コリウス・スタンダル その1
世界には二つの大国がある。
北の大国、エイグル。南の大国、ソルティア。北は寒く、南は暑い。
ソルティアの暑く乾いた砂漠を、コリウス・スタンダルが歩いていた。砂漠を歩くのには必須であるローブで全身を覆い、沸騰しそうな空気、照りつける太陽、砂漠が反射する光の全てから身を隠している。
それでも、足取りは重く、息は荒かった。
当然であろう。ローブの下に、コリウスは聖騎士としての装備を一式、全て身につけていた。砂漠地帯では命取りだ。祝福された鋼鉄製の鎧、ミスリルの篭手とブーツ、儀式にも使用可能な銀とミスリルの合金製の両手剣すら、腰に携えている。
この装備で砂漠を歩くなど、自殺行為に他ならない。
聖騎士という称号を手に入れられるのは、エイグルの王家直属の聖騎士部隊に所属する者だけだ。そして、聖騎士の装備を身につけていることからも分かるように、コリウスは聖騎士部隊に所属していた。
そう、かつは、所属していた。
コリウスは聖騎士部隊を飛び出していた。そうして、ソルティアの地を自殺するように彷徨っているのだ。
――違う。
コリウス自身は、自殺しているという意識はなかった。ただ、死んでもいいかもしれない、とは思っていた。ただそれだけだ。
死んでもいいと思いながら、あてもなく歩き続けていた。エイグルを歩くのは嫌だったから、ソルティアに来た。砂漠を歩いたのは、ただそこに砂漠があったから、歩いてみようと思っただけだ。聖騎士の装備のままなのは、これ以外の格好を知らないから。
ただ、それだけのことなのだ。
コリウス・スタンダルはエイグルの片田舎に住む下級貴族の四男として生を受けた。四男であれば、後継者が次々に死ぬようなことでもなければ、家を継ぐことはまずない。それでなくとも、スタンダル家はただの下級貴族。何もせずに食っていけるような家柄ではなかった。
だから、何かの職につけるように、幼い頃にコリウスは勉強させられた。子どもたちに勉強を教えている教会の神父のところに通い、通っているうちに神の教えに興味が出てきた。
いや、違うか。
自分に嘘をつく必要はない。興味が出てきたのではない、神の教えについて質問すれば、神父が喜んでくれるから。自分を、ひいきしてくれるから。
始まりはそんなところだったのだと、コリウスは思っている。
エイグルが信奉しているのは、名前の必要のない唯一神だ。その神の教えは何よりも重く、絶対だという。
神の教えについて勉強しているうちに、神聖魔法についても詳しくなり、そうしてごく初歩のものならば使えるようになっていった。
周りからは褒められたし、何よりも。
――間違っていないのだ。
何が正しいかなんて自分には分からない。分からないから、せめて間違っていないものを選んでいかなければならない。
何よりも重く絶対である神の教えを信じ、その通りに精進すれば魔法が使えるようになった。確かに上達した、前に進んだのだ。
その頃には、コリウスは自分の置かれた立場がぼんやりと理解できるようになっていた。下級貴族の四男。そんな人間が、どうやって生きていけばいいのか。その疑問の答えが、出たような気がしたのだ。
今にして思えば、ただの気のせいだったが。
魔法が使えるようになったからといって、それが前に進む唯一の方法だと、自分が生きていく道はその先にしかないと考えたのは、視野狭窄もいいところだ。
とはいえ、その頃にはまだ十にも満たない子ども。仕方がないといえば仕方がない。
神父になるのだと、誇らしく思って勉強に励んだ。その思いが壊れたのは十二歳の頃か。勉強を教わっていた神父が、魔物に殺されたのだ。あっけなく。
自分よりも深く神の教えを知っていて、神聖魔法の腕も比べ物にならなかった。その神父が、殺された。
コリウスにとって、ショックだった。
とはいえ、神父が魔物に殺されることは今となって考えればおかしいことでもなんでもない。魔物が神の教えをありがたがるわけはないし、回復や補助の魔法がほとんどである神聖魔法だけでは魔物を倒すことはできない。
神の教えだけでは、生きていくことができない。命を守るには、別の力もいる。
単純にそう考えたコリウスは、その時から必死に体を鍛え始めた。
怒りもあった。
間違っていないはずの、絶対であるはずの神の教えに対して、魔物が牙を向くのが許せなかった。
だから、神の教えについて見識を深めるのと同じくらいに、体を鍛えて見様見真似で木の棒を振った。そして、弱い魔物を殺すようになった。
噂が広がるのは速い。片田舎にいる、神の教えを尊びながら魔物を殺す少年のことは噂になり、面白がって首都にいる聖職者の一人がコリウスを呼び寄せた。
より深く神の教えを学べる環境を用意され、きちんと剣の振り方を教えてもらえる兵の育成所に通わせてもらえることになった。
その代わりに、宣教師の護衛をするように言われた。
