスクールから帰宅したばかりで髪が濡れていたオレが使用していたタオルには、卵の殻を被ったふてぶてしいヒヨコのキャラクター『たまひよ』が描かれており、どうやらそれが陽菜の興味を引いたようだった。
母親の背中から完全に姿を現した陽菜は、小さい身体の何処に隠していたのか、五十センチはある『たまひよ』の抱きぐるみをずいとオレに差しだして見せた。
「君も『たまひよ』好き? あのね、陽菜も『たまひよ』好きなの! お揃い!」
小粒の歯を見せて、陽菜は満面の笑みを浮かべる。その様子は小動物のように可愛らしくて、それこそやっぱりヒヨコを連想させられたオレは思わず呟いていた。
「ヒヨコみてぇ……」
「こら、翔唯! すみませんうちの子ったら……」
頭上からオレをたしなめる母さんの声が落ちてきた。母さんは陽菜の母親に軽く頭を下げ、それから陽菜に優しい声で謝った。
「ごめんね、陽菜ちゃん」
陽菜は長いまつ毛に縁取られた瞳をぱちぱちと二回瞬いてから、不思議そうに首を傾げた。
「陽菜は人間なの。ヒヨコじゃないの……」
あ、こいつちょっと頭のネジ緩そう。
そう思った時には、口の悪いオレは「んなこと知ってる」と口走っていた。
母さんから今度は拳骨が落ちてきた。
「仕草とか、雰囲気がヒヨコみてーってこと。お前今日からヒヨコな。ヒヨコって呼ぶ」
「えー! うーん、うー……陽菜は陽菜だよー陽菜ヒヨコじゃないのにー……」
陽菜は知恵熱が出そうなくらい頭を抱えて唸りだした。それが面白くて笑っていると、陽菜はふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、君の名前は?」
「オレ? 翔唯だけど……」
何となく嫌な予感がした。変わった名前だと言われることが多いオレの名前だが、呼び名は大抵決まっている。そう――――……
「じゃあ陽菜は翔唯くんのこと、『ショウちゃん』って呼ぶ!」
ほらきた。みんなそう呼ぶんだ。
特におつかいをお願いする時の母さんがオレを猫撫で声で『ショウちゃん』と呼ぶのはお決まりのことで、その呼び方をされる度にオレは薄い眉をひそめてしまう。
けれど、どうしてだか陽菜に呼ばれる『ショウちゃん』は甘ったるく感じた。同時に羽根で撫でられたようなくすぐったさにも襲われた。
オレはむず痒い気持ちになって、複雑な表情で陽菜を見つめる。そこで、はたと気づいた。
陽菜は可愛かった。幼稚園の時にクラスでアイドル扱いされていたチカちゃんよりもずっと黒目がちで二重がくっきりしてて、鼻は小さいけど針金を入れたように筋が通っていて、薄く端正な唇はバラ色をしていて。人形のように愛らしかった。
それを意識した途端に、頬が熱を持った気がした。気がしたのではなく本当に真っ赤になっていたと思う。
そう、思えば――――……
「よろしくね、ショウちゃん!」
思えばこの瞬間から、オレは陽菜に恋をしていたんだ。
……現実はドラマの欠片もなく残酷で、冷たく進むことをまだ知らなかったから。
亀のような歩みの更新になると思いますが、気長に付き合っていただけると嬉しいです。