未だ唯一神の教えを知らぬ未開の地、その地に神の教えを伝える宣教師は、危険な役職だ。旅路の途中で魔物や盗賊に襲われるかもしれない。神の教えを伝えようとしたその地で、神の教えを理解しない原住民に襲われるかもしれない。
その護衛だ。
二つ返事でコリウスは引き受けた。
より深く神の教えを学べるなら、もっと強くなれるのなら、そして神の教えを広める手伝いができるのならば、それは間違っていないだろう。
だから鍛えたし、勉強をした。魔物と盗賊を、そして時には原住民を殺し尽くした。十六歳までの間、ずっとそれを続けたのだ。
別にそれが楽しかったわけではない。ただ、それをするのは間違っていないだろうと思ったのだ。
時には、女子どもも殺した。神の教えに従わないのならば、それは敵なのだ。だから殺すのは、間違っていない。命乞いをされようとも無視した。神の名の下に、神の敵を殺し尽くした。
それは、コリウスにとっては別に高尚なことではない。生きる手段なのだ。神の教えを学ぶことも、体を鍛えることも、そうして神の敵を殺すことも。
貴族の四男である自分が生きる手段として、間違ってはいない。だからそれをしているだけなのだ。
十八歳の成人の儀の後、コリウスは数人の聖職者の後押しを得て、王家直属の聖騎士の予備隊に所属することになった。
家族の喜びようは凄まじかった。スタンダル家から聖騎士が出るかもしれないという栄誉に、湧いていた。だから、その家族の様子を見て。
ああ、やはり間違ってはいないのだ、とコリウスは思ったのだ。
予備隊になってからのコリウスも、やることは変わらなかった。神の教えを尊び、神聖魔法と剣を鍛え、そして敵を殺す。それだけだった。他にやることも思い浮かばなかったし、何よりもそれをしておけば間違いはないのだ。
他の者が躊躇うような、神の教えを拒否する非戦闘民を殺すことも、率先して行った。なにしろ、間違ってはいないのだから。
やがて剣の腕が予備隊でも一番になり、神聖魔法も使いこなすようになった頃。
多くの戦績を積み重ねたコリウスは、狂信者の別名で呼ばれることになった。神の教えの為ならば、誰でも殺す、剣と神聖魔法の使い手。
コリウスは分からなかった。狂信者と呼ばれる意味が。
ただ間違っていないことをしているだけなのだ。神の教えだって間違っていないから信じているだけだ。
ただそれだけなのだ。
やがて二十五歳で聖騎士部隊というエリート部隊に所属することになる。聖騎士となって馬に騎乗し、異教徒を斬り伏せ。
そうやって生きていこうとしたのだ。それは、間違っていないと、コリウスは今でも思っている。
間違っていたとすれば、もっと、別の。
ともかく、エイグルの聖騎士として、コリウスは戦った。戦い続けた。
そうして、あの大きな戦争が起きたのだ。エイグルとソルティア、大国同士の戦い。最前線に出て、コリウスは戦った。
ソルティアは多神教だ。数多くの神を信仰している。唯一神への信仰を絶対とするエイグルとは相容れない。だから、ソルティアはエイグルに攻め込んだ。戦争の理由を突き詰めれば、ただそれだけ。つまりは宗教戦争だった。
だからこそ、コリウスは何の疑いもなく最前線で命を懸けれた。躊躇いなく多くの命を奪えた。女子どもも容赦なく。
戦争は二年間続き、そうして終わった。
決着がつかず、お互いに疲弊してしまった為だ。エイグルとソルティアは和平を結び、これからはお互いの宗教を尊重するように条約を交わした。
だから、コリウスは分からなくなったのだ。
唯一神の教えは絶対だった。金や命よりも、何よりも重いものだったはずだ。そして、それは間違っていなかった。それなのに。
――国が疲弊すれば、神の教えは絶対ではなくなるのか。
国が疲弊すれば、不都合が起こる。それくらいは知っていた。戦争よりも多くの人が死に、飢え、最悪の場合は国が滅ぶかもしれない。
だが、それは、結局のところ、命や金の問題だ。神の教えは、それよりも重い、何よりも重い絶対のものではなかったのか。
だからこそ、コリウスは多くの命を奪ってきたのだ。奪う命よりも重い、絶対的なものの為に殺してきたのだ。それが。
金や命の方が重かったというのか、神の教えよりも。
間違っている、と感じた。
だからコリウスは逃げ出した。神の教えか、国か、どちらかが間違っている。だから、どちらからも逃げるように、エイグルから逃げ出してソルティアに来た。
だが逃げたところで、コリウスには行くべき場所もするべきこともない。
だから、砂漠を歩いている。
聖騎士の装備は外せなかった。コリウスは今でも聖騎士だからだ。
コリウスにとって、生きているということは、聖騎士だということだ。それを選んだのだし、それは間違っていないと思っている。
生きていく為に、間違っていないことをする。
コリウスがしようとしたことは、言うならばただそれだけだ。シンプルな、どうと言うことのないもの。
それなのに、ソルティアの砂漠を、死にそうになりながら歩くことになるとは。
我がことながら、コリウスは不思議だった